■この記事は、2008年の長野郷土史研究会会誌『長野』第259号に掲載された私の小論文です。
斎場山が妻女山と改名され、後に別の山に移ってしまうという数奇な運命に翻弄された歴史ある里山の話。
川中島の戦いや古代科野のクニに興味がある方はぜひご一読を。
はじめに
妻女山は、第四次川中島合戦で有名になった山であるが、麓の岩野や土口では、古来より本当の妻女山というものが言い伝えられており、往古は斎場山といった。しかし、現在その山は、国土地理院の地形図において測量もされず名無しという誠に憂うべき状況にある。地元では、そのことに長い間危惧の念を抱いてきた。
本来の妻女山が誤解された理由については、大きく四つある。ひとつ目は、軍学書であるが故に誤記も多いとされる『甲陽軍鑑』に、妻女山を西條山と記され、それが広まってしまったこと。この書には、「年号万次第不同みだり候へども、それを許し給いて」とか「人の雑談にて書記候へば、定て相違なる事ばかり多きは必定なれども」とか断り書きがあるように口述筆記のためか誤記が多い。二つ目は、江戸時代中期後半の歌舞伎や浮世絵による川中島ブームで、本来の斎場山という名称が、妻女山という俗名に置き換えられてしまったこと。三つ目は、明治2年に戊辰戦争の英霊を祀るために建立された赤坂山の招魂社が、「妻女山松代招魂社」と命名され、妻女山の名称が、本来の山から赤坂山に移ってしまったこと。四つ目は、昭和47年の国土地理院の地形図改訂の折に赤坂山の位置を妻女山と記載され、それが全国的に定着してしまったということ。
ここでは、妻女山の位置と名称の変遷を、史料や地元の伝承等を元に解き明かしてみたい。
一 妻女山は、往古斎場山であった
まず、史料や地元の村誌に記されている妻女山について記したい。
現在、国土地理院の地形図に記載されている標高411メートルの妻女山は、本来は赤坂山といい、本当の妻女山の支尾根にある頂である。本当の妻女山は、それより20分ほど南西に登った、標高513メートルの円墳(斎場山古墳)のある頂である。地名は天上といい、西の支尾根に標高437.7メートルの薬師山(笹崎山)をもち、頂上から東西に伸びる尾根を含めて斎場(妻女)山脈という。妻女山は、往古斎場山といい、祭場山となり、妻女山となる。
妻女山の位置と名称については、諸説あるわけではない。江戸時代以前まで妻女山とよばれていた本来の妻女山(本名は斎場山、妻女山は俗名)513メートルと、江戸時代初期以前は、赤坂山、または単に赤坂と呼ばれ、明治2年松代招魂社建立後から妻女山と呼ばれるようになった現妻女山、411メートルがあるだけである。それ以外に地元で妻女山と呼ばれた山は存在しない。
『信濃宝鑑』中巻によると、「【妻女山】まことは斎場山なるべし、上古県主及び郡司(或は田村将軍東夷征伐の際とも云ふ)などの天神地祗を祭れる壇上の意ならん。今岩野・清野・土ロの三村に跨りて峠立せり、即ち、岩野は、斎野(いはひの)・清野は須賀野にて清く須賀須賀しき野の意なるべし、然して土ロは祭壇への登りロの意ならん。現今、古墳やうのもの多きは、皆祭壇にてこれ穿てば祭器古鏃を出だすを以ても上古の斎場たる事知る可きなり、後永禄年中甲越合戦の際上杉謙信の陣を張れる処たり。」とある。
また、『信濃史料叢書』第四巻 眞武内傳附録(一)川中島合戦謙信妻女山備立覺においては、「上杉謙信は村上が頼に依て、武田家と鋒を争う事数度、斯て永禄四年八月十六日、上杉が軍中山八宿を越え、海津城西妻女山へ人数を引揚げ備を立て、武田家の変易を待つ、其備立記、一、赤坂の上、甘粕近江守陣場也。一、伊勢宮の上、柿崎和泉守陣場也。一、月夜平、謙信が従臣多く是に陣す。一、千ヶ窪の上の方、柴田道壽軒が陣也。一、笹崎の上薬師の宮、謙信本陣也。此下東風越と云う所あり、其下北にをりて十四五間行て水あり。」とある。赤坂の上とは、現妻女山のことであり、伊勢宮とは岩野字西幅下に伊勢宮があったと祖母の伝聞あり。月夜平とは、清野の会田集落の上の字名。千ヶ窪の上の方とは、清野小学校の南の奥まった所の上ということで、地元で陣場平と称する標高520メートルの高原を指す。笹崎の上とは、薬師山から斎場山までの長尾根をいいう。東風越とは、岩野と土口の間にある斎場山東の峠のこと。北に下りると謙信槍尻之泉がある。
備立覺の続きには、「甲陽軍鑑に妻女山を西條山と書すは誤也、山も異也。」と記されているが、その前記には、「同九月九日の夜、信玄公の先鋒潜に西條山の西山陰に陣す。」とある。西條山とは狼煙山のことであり、西條山が本来の名称で、狼煙山は信玄由来の俗名であろう。甲陽軍鑑の誤記は、ひとつの推理を生む。それは、戦国当時「さいじょざん」ではなく「さいじょうざん」と呼んでいたのではないかということだ。「さいじょ」ならば、西條という文字は浮かばない。然るに、妻女山は近世の創作による呼び名であろうと推測できるのである。
