ピーカン(快晴)の土曜日、これは家にいてはもったいないと、ザックを担いで妻女山へ。妻女山へ登る北面の道路は、カーブがアイスバーンで、凍りついた轍にタイヤが取られて大変でした。なんとか無事に招魂社奥の駐車場へ。ここでトレッキングシューズに履き替えて山へ。ここのところ、仕事で朝から晩までパソコンに向かって原稿書きやら作図やらをしているので、ストレスが溜まっているのです。まあ、朝の散歩かサイクリングから始まって、短いですが2時間毎に出るようにはしていますが。残雪の里山を見ると、登りたいという欲求がこみ上げて来るのです。腿まで埋まって奇妙山直下の谷をルートファインディングしながら、登った記憶とかが蘇ってきます。里山だって、一歩間違えば遭難死しますからね。でも、冬の里山ならではの魅力があるのです。
◉春はまだでした。信州の鎌倉、上田市塩田平、残雪の独鈷山敗退記。
◉千曲市倉科の三滝氷結。
妻女山北面の林道は、轍を除いて20センチの積雪。それもガチガチに凍っていました。しかし、長坂峠に出ると麗らかな日差し。南面は積雪もほとんどありません。この時期の特徴的な風景です。長坂峠の先から斎場山を振り返ります。斎場山は、古代科野国の円墳があり、また第四次川中島合戦では、古墳上に上杉謙信が最初に本陣を置いたと伝わる場所です。
林道を歩いて400m。コブ上から陣場平を俯瞰したところ。落葉期の今の時期だけ全体が見られます。約100m四方の平地。ここは武田信玄が全軍を海津城に入れた後、上杉謙信が陣小屋を建てて本陣としたと伝わる場所です。樹木がなければ、ほぼ正面に海津城が見えます。私が帰郷して訪れた時は、灌木や雑草に覆われたヤブ山でした。ほぼ一人で2年かかって除伐し、昭和の姿に戻しました。この前の記事の、GHQが撮影したモノクロの空撮をご覧いたくと分かるのですが、当時は畑でした。薬草畑や梅の果樹園、養蚕の桑畑など。今はその老梅もほとんどが枯れました。大きく育った山桑も排気ガスに弱いのでしょうか。ここのところ立ち枯れが目立ちます。赤松の落枝や倒木も多く気がかりです。里山は手を入れて維持されてきたのです。調べれば分かりますが、放っておけば自然に元に戻るというのは、恐らく真実でありながら幻想です。戻るのに最低400年かかるといわれているからです。しかし、それも確かめた人はいません(笑)。
その陣場平に下りて撮影したコブの方面を撮影したカット。東から西方向を撮影しています。林道は、前方の落葉松林の向こう側です。ここは昔、前記の様に薬草畑だったので、GW頃になると貝母(編笠百合)が咲き乱れます。しかし、森の奥なので知る人も少なく、春の妖精(スプリング・エフェメラル)は、人知れず咲いて消えて行きます。薬草として入った帰化植物ですが、俯いて咲く慎ましやかな花は、茶花としても愛され、愛好者が絶えません。満開の頃にここにひとり佇み、爽涼な風に揺れる貝母を見ていると、本当に癒されます。
このギャップは、ニホンカモシカの餌場でもあり、決まった時間に訪れると、2,3頭で親子が集まっています。クリスマスの頃に、熊の足跡を発見したこともありました。月の輪熊が現れるのは、奥山に食料が無くなる初冬と早春で、それ以外に出ることはめったにありません。
◉ニホンカモシカが森の哲学者といわれるわけ(妻女山里山通信)
『甲陽軍鑑』の編者と言われる小幡景憲彩色の川中島合戦絵図。陣場平に陣小屋が七棟建てられた図が描かれています。かなり大雑把な絵ですが、それでも大体の地名は当てはめることができます。本当は、海津城の左下に離山と象山の尾根がないといけないのですが、合戦布陣に直接関係がないので省いたのでしょう。上杉軍は赤で、武田軍は白で描かれています。この絵図全体は、所謂第四次川中島合戦の布陣図なんですが、配置がどこまで正確かは計り知れないものがあります。
だいたい絵図を描いた小幡景憲彩が、この地を訪れたことがあるのかがまず怪しいからです。どうも本人は江戸にいて伝聞だけで描いているような気がするのです。千曲川の流路とか、どう考えてもいい加減ですし、赤坂山(現妻女山)の妙に萎縮した描き方も変なのです。山道がこんな真っ直ぐなんてあり得ません。前の記事の榎田良長が描いたリアルな絵図と比較すると一目瞭然です。これは絵が巧いとか下手とかいう問題ではありません。
上杉謙信は、短い布陣でも必ず陣城を構築したといわれています。まあ、「乱取り」といって麓の寺社や家屋を壊して建築材料や食料を得ていたのですが。合戦後50年位に描かれた絵ですから、正確な描写は無理としても、大雑把な内容はかなり信憑性が高いかも知れません。小幡景憲の祖父虎盛と叔父光盛は、海津城で春日虎綱の副将を務めました。そういう経緯から景憲は『甲陽軍鑑』原本を入手しやすい立場にいたということでもあり、実際に合戦当時の話を聞いていたと思われるのです。なので細部はともかく信憑性は高いのかも知れません。
◉小幡景憲は、『甲陽軍鑑』において、なぜ斎場山を西条山と誤記したのか!?
