





雨後の暖かさに誘われて妻女山へ。たまたま訪れていた神奈川の方達に妻女山展望台は、戦国時代は赤坂といい、本当の妻女山は斎場山といってあそこですと、展望台から西南西に見える斎場山を教えてあげました。なかなか歴史に詳しい方々でしたので、武田別働隊の経路や妻女山から斎場山、陣場平辺りの江戸時代から伝わる第四次川中島合戦の概要を説明させていただきました。史実かどうかはさらなる検証が必要ですが、『甲陽軍鑑』に記された、あるいは、江戸後期の『甲越信戦録』に記された上杉軍の布陣や斎場山周辺の詳細な地名は、地元ならではの解説ができるというものです。
その後、林道倉科坂線を歩き、途中から二本松峠(坂山峠)への山道、倉科坂を登りました。昔は倉科へ越える重要な交通路で、幅6尺の街道があったとされるところです。現在は、上部と下部に広い街道の名残がありますが、途中は沢になったり藪になったりで不明朗な箇所もあります。それでもなんとか二本松峠にたどり着きました。ここから倉科へ下りる道の方が、あんずの里ハイキングコースなので整備されています。
今日はピークハントをしないと決めてきたので、天城山(てしろやま)へは登らずに、南面の巻き道を辿り、唐崎城跡へ続く岩場に出ました。鞍部のダンコウバイは、かなり膨らんだもののまだ蕾でした。恐らく今週の暖かさで開花するでしょう。そして、秘密の山蕗の群生地へ。この雨と暖かさでたくさん出ていました。食べる分だけを採取。その後、近道をして斎場山へと向かいました。
いつものように斎場山の墳丘裾を登っていくと、この辺りの千曲市の低山でよく見られる茶色の木の標識が立っています(写真)。あれ、ここは長野市なのにこんなところにもと思って見ると、「斎場山・妻女山 標高512,8M 上杉謙信陣営跡」 とあります。512,8ではなく、512.8が正しいはず。日本や英語圏の国は、小数点にピリオドを使います。これを書いた人はフランス人なのでしょうか(笑)。加えて、メートルは、Mではなく小文字のmでなければなりません。
それ以上に困った表記が、一番上の「五量眼塚古墳」という表記です。この表記の根拠は、恐らく千曲市が更埴市だった頃の『更埴市史』第一巻 古代・中世編(平成六年発行)の350頁上段、北山古墳群の文中にある「妻女山の山頂にある五量眼古墳は、」という記述に基づいているものと思われます。未調査でやや古手の古墳と思われるという記述もありますが、既に調査はされていますし、土口将軍塚古墳より新しいともいわれています。
しかし、この五量眼という記述そのものが誤りなのです。そもそも五量眼というのは、斎場山から西方へ100m弱下ったところにある御陵願平(ごりょうがんだいら)が、その名称の発祥地です。長野県地名研究所の『長野縣町村字地名大鑑』によると御陵願平ではなく、御陵安平と記されていますが、これは聞き取り調査の際に誤記されたものではないかと思われます。
その御陵願平は、古代斎場山古墳や天城山(手城山・てしろやま)の坂山古墳を拝むための場所だったといわれています。また、現在麓にあるこの地の産土神・古代科野国国造の妻、会津比売命を祀る会津比売神社が、往古はここにあったという説もあります。その陵願平が転訛して、龍眼平、竜眼平、両眼平などと記されるようになりました。