『長野県町村誌』第二巻東信篇の【岩野】では、「本村古時磯部郷(和名抄にあり)に属す。里俗傳に斎野村たり(斎場山は本村起源の地ならんか)延徳の頃(1489~1491)上野村と名す。寛文六年(1666)岩野村と改称す。附言、里俗傳に、往古斎場山に會津比賣神社あり。土地創々神にして土人の古書にも當郷に深き由縁ある神にて、貞観中(859~877)埴科大領、外従五位下金刺貞長の領地たり。蓋其際官祭の社にして、郡中一般祭典を施行せしものか、今に至り斎場山の麓に斎場原と称する地あり。此地字を以て村名を斎野村と称せしなるべし。」とある。
また、妻女山については、「山【妻女山】高及び周囲未だ実測を経ず。村の南の方にあり。嶺上より界し、東は清野村に属し、西南は土口村に属し、北は本村に属す。山脈、南は西條山に連り、西は生萱村の山に接す。樹木鬱蒼。登路一條、村の南の方山浦より登る。高二十一町、険路なり。渓水一條、中間より発す。細流にして本村に至りて湧く。」とある。「樹木鬱蒼。登路一條、村の南の方山浦より登る。高二十一町、険路なり。」とは、外部の人には、まずどこか分からない記述であるが、これは岩野駅南の山裏(山浦)から前坂を登って韮崎からの尾根に乗り、斎場山(妻女山)へ登る急な山道のことである。養蚕が盛んな時代は、数十キロの肥料を背負ってこの道を登ったという。現在はほとんど登る人はいないが、この記述により妻女山は斎場山であったということが分かる。西南は土口という記述からも明白である。「渓水一條」とは、もちろん上杉謙信槍尻の泉のことである。
また、「古跡【斎場山】本村の南より東に連り、祭祀壇凡四十九箇あり。故に里俗傳に、此地は古昔国造の始より続き、埴科郡領の斎場斎壇を設けて、郡中一般袷祭したる所にして、旧蹟多く遺る所の地なり、確乎たらず。」とあり、(注=斎場山から御陵願平、土口将軍塚古墳にかけての記述)古跡の続きでは、「【上杉謙信陣営跡】 本村南斎場山に属す。永禄四年(1561年9月此処に陣すること数日、海津陣営の炊烟を観、敵軍の機を察し、夜中千曲川を渡り、翌日大に川中島に戦うこと、世の知る所なり。山の中央南部に高原あり、陣場平と称す。此西北の隅を本陣となし、謙信床几場と云あり、今誤って荘厳塚と云う。」とある。(注=陣場平から斎場山にかけての記述・南より東に連なりとは、字妻女・妻女山のこと。)
以後町誌市誌県誌のほとんどは、この報告を元に記されているようだ。[山]妻女山と[古跡]斎場山と記載があるが、同じ山頂のことである。妻女山が赤坂山のことであれば、土口とは境を接しない。[古跡]上杉謙信陣営跡も同じ山頂であり、床几塚のことである。謙信台ともいう。斎場山の地名は、天上であり、地元では御天上という。謙信陣営跡の記載で「本村南斎場山に属す。」とあるが、「本村、南斎場山に属す。」ではない。「本村南、斎場山に属す。」である。南斎場山などという地名はない。また、「誤って荘厳塚という。」とあるが、荘厳塚は正しくは土口将軍塚古墳のことである。「山の中央南部に高原あり、陣場平と称す。」という記述により、斎場山を起点として南に陣場平があるということが分かる。「西北の隅」は、もちろん斎場山である。
本来の妻女山については、小林計一郎先生の『川中島の戦』甲信越戦国史の記載を外すわけにはいかない。「妻女山(松代町長野電鉄又はバス岩野下車)松代と屋代との間、長野電鉄岩野駅の南にそぴえる山である。山上に古墳があり、また旗塚と称せられる小円墳がたくさんある。永禄四年謙信が本陣をすえた所であるという。妻女山の支山赤坂山には招魂社があり、ふつうこの赤坂山を妻女山と言っているが、本当の妻女山は地図に見えるとおり赤坂山より高い山であり、赤坂山と笹崎山はその支山である。」と記されておられる。同書116頁の「川中島の戦のようす<五 永禄四年の激戦>妻女山・海津城の対陣」の写真に「海津城から見た妻女山(○印)」とあるが、○印は、本来の妻女山(斎場山)の上にある。但し、この海津城から見た妻女山が、大正元年陸軍参謀本部陸地測量部測量の五万分の一「長野」の誤記載を生んだのではとも考えている。海津城から見ると、妻女山は天城山(てしろやま)から現妻女山(赤坂山)への尾根上にあるように見える。しかし、実際は尾根の向こうの東風越を挟んで400メートルほど西にあるのである。この見え方が、大正時代の地形図にあるはずもない546メートルの山頂を誤って作らせたのではと考えている。実際は、その場所にはピークは昔も今も存在しない。しかも、546は、単なる標高点であり山頂の印ではない。昭和35年の改訂版では、山頂の閉じた等高線は誤記載のままだが、標高点の記載は無くなっている。現地系図では、その山さえない。