◉妻女山の真実「妻女山は往古赤坂山であった! 本当の妻女山は斎場山である」
◉川中島合戦と山名についての考察。斎場山と妻女山まとめ。(妻女山里山通信)リンク集です。これを読めば、地名の変遷やマスコミや行政がどう地名を扱ってきたかが見えてきます。
続いて山蕗のある場所へ。途中、オスのニホンカモシカに遭遇しました。いきなりシュッと警戒音を発し尾根の向こうへ。呼び止めると一旦止まってくれたのですが、すぐに谷へ下ってしまいました。どうも冬期は限界距離が長くなる様です。山蕗は昨年の今頃は少し採れたのですが、今年は全く出ていませんでした。諦めて山仲間だった今は亡きKさんのログハウスへ。まず目にしたのはイノシシの足跡。薄雪に副蹄がはっきりしているのでニホンカモシカと区別がつきます。真ん中は、そのニホンカモシカが角研ぎをした痕跡。古墳の南斜面には福寿草が咲き乱れていました。
ログハウスからは、仁科三山がくっきりと綺麗に見えました。左から爺ヶ岳、双耳峰の鹿島槍ヶ岳、五竜岳。千曲川の澄んだ蒼い流れが鮮やかです。絶景を見ながら、ここで昼食にしました。時の流れが止まっている様なひと時でした。Kさんの笑顔と、薪ストーブを囲みながら取り留めのない山や歴史や世間話をした短い日々を、走馬灯の様に思い出しました。彼と植えた椿の実生が、5センチぐらいに育っています。この西斜面を藪椿で埋め尽くそうという計画です。彼に満開の藪椿を見せたかった。
前の記事の論文を記した彼女のお父さんは、Kさんが亡くなる前年に急逝したのですが、Kさんと友人でした。それを知ったのが彼女のお父さんが亡くなる2ヶ月前でした。Kさんが彼が私の近所で、小中高の先輩で私を可愛がってくれた人だと知ると、今度のバーベキューパーティーには彼も呼ぼうやと言っていたのです。それも叶いませんでした。父の葬儀で彼女にそれを話すと、父は凄く喜んで行ったと思いますと言っていました。その二人共亡くなってしまいました。世の無常を、これほど感じたことはありません。私にとっては、彼女のその言葉とちょっと甘えん坊さんかなという素敵な笑顔が唯一の救いでした。
話がずれますが、椿つながりで。純正椿油はオレイン酸が70%以上で、肌に馴染みがいいのです。食用にもなるし、女性は風呂あがりに全身に塗るとお肌美人になります。お試しあれ。石油系の化粧品は、どんな高級品でも肌を荒らします。昔、ある化粧品会社のPR誌を10年やっていたので、内情や裏側はよく知っているのです。撮影のアートディレクションをした時に、ヘアメークの人も使っていましたしね。知り合った外国人モデルも、普段はほぼノーメークで、基礎化粧品はオーガニックのものしか使わないと言っていました。経皮毒で検索してみてください。経皮毒はメーカーが必死に否定していますが、では栄養クリームも意味が無いということになりますね。矛盾しています。皮膚呼吸や浸透圧を考慮すれば、肌から毒素が入ることは当然でしょう。放射性物質は、飲食による内部被曝も危険ですが、吸気内部被曝は100%吸収されるので、より危険です。首都圏では最も危険なβ線源やα線源が浮遊しています。
このところ、ツイッターでフォロワーさんから毎朝通勤電車での急病人が異常に多い知らせを見るようになり、東京周辺で確実にパンデミックが始まったと確信しています。情報弱者から、正常性バイアスにかかった人から病気になり死んでいきます。放射性物質は容赦しません。
一休みしてから下って、妻女山展望台へ。左に蓮華岳と針ノ木岳。右へ仁科三山、更に右へ白馬三山の絶景。麗らかな日差しでしたが、信州の春はまだまだ先です。
白馬三山の望遠カット。右手前は茶臼山。中腹にレッサーパンダで有名になった茶臼山動物園があります。昨年の様な豪雪がないので、残雪は少なめです。
