江戸時代の千曲川の河道について書きました。コノテガシワ(児手柏)は、江戸時代に中国から入ってきた木ですが、葉(枝)がちょうど子供が手のひらを立てているように見えることから命名され、たくさんの手を挙げて、川の流れがこちらに来ないようにと願いを込めて植えられたということです。
長野市松代町岩野の川式という旧千曲川の河道脇の御榊下(おさかきした)にあったという、コノテガシワ(児手柏)は、切られてしまいましたが、対岸の岩野橋下流には、その樹が現存しています。それが写真のコノテガシワ(地元ではコノデカシワ)です。樹下には稲荷神社の祠があります。ちょうど実がなっていました。
写真は、千曲川左岸の河川敷。樹の右側は長芋畑です。森の向こう側に千曲川があります。その奥の山は、斎場山から続く薬師山。その奥は天城山から続く唐崎山の尾根です。北から南を見た風景になります。この樹は岩野橋の上からも確認できます。岩野橋と小森の水門の中間辺りの堤防から50mぐらいの場所です。
コノテガシワ(児手柏)は、園芸種のセンジュ (千手) が庭木として売られているので、結構お馴染みかもしれません。実は、伯子仁(はくしにん)といって漢方薬に。枝葉も側伯葉(そくはくよう)といって生薬になるそうです。
いずれにしても、堤防のない時代には、洪水によって川の流れがまったく変わってしまうこともあったでしょう。家や田畑が一晩で流失してしまうことも度々あったようです。樹にたくした人々の切実な願いが聞こえてくるようです。この樹を撮影して堤防に戻ると、ちょうど堤防を高くする大規模な工事をしている人に声をかけられました。
撮影の理由や旧河道のことを話すと、非常に興味を示してくれました。現在の工法も以前とは変わってきたということです。無理矢理直線にするのではなく、地質や旧流の跡、気象の変化や、街の変化なども考慮して工事をするそうですが、科学や工法が進歩しても、やはり河を管理することは大変ですと話されていました。
さて、前回も書きましたが、戦国時代はどういう流れだったのか、江戸時代の瀬直し以前の河道と、地元に残る地名や伝承でその河道を推理してみました。それが、図の青と緑の線で描いた流路です。詳しくは、「地名から読む戦国時代の千曲川河道(第四次川中島合戦当時の千曲川)」をご高覧ください。
★また、川中島合戦と古代科野の国の重要な史蹟としての斎場山については、私の研究ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。