現妻女山については、『真田史料集』に、「松代招魂社を祀る 長野県信濃国埴科郡清野村字妻女山鎮座 官祭 松代招魂社『明治2年己巳4月17日藩戦死者の英魂を妻女山頭に鎮祭して松代招魂社と称す』」とある。妻女山頭であり、字妻女山なのである。頭(かしら)とは山頂ではなく、山頂に至る尾根の出っ張った所をいう。招魂社の裏を境に、清野側を字妻女山、岩野側を字妻女という。本来の妻女山は、字妻女にあり、清野側の字妻女山にはない。招魂社の場所の地名は、赤坂山である。ところが、妻女という地名は、岩野の山裏や清野の字妻女山にもある。実にややこしく、地元でも全てを把握している人は、地権者を除けばほとんどいないであろう。地元の人も現妻女山を赤坂山とは呼ばずに、妻女山と呼んで久しい。それは、字妻女山をもって妻女山と呼んでいるのである。本来の妻女山は、子供の頃より「本当の妻女山」という呼び方で上級生や親から教えられてきた。
二 斎場山について
大きな誤解の元は、江戸時代から現代まで、戦国時代の妻女山にばかり興味のスポットライトが当てられてしまった事である。
斎場山は、古代科野国造(しなののくにのみやつこ)がお祀りしたところといわれており、歴史的に重要なところといわれる。その科野国造が、崇神天皇の代に、大和朝廷より科野国の国造に任命された、神武天皇の皇子・神八井耳命(カムヤイミミノミコト)の後裔の建五百建命(タケイオタツノミコト)であるといわれている。国府が小県に移る以前には、屋代、或いは雨宮辺りにあったという説もある。
昭和四年発刊の松代町史には、森将軍塚古墳が建五百建命の墳墓であるという説が記されている。妻女山の麓にある會津比売神社の祭神・會津比売は、建五百建命の后であるという。よって信濃国造がお祀りした斎場山の麓(往古は山上にあったという)に神社を建立したといわれている。
建五百建命には二人の息子がいたといわれる。兄は速瓶玉命(ヤミカタマノミコト)といい、阿蘇の地にくだり、崇神天皇の代に阿蘇国造を賜る。弟の健稲背命(タケイイナセノミコト)は科野国造を賜ったという。健稲背命の系図は、科野国造、舎人、諏訪評督、郡領、さらに諏訪神社を祭る金刺、神氏という信濃の名門へと続くものである。いずれも未だ神話の域を完全には出ないものであるが、記しておきたい。
原初科野は、埴科と更級辺りであったといわれる。斎場山は、森将軍塚古墳のある大穴山と共にその中心にある。長野県考古学会長であられた故藤森栄一氏は、『古墳の時代』の中において、「四世紀頃、川中島を中心に、大和朝廷の勢力が到来して、弥生式後期の祭政共同体の上にのっかって、東国支配の一大前線基地となっていたことは事実である。」と記しておられる。その痕跡は、森将軍塚古墳・川柳将軍塚古墳・土口将軍塚古墳などに見ることができる。
そして、5世紀には、大陸から渡来人と共に馬が到来し、6世紀から11世紀にかけて信濃は牧馬の中心地となる。その機動力により、朝廷の権力が地方にも早く確実に届くようになり、次第に古い国造の治外法権を奪っていき、国造は、大化改新を経て、後に律令管制が布かれ、諸国に国司・郡司が置かれるに至っては、祭礼のみを司る象徴的な役目へと変貌したといわれている。
その中で、雨宮廃寺と雨宮坐日吉神社、笹崎山(一名薬王山)政源密寺と會津比賣(会津比売)神社の関係など、仏教が伝来し、盛んになった大和・奈良時代から、平安時代における菅原道真の建議による遣唐使の廃止により神道の隆盛と国風回帰、それに伴う寺社の盛衰等が、此の地でもあったと思われる。
1996(平成8)年、會津比賣神社新社殿建立の折りに「妻女権現」と記された木札が確認されている。斎場山(妻女山)古墳と會津比賣命の関係を示すものとして興味深い。往古會津比賣神社が斎場山の山上にあり、斎場山古墳は會津比賣命の墳墓であるという伝説もある(土口将軍塚という説もある)。