なんだか世情が可怪しくなっています。母が、戦争が終わった日ははっきり覚えていると言っていました。軍需工場で男が一人発狂したと。始まった日は全く覚えていないそうです。気がついたら戦争が始まっていたと。それが戦争の最も怖いところです。戦争をしたがる輩は、絶対安全地帯にいて絶対に戦争に行かないのが近代戦争の常。戦争は金儲けの道具です。米やEUの軍産複合体に操られる日本政府。第二次世界大戦で、日本は300万人の死者を出したのを、もう忘れたのですか? 放射能汚染と合わせて、今度は何千万人が死ねば満足するのでしょうか(第二次世界大戦における全世界での軍人・民間人の犠牲者は、5000~8000万人)。
執筆仕事で一日中パソコンの前にいる日常になってしまったのですが、フィールドワークに出たい欲求が爆発しそう(笑)。尚且つ読書もしたいという欲求がマックス。昔、朝日出版から出ていたエピステーメーという書籍をご存知の方はいますでしょうか。『空間』とか『記号+レクチュール』とか『ウィトゲンシュタイン』とか「仮面ペルソナ』とか。9冊ほど持っているのですが、ポスト福一に改めて読んでおきたいと思うのですよ。しかし、時間がない。スーザン・ソンタグの『反解釈』やボードリヤールももう一度読みたい。構造主義のシニフィエ(意味するもの)とシニフィアン(意味されるもの)とかは、商業主義全盛、マスコミや広告代理店のプロパガンダ全盛の現在においては、バーチャルリアルではなく正にリアリズムの現象です。ほとんど予め用意された現実を生きることになんの疑問も抱かない、それが現代人です。その挙句の果ての福一事故。収束はできません。今後50年、100年と1800種もの放射性物質が垂れ流されます。今のままでは日本はもちろん北半球は終わります。ありとあらゆる物は等価であり、無価値であるというニヒリズムが宇宙の真実か。
【重要】福島原発事故で発生した放射能、北米のカナダ沖でも観測!1立方メートルあたり2ベクレル!汚染は水深100mにまで及ぶ!
流出は今も今後も止まらない。止める術がない。このままでは日本はおろか北半球が終わる。
◉春はまだでした。信州の鎌倉、上田市塩田平、残雪の独鈷山敗退記。
◉千曲市倉科の三滝氷結。
妻女山北面の林道は、轍を除いて20センチの積雪。それもガチガチに凍っていました。しかし、長坂峠に出ると麗らかな日差し。南面は積雪もほとんどありません。この時期の特徴的な風景です。長坂峠の先から斎場山を振り返ります。斎場山は、古代科野国の円墳があり、また第四次川中島合戦では、古墳上に上杉謙信が最初に本陣を置いたと伝わる場所です。
林道を歩いて400m。コブ上から陣場平を俯瞰したところ。落葉期の今の時期だけ全体が見られます。約100m四方の平地。ここは武田信玄が全軍を海津城に入れた後、上杉謙信が陣小屋を建てて本陣としたと伝わる場所です。樹木がなければ、ほぼ正面に海津城が見えます。私が帰郷して訪れた時は、灌木や雑草に覆われたヤブ山でした。ほぼ一人で2年かかって除伐し、昭和の姿に戻しました。この前の記事の、GHQが撮影したモノクロの空撮をご覧いたくと分かるのですが、当時は畑でした。薬草畑や梅の果樹園、養蚕の桑畑など。今はその老梅もほとんどが枯れました。大きく育った山桑も排気ガスに弱いのでしょうか。ここのところ立ち枯れが目立ちます。赤松の落枝や倒木も多く気がかりです。里山は手を入れて維持されてきたのです。調べれば分かりますが、放っておけば自然に元に戻るというのは、恐らく真実でありながら幻想です。戻るのに最低400年かかるといわれているからです。しかし、それも確かめた人はいません(笑)。
その陣場平に下りて撮影したコブの方面を撮影したカット。東から西方向を撮影しています。林道は、前方の落葉松林の向こう側です。ここは昔、前記の様に薬草畑だったので、GW頃になると貝母(編笠百合)が咲き乱れます。しかし、森の奥なので知る人も少なく、春の妖精(スプリング・エフェメラル)は、人知れず咲いて消えて行きます。薬草として入った帰化植物ですが、俯いて咲く慎ましやかな花は、茶花としても愛され、愛好者が絶えません。満開の頃にここにひとり佇み、爽涼な風に揺れる貝母を見ていると、本当に癒されます。