昭和59年12月20日に記された『會津比賣神社御由緒』には、會津比賣は、「信濃国造・建五百建命の妻であり、現神社より三丁余り南の山腹に二神の住居があったと伝えられる。」と記している。また、雨宮坐日吉神社(あめのみやにいますひえじんじゃ)の三年に一度の春季大祭(御神事)においては、清野氏の屋敷があったとされる海津城内へ移動して踊る「城踊り」が奉納された。その際、周辺の寺々を巡り、清野の「倉やしき」、岩野・土口などといった旧家で踊りも奉納していたという。雨宮の御神事の「橋がかりの踊り」は、沢山川(生仁川)の「斎場橋」で行われるが、斎場橋は、「郡司」が雨宮から斎場山へ参る際に渡る橋としての命名かと思われる。往古斎場山の表参道は南であり、そのため祭壇への登り口の意味で土口という地名があるという。會津比賣命の墓については、「神社の上、斎場山脈の頂上の西方にある、荘厳塚と称する所の御車形山稜が命の墓なり」と記されている。「郡司」については、『日本三代実録』貞観四年(862)三月の項に「三月戊子(廿日)信濃国埴科郡大領金刺舎人正長(かなさしのとねりまさなが)・小県郡権少領外正八位下 他国舎人藤雄等並授、借外従五位下」とある。里俗伝によると、埴科郡の郡司の筆頭・大領の金刺舎人正長が大穴郷(森・雨宮・土口)にいたということである。
1982~1986年にかけて、長野市と更埴市(現千曲市)の教育委員会による土口将軍塚古墳の合同調査がなされたが、その報告書には、土口将軍塚は岩野と土口の境にある妻女山から西方に張り出した支脈の突端にあると記してある。つまり、円墳のある頂が、往古の妻女山であり斎場山なのである。それ以外に本来の妻女山はない。尚、前記したように、斎場山が本来の名称であり、妻女山は後世の俗名である。
平成19年2月7日に、土口将軍塚は、埴科古墳群のひとつとして国指定史跡となった。信濃の国の起源とされる科野の国の史跡としての重要性が認められたのであろう。つまり、現在名無しである斎場山の地形図への山名記載が一層重要なものとなってきたわけである。土口将軍塚、斎場山古墳や天城山(てしろやま)の坂山古墳、堂平古墳群などもいずれ詳細な学術調査研究が為されることを期待したい。尚、『長野県町村字地名大鑑』の字図には、斎場山(円墳)の場所に妻女山とはっきりと明記されている。
三 妻女山(斎場山)への想い
岩野は、古代科野の国の起源の地のひとつとして重要な場所であったが、その後、岩野村誌には、「養和元年(1181)6月、木曽義仲が平家方の城資茂の大軍と横田川原に戦う時に、ここ笹崎山に陣を取り、大勝の後、戦死者のために守本尊『袖振先手観音』を安置。(源平盛衰記)その後里俗、石像薬師仏建立する。」とある。また、応永七年(1400)には、信濃の新守護(婆娑羅大名)小笠原長秀と村上満信、仁科氏ら国人衆たちの大文字一揆党が戦った大塔合戦もあった。そして村上氏が勝利し、善光寺平を支配した。
その後は、周知のように川中島合戦の激戦地となった訳である。また、『類聚三代格』一七赦除事・仁和四年五月廿八日詔によると、仁和四年頃(888)には、千曲川の大洪水に見舞われている。その後も度々洪水に襲われ、近世においては、寛保二年(1742)に有名な大洪水「戌の満水」が起きている。千曲川流域で2800人の死者、岩野でも160人が亡くなっている。その際に、全ての古文書、家系図、付宝のほぼ全てが流失してしまったという。その約百年後、弘化四年(1847)には、善光寺大地震があった。今ある人々は、その惨禍を生き抜いてきた人々の子孫なのである。
『會津比賣神社御由緒』のむすびには、こう記されている。「此の地に生まれ育ちて、地についた神格たる産土神(うぶすながみ)を、朝な夕な尊崇し奉る人々の幸を、ひしひしと身に覚ゆる次第なり。」と。妻女山(斎場山)の真実が、未知なる科野の国の古代史と共に更に解明され、広く人々に知れ渡ることを祈るのみである。
(注)細部で追記が必要な記述もありますが、大意に影響がないため未修正で載せました。文字数の制限があり記したいことの全ては書けませんでした。例えば妻女山の初出は幕府が作らせた天保国絵図です。慶長国絵図は現存しないので確認不可。松代藩がなぜ斎場山を妻女山と改称して申請したかなど書きたかったのですが。別のブログ記事では既に書いていると思います。
参考文献:『信濃宝鑑』中巻 (株)歴史図書社 昭和49年8月30日刊
『信濃史料叢書』第四巻 1913(大正二)年編纂全五巻 眞武内傳附録(一)川中島合戦謙信妻女山備立覺
『長野県町村誌』第二巻東信篇 昭和11年発行 調査=明治13年 岩野戸長窪田金作氏への聞き取り調査より
『長野県町村字地名大鑑』長野県地名研究所 昭和62年11月3日刊
『真田史料集』天保一四(1843)年 信濃国松代城主真田氏編集 重臣河原綱徳編集主任
『川中島の戦』甲信越戦国史 小林計一郎著 長野郷土史研究会発行
『會津比賣神社御由緒』考古学者柳沢和恵先生監修 雨宮坐日吉神社及び會津比賣神社片岡三郎宮司監修 岩野編纂
「藤森栄一全集第11巻」『古墳の時代』
斎場山が妻女山と改名され、後に別の山に移ってしまうという数奇な運命に翻弄された歴史ある里山の話。
川中島の戦いや古代科野のクニに興味がある方はぜひご一読を。
はじめに
妻女山は、第四次川中島合戦で有名になった山であるが、麓の岩野や土口では、古来より本当の妻女山というものが言い伝えられており、往古は斎場山といった。しかし、現在その山は、国土地理院の地形図において測量もされず名無しという誠に憂うべき状況にある。地元では、そのことに長い間危惧の念を抱いてきた。
本来の妻女山が誤解された理由については、大きく四つある。ひとつ目は、軍学書であるが故に誤記も多いとされる『甲陽軍鑑』に、妻女山を西條山と記され、それが広まってしまったこと。この書には、「年号万次第不同みだり候へども、それを許し給いて」とか「人の雑談にて書記候へば、定て相違なる事ばかり多きは必定なれども」とか断り書きがあるように口述筆記のためか誤記が多い。二つ目は、江戸時代中期後半の歌舞伎や浮世絵による川中島ブームで、本来の斎場山という名称が、妻女山という俗名に置き換えられてしまったこと。三つ目は、明治2年に戊辰戦争の英霊を祀るために建立された赤坂山の招魂社が、「妻女山松代招魂社」と命名され、妻女山の名称が、本来の山から赤坂山に移ってしまったこと。四つ目は、昭和47年の国土地理院の地形図改訂の折に赤坂山の位置を妻女山と記載され、それが全国的に定着してしまったということ。
ここでは、妻女山の位置と名称の変遷を、史料や地元の伝承等を元に解き明かしてみたい。
一 妻女山は、往古斎場山であった
まず、史料や地元の村誌に記されている妻女山について記したい。
現在、国土地理院の地形図に記載されている標高411メートルの妻女山は、本来は赤坂山といい、本当の妻女山の支尾根にある頂である。本当の妻女山は、それより20分ほど南西に登った、標高513メートルの円墳(斎場山古墳)のある頂である。地名は天上といい、西の支尾根に標高437.7メートルの薬師山(笹崎山)をもち、頂上から東西に伸びる尾根を含めて斎場(妻女)山脈という。妻女山は、往古斎場山といい、祭場山となり、妻女山となる。
妻女山の位置と名称については、諸説あるわけではない。江戸時代以前まで妻女山とよばれていた本来の妻女山(本名は斎場山、妻女山は俗名)513メートルと、江戸時代初期以前は、赤坂山、または単に赤坂と呼ばれ、明治2年松代招魂社建立後から妻女山と呼ばれるようになった現妻女山、411メートルがあるだけである。それ以外に地元で妻女山と呼ばれた山は存在しない。
『信濃宝鑑』中巻によると、「【妻女山】まことは斎場山なるべし、上古県主及び郡司(或は田村将軍東夷征伐の際とも云ふ)などの天神地祗を祭れる壇上の意ならん。今岩野・清野・土ロの三村に跨りて峠立せり、即ち、岩野は、斎野(いはひの)・清野は須賀野にて清く須賀須賀しき野の意なるべし、然して土ロは祭壇への登りロの意ならん。現今、古墳やうのもの多きは、皆祭壇にてこれ穿てば祭器古鏃を出だすを以ても上古の斎場たる事知る可きなり、後永禄年中甲越合戦の際上杉謙信の陣を張れる処たり。」とある。
また、『信濃史料叢書』第四巻 眞武内傳附録(一)川中島合戦謙信妻女山備立覺においては、「上杉謙信は村上が頼に依て、武田家と鋒を争う事数度、斯て永禄四年八月十六日、上杉が軍中山八宿を越え、海津城西妻女山へ人数を引揚げ備を立て、武田家の変易を待つ、其備立記、一、赤坂の上、甘粕近江守陣場也。一、伊勢宮の上、柿崎和泉守陣場也。一、月夜平、謙信が従臣多く是に陣す。一、千ヶ窪の上の方、柴田道壽軒が陣也。一、笹崎の上薬師の宮、謙信本陣也。此下東風越と云う所あり、其下北にをりて十四五間行て水あり。」とある。赤坂の上とは、現妻女山のことであり、伊勢宮とは岩野字西幅下に伊勢宮があったと祖母の伝聞あり。月夜平とは、清野の会田集落の上の字名。千ヶ窪の上の方とは、清野小学校の南の奥まった所の上ということで、地元で陣場平と称する標高520メートルの高原を指す。笹崎の上とは、薬師山から斎場山までの長尾根をいいう。東風越とは、岩野と土口の間にある斎場山東の峠のこと。北に下りると謙信槍尻之泉がある。
備立覺の続きには、「甲陽軍鑑に妻女山を西條山と書すは誤也、山も異也。」と記されているが、その前記には、「同九月九日の夜、信玄公の先鋒潜に西條山の西山陰に陣す。」とある。西條山とは狼煙山のことであり、西條山が本来の名称で、狼煙山は信玄由来の俗名であろう。甲陽軍鑑の誤記は、ひとつの推理を生む。それは、戦国当時「さいじょざん」ではなく「さいじょうざん」と呼んでいたのではないかということだ。「さいじょ」ならば、西條という文字は浮かばない。然るに、妻女山は近世の創作による呼び名であろうと推測できるのである。