このギャップは、ニホンカモシカの餌場でもあり、決まった時間に訪れると、2,3頭で親子が集まっています。クリスマスの頃に、熊の足跡を発見したこともありました。月の輪熊が現れるのは、奥山に食料が無くなる初冬と早春で、それ以外に出ることはめったにありません。
◉ニホンカモシカが森の哲学者といわれるわけ(妻女山里山通信)
『甲陽軍鑑』の編者と言われる小幡景憲彩色の川中島合戦絵図。陣場平に陣小屋が七棟建てられた図が描かれています。かなり大雑把な絵ですが、それでも大体の地名は当てはめることができます。本当は、海津城の左下に離山と象山の尾根がないといけないのですが、合戦布陣に直接関係がないので省いたのでしょう。上杉軍は赤で、武田軍は白で描かれています。この絵図全体は、所謂第四次川中島合戦の布陣図なんですが、配置がどこまで正確かは計り知れないものがあります。
だいたい絵図を描いた小幡景憲彩が、この地を訪れたことがあるのかがまず怪しいからです。どうも本人は江戸にいて伝聞だけで描いているような気がするのです。千曲川の流路とか、どう考えてもいい加減ですし、赤坂山(現妻女山)の妙に萎縮した描き方も変なのです。山道がこんな真っ直ぐなんてあり得ません。前の記事の榎田良長が描いたリアルな絵図と比較すると一目瞭然です。これは絵が巧いとか下手とかいう問題ではありません。
上杉謙信は、短い布陣でも必ず陣城を構築したといわれています。まあ、「乱取り」といって麓の寺社や家屋を壊して建築材料や食料を得ていたのですが。合戦後50年位に描かれた絵ですから、正確な描写は無理としても、大雑把な内容はかなり信憑性が高いかも知れません。小幡景憲の祖父虎盛と叔父光盛は、海津城で春日虎綱の副将を務めました。そういう経緯から景憲は『甲陽軍鑑』原本を入手しやすい立場にいたということでもあり、実際に合戦当時の話を聞いていたと思われるのです。なので細部はともかく信憑性は高いのかも知れません。
◉小幡景憲は、『甲陽軍鑑』において、なぜ斎場山を西条山と誤記したのか!?
◉妻女山の真実「妻女山は往古赤坂山であった! 本当の妻女山は斎場山である」
◉川中島合戦と山名についての考察。斎場山と妻女山まとめ。(妻女山里山通信)リンク集です。これを読めば、地名の変遷やマスコミや行政がどう地名を扱ってきたかが見えてきます。
続いて山蕗のある場所へ。途中、オスのニホンカモシカに遭遇しました。いきなりシュッと警戒音を発し尾根の向こうへ。呼び止めると一旦止まってくれたのですが、すぐに谷へ下ってしまいました。どうも冬期は限界距離が長くなる様です。山蕗は昨年の今頃は少し採れたのですが、今年は全く出ていませんでした。諦めて山仲間だった今は亡きKさんのログハウスへ。まず目にしたのはイノシシの足跡。薄雪に副蹄がはっきりしているのでニホンカモシカと区別がつきます。真ん中は、そのニホンカモシカが角研ぎをした痕跡。古墳の南斜面には福寿草が咲き乱れていました。
ログハウスからは、仁科三山がくっきりと綺麗に見えました。左から爺ヶ岳、双耳峰の鹿島槍ヶ岳、五竜岳。千曲川の澄んだ蒼い流れが鮮やかです。絶景を見ながら、ここで昼食にしました。時の流れが止まっている様なひと時でした。Kさんの笑顔と、薪ストーブを囲みながら取り留めのない山や歴史や世間話をした短い日々を、走馬灯の様に思い出しました。彼と植えた椿の実生が、5センチぐらいに育っています。この西斜面を藪椿で埋め尽くそうという計画です。彼に満開の藪椿を見せたかった。
前の記事の論文を記した彼女のお父さんは、Kさんが亡くなる前年に急逝したのですが、Kさんと友人でした。それを知ったのが彼女のお父さんが亡くなる2ヶ月前でした。Kさんが彼が私の近所で、小中高の先輩で私を可愛がってくれた人だと知ると、今度のバーベキューパーティーには彼も呼ぼうやと言っていたのです。それも叶いませんでした。父の葬儀で彼女にそれを話すと、父は凄く喜んで行ったと思いますと言っていました。その二人共亡くなってしまいました。世の無常を、これほど感じたことはありません。私にとっては、彼女のその言葉とちょっと甘えん坊さんかなという素敵な笑顔が唯一の救いでした。