『長野県町村誌』第二巻東信篇の【岩野】では、「本村古時磯部郷(和名抄にあり)に属す。里俗傳に斎野村たり(斎場山は本村起源の地ならんか)延徳の頃(1489~1491)上野村と名す。寛文六年(1666)岩野村と改称す。附言、里俗傳に、往古斎場山に會津比賣神社あり。土地創々神にして土人の古書にも當郷に深き由縁ある神にて、貞観中(859~877)埴科大領、外従五位下金刺貞長の領地たり。蓋其際官祭の社にして、郡中一般祭典を施行せしものか、今に至り斎場山の麓に斎場原と称する地あり。此地字を以て村名を斎野村と称せしなるべし。」とある。
また、妻女山については、「山【妻女山】高及び周囲未だ実測を経ず。村の南の方にあり。嶺上より界し、東は清野村に属し、西南は土口村に属し、北は本村に属す。山脈、南は西條山に連り、西は生萱村の山に接す。樹木鬱蒼。登路一條、村の南の方山浦より登る。高二十一町、険路なり。渓水一條、中間より発す。細流にして本村に至りて湧く。」とある。「樹木鬱蒼。登路一條、村の南の方山浦より登る。高二十一町、険路なり。」とは、外部の人には、まずどこか分からない記述であるが、これは岩野駅南の山裏(山浦)から前坂を登って韮崎からの尾根に乗り、斎場山(妻女山)へ登る急な山道のことである。養蚕が盛んな時代は、数十キロの肥料を背負ってこの道を登ったという。現在はほとんど登る人はいないが、この記述により妻女山は斎場山であったということが分かる。西南は土口という記述からも明白である。「渓水一條」とは、もちろん上杉謙信槍尻の泉のことである。
また、「古跡【斎場山】本村の南より東に連り、祭祀壇凡四十九箇あり。故に里俗傳に、此地は古昔国造の始より続き、埴科郡領の斎場斎壇を設けて、郡中一般袷祭したる所にして、旧蹟多く遺る所の地なり、確乎たらず。」とあり、(注=斎場山から御陵願平、土口将軍塚古墳にかけての記述)古跡の続きでは、「【上杉謙信陣営跡】 本村南斎場山に属す。永禄四年(1561年9月此処に陣すること数日、海津陣営の炊烟を観、敵軍の機を察し、夜中千曲川を渡り、翌日大に川中島に戦うこと、世の知る所なり。山の中央南部に高原あり、陣場平と称す。此西北の隅を本陣となし、謙信床几場と云あり、今誤って荘厳塚と云う。」とある。(注=陣場平から斎場山にかけての記述・南より東に連なりとは、字妻女・妻女山のこと。)
以後町誌市誌県誌のほとんどは、この報告を元に記されているようだ。[山]妻女山と[古跡]斎場山と記載があるが、同じ山頂のことである。妻女山が赤坂山のことであれば、土口とは境を接しない。[古跡]上杉謙信陣営跡も同じ山頂であり、床几塚のことである。謙信台ともいう。斎場山の地名は、天上であり、地元では御天上という。謙信陣営跡の記載で「本村南斎場山に属す。」とあるが、「本村、南斎場山に属す。」ではない。「本村南、斎場山に属す。」である。南斎場山などという地名はない。また、「誤って荘厳塚という。」とあるが、荘厳塚は正しくは土口将軍塚古墳のことである。「山の中央南部に高原あり、陣場平と称す。」という記述により、斎場山を起点として南に陣場平があるということが分かる。「西北の隅」は、もちろん斎場山である。
本来の妻女山については、小林計一郎先生の『川中島の戦』甲信越戦国史の記載を外すわけにはいかない。「妻女山(松代町長野電鉄又はバス岩野下車)松代と屋代との間、長野電鉄岩野駅の南にそぴえる山である。山上に古墳があり、また旗塚と称せられる小円墳がたくさんある。永禄四年謙信が本陣をすえた所であるという。妻女山の支山赤坂山には招魂社があり、ふつうこの赤坂山を妻女山と言っているが、本当の妻女山は地図に見えるとおり赤坂山より高い山であり、赤坂山と笹崎山はその支山である。」と記されておられる。同書116頁の「川中島の戦のようす<五 永禄四年の激戦>妻女山・海津城の対陣」の写真に「海津城から見た妻女山(○印)」とあるが、○印は、本来の妻女山(斎場山)の上にある。但し、この海津城から見た妻女山が、大正元年陸軍参謀本部陸地測量部測量の五万分の一「長野」の誤記載を生んだのではとも考えている。海津城から見ると、妻女山は天城山(てしろやま)から現妻女山(赤坂山)への尾根上にあるように見える。しかし、実際は尾根の向こうの東風越を挟んで400メートルほど西にあるのである。この見え方が、大正時代の地形図にあるはずもない546メートルの山頂を誤って作らせたのではと考えている。実際は、その場所にはピークは昔も今も存在しない。しかも、546は、単なる標高点であり山頂の印ではない。昭和35年の改訂版では、山頂の閉じた等高線は誤記載のままだが、標高点の記載は無くなっている。現地系図では、その山さえない。
現妻女山については、『真田史料集』に、「松代招魂社を祀る 長野県信濃国埴科郡清野村字妻女山鎮座 官祭 松代招魂社『明治2年己巳4月17日藩戦死者の英魂を妻女山頭に鎮祭して松代招魂社と称す』」とある。妻女山頭であり、字妻女山なのである。頭(かしら)とは山頂ではなく、山頂に至る尾根の出っ張った所をいう。招魂社の裏を境に、清野側を字妻女山、岩野側を字妻女という。本来の妻女山は、字妻女にあり、清野側の字妻女山にはない。招魂社の場所の地名は、赤坂山である。ところが、妻女という地名は、岩野の山裏や清野の字妻女山にもある。実にややこしく、地元でも全てを把握している人は、地権者を除けばほとんどいないであろう。地元の人も現妻女山を赤坂山とは呼ばずに、妻女山と呼んで久しい。それは、字妻女山をもって妻女山と呼んでいるのである。本来の妻女山は、子供の頃より「本当の妻女山」という呼び方で上級生や親から教えられてきた。
二 斎場山について
大きな誤解の元は、江戸時代から現代まで、戦国時代の妻女山にばかり興味のスポットライトが当てられてしまった事である。
斎場山は、古代科野国造(しなののくにのみやつこ)がお祀りしたところといわれており、歴史的に重要なところといわれる。その科野国造が、崇神天皇の代に、大和朝廷より科野国の国造に任命された、神武天皇の皇子・神八井耳命(カムヤイミミノミコト)の後裔の建五百建命(タケイオタツノミコト)であるといわれている。国府が小県に移る以前には、屋代、或いは雨宮辺りにあったという説もある。
昭和四年発刊の松代町史には、森将軍塚古墳が建五百建命の墳墓であるという説が記されている。妻女山の麓にある會津比売神社の祭神・會津比売は、建五百建命の后であるという。よって信濃国造がお祀りした斎場山の麓(往古は山上にあったという)に神社を建立したといわれている。
建五百建命には二人の息子がいたといわれる。兄は速瓶玉命(ヤミカタマノミコト)といい、阿蘇の地にくだり、崇神天皇の代に阿蘇国造を賜る。弟の健稲背命(タケイイナセノミコト)は科野国造を賜ったという。健稲背命の系図は、科野国造、舎人、諏訪評督、郡領、さらに諏訪神社を祭る金刺、神氏という信濃の名門へと続くものである。いずれも未だ神話の域を完全には出ないものであるが、記しておきたい。
原初科野は、埴科と更級辺りであったといわれる。斎場山は、森将軍塚古墳のある大穴山と共にその中心にある。長野県考古学会長であられた故藤森栄一氏は、『古墳の時代』の中において、「四世紀頃、川中島を中心に、大和朝廷の勢力が到来して、弥生式後期の祭政共同体の上にのっかって、東国支配の一大前線基地となっていたことは事実である。」と記しておられる。その痕跡は、森将軍塚古墳・川柳将軍塚古墳・土口将軍塚古墳などに見ることができる。
そして、5世紀には、大陸から渡来人と共に馬が到来し、6世紀から11世紀にかけて信濃は牧馬の中心地となる。その機動力により、朝廷の権力が地方にも早く確実に届くようになり、次第に古い国造の治外法権を奪っていき、国造は、大化改新を経て、後に律令管制が布かれ、諸国に国司・郡司が置かれるに至っては、祭礼のみを司る象徴的な役目へと変貌したといわれている。
その中で、雨宮廃寺と雨宮坐日吉神社、笹崎山(一名薬王山)政源密寺と會津比賣(会津比売)神社の関係など、仏教が伝来し、盛んになった大和・奈良時代から、平安時代における菅原道真の建議による遣唐使の廃止により神道の隆盛と国風回帰、それに伴う寺社の盛衰等が、此の地でもあったと思われる。
1996(平成8)年、會津比賣神社新社殿建立の折りに「妻女権現」と記された木札が確認されている。斎場山(妻女山)古墳と會津比賣命の関係を示すものとして興味深い。往古會津比賣神社が斎場山の山上にあり、斎場山古墳は會津比賣命の墳墓であるという伝説もある(土口将軍塚という説もある)。