話がずれますが、椿つながりで。純正椿油はオレイン酸が70%以上で、肌に馴染みがいいのです。食用にもなるし、女性は風呂あがりに全身に塗るとお肌美人になります。お試しあれ。石油系の化粧品は、どんな高級品でも肌を荒らします。昔、ある化粧品会社のPR誌を10年やっていたので、内情や裏側はよく知っているのです。撮影のアートディレクションをした時に、ヘアメークの人も使っていましたしね。知り合った外国人モデルも、普段はほぼノーメークで、基礎化粧品はオーガニックのものしか使わないと言っていました。経皮毒で検索してみてください。経皮毒はメーカーが必死に否定していますが、では栄養クリームも意味が無いということになりますね。矛盾しています。皮膚呼吸や浸透圧を考慮すれば、肌から毒素が入ることは当然でしょう。放射性物質は、飲食による内部被曝も危険ですが、吸気内部被曝は100%吸収されるので、より危険です。首都圏では最も危険なβ線源やα線源が浮遊しています。
このところ、ツイッターでフォロワーさんから毎朝通勤電車での急病人が異常に多い知らせを見るようになり、東京周辺で確実にパンデミックが始まったと確信しています。情報弱者から、正常性バイアスにかかった人から病気になり死んでいきます。放射性物質は容赦しません。
一休みしてから下って、妻女山展望台へ。左に蓮華岳と針ノ木岳。右へ仁科三山、更に右へ白馬三山の絶景。麗らかな日差しでしたが、信州の春はまだまだ先です。
白馬三山の望遠カット。右手前は茶臼山。中腹にレッサーパンダで有名になった茶臼山動物園があります。昨年の様な豪雪がないので、残雪は少なめです。
なんだか世情が可怪しくなっています。母が、戦争が終わった日ははっきり覚えていると言っていました。軍需工場で男が一人発狂したと。始まった日は全く覚えていないそうです。気がついたら戦争が始まっていたと。それが戦争の最も怖いところです。戦争をしたがる輩は、絶対安全地帯にいて絶対に戦争に行かないのが近代戦争の常。戦争は金儲けの道具です。米やEUの軍産複合体に操られる日本政府。第二次世界大戦で、日本は300万人の死者を出したのを、もう忘れたのですか? 放射能汚染と合わせて、今度は何千万人が死ねば満足するのでしょうか(第二次世界大戦における全世界での軍人・民間人の犠牲者は、5000~8000万人)。
執筆仕事で一日中パソコンの前にいる日常になってしまったのですが、フィールドワークに出たい欲求が爆発しそう(笑)。尚且つ読書もしたいという欲求がマックス。昔、朝日出版から出ていたエピステーメーという書籍をご存知の方はいますでしょうか。『空間』とか『記号+レクチュール』とか『ウィトゲンシュタイン』とか「仮面ペルソナ』とか。9冊ほど持っているのですが、ポスト福一に改めて読んでおきたいと思うのですよ。しかし、時間がない。スーザン・ソンタグの『反解釈』やボードリヤールももう一度読みたい。構造主義のシニフィエ(意味するもの)とシニフィアン(意味されるもの)とかは、商業主義全盛、マスコミや広告代理店のプロパガンダ全盛の現在においては、バーチャルリアルではなく正にリアリズムの現象です。ほとんど予め用意された現実を生きることになんの疑問も抱かない、それが現代人です。その挙句の果ての福一事故。収束はできません。今後50年、100年と1800種もの放射性物質が垂れ流されます。今のままでは日本はもちろん北半球は終わります。ありとあらゆる物は等価であり、無価値であるというニヒリズムが宇宙の真実か。
【重要】福島原発事故で発生した放射能、北米のカナダ沖でも観測!1立方メートルあたり2ベクレル!汚染は水深100mにまで及ぶ!
流出は今も今後も止まらない。止める術がない。このままでは日本はおろか北半球が終わる。