昭和59年12月20日に記された『會津比賣神社御由緒』には、會津比賣は、「信濃国造・建五百建命の妻であり、現神社より三丁余り南の山腹に二神の住居があったと伝えられる。」と記している。また、雨宮坐日吉神社(あめのみやにいますひえじんじゃ)の三年に一度の春季大祭(御神事)においては、清野氏の屋敷があったとされる海津城内へ移動して踊る「城踊り」が奉納された。その際、周辺の寺々を巡り、清野の「倉やしき」、岩野・土口などといった旧家で踊りも奉納していたという。雨宮の御神事の「橋がかりの踊り」は、沢山川(生仁川)の「斎場橋」で行われるが、斎場橋は、「郡司」が雨宮から斎場山へ参る際に渡る橋としての命名かと思われる。往古斎場山の表参道は南であり、そのため祭壇への登り口の意味で土口という地名があるという。會津比賣命の墓については、「神社の上、斎場山脈の頂上の西方にある、荘厳塚と称する所の御車形山稜が命の墓なり」と記されている。「郡司」については、『日本三代実録』貞観四年(862)三月の項に「三月戊子(廿日)信濃国埴科郡大領金刺舎人正長(かなさしのとねりまさなが)・小県郡権少領外正八位下 他国舎人藤雄等並授、借外従五位下」とある。里俗伝によると、埴科郡の郡司の筆頭・大領の金刺舎人正長が大穴郷(森・雨宮・土口)にいたということである。
1982~1986年にかけて、長野市と更埴市(現千曲市)の教育委員会による土口将軍塚古墳の合同調査がなされたが、その報告書には、土口将軍塚は岩野と土口の境にある妻女山から西方に張り出した支脈の突端にあると記してある。つまり、円墳のある頂が、往古の妻女山であり斎場山なのである。それ以外に本来の妻女山はない。尚、前記したように、斎場山が本来の名称であり、妻女山は後世の俗名である。
平成19年2月7日に、土口将軍塚は、埴科古墳群のひとつとして国指定史跡となった。信濃の国の起源とされる科野の国の史跡としての重要性が認められたのであろう。つまり、現在名無しである斎場山の地形図への山名記載が一層重要なものとなってきたわけである。土口将軍塚、斎場山古墳や天城山(てしろやま)の坂山古墳、堂平古墳群などもいずれ詳細な学術調査研究が為されることを期待したい。尚、『長野県町村字地名大鑑』の字図には、斎場山(円墳)の場所に妻女山とはっきりと明記されている。
三 妻女山(斎場山)への想い
岩野は、古代科野の国の起源の地のひとつとして重要な場所であったが、その後、岩野村誌には、「養和元年(1181)6月、木曽義仲が平家方の城資茂の大軍と横田川原に戦う時に、ここ笹崎山に陣を取り、大勝の後、戦死者のために守本尊『袖振先手観音』を安置。(源平盛衰記)その後里俗、石像薬師仏建立する。」とある。また、応永七年(1400)には、信濃の新守護(婆娑羅大名)小笠原長秀と村上満信、仁科氏ら国人衆たちの大文字一揆党が戦った大塔合戦もあった。そして村上氏が勝利し、善光寺平を支配した。
その後は、周知のように川中島合戦の激戦地となった訳である。また、『類聚三代格』一七赦除事・仁和四年五月廿八日詔によると、仁和四年頃(888)には、千曲川の大洪水に見舞われている。その後も度々洪水に襲われ、近世においては、寛保二年(1742)に有名な大洪水「戌の満水」が起きている。千曲川流域で2800人の死者、岩野でも160人が亡くなっている。その際に、全ての古文書、家系図、付宝のほぼ全てが流失してしまったという。その約百年後、弘化四年(1847)には、善光寺大地震があった。今ある人々は、その惨禍を生き抜いてきた人々の子孫なのである。
『會津比賣神社御由緒』のむすびには、こう記されている。「此の地に生まれ育ちて、地についた神格たる産土神(うぶすながみ)を、朝な夕な尊崇し奉る人々の幸を、ひしひしと身に覚ゆる次第なり。」と。妻女山(斎場山)の真実が、未知なる科野の国の古代史と共に更に解明され、広く人々に知れ渡ることを祈るのみである。
(注)細部で追記が必要な記述もありますが、大意に影響がないため未修正で載せました。文字数の制限があり記したいことの全ては書けませんでした。例えば妻女山の初出は幕府が作らせた天保国絵図です。慶長国絵図は現存しないので確認不可。松代藩がなぜ斎場山を妻女山と改称して申請したかなど書きたかったのですが。別のブログ記事では既に書いていると思います。
参考文献:『信濃宝鑑』中巻 (株)歴史図書社 昭和49年8月30日刊
『信濃史料叢書』第四巻 1913(大正二)年編纂全五巻 眞武内傳附録(一)川中島合戦謙信妻女山備立覺
『長野県町村誌』第二巻東信篇 昭和11年発行 調査=明治13年 岩野戸長窪田金作氏への聞き取り調査より
『長野県町村字地名大鑑』長野県地名研究所 昭和62年11月3日刊
『真田史料集』天保一四(1843)年 信濃国松代城主真田氏編集 重臣河原綱徳編集主任
『川中島の戦』甲信越戦国史 小林計一郎著 長野郷土史研究会発行
『會津比賣神社御由緒』考古学者柳沢和恵先生監修 雨宮坐日吉神社及び會津比賣神社片岡三郎宮司監修 岩野編纂
「藤森栄一全集第11巻」『古墳の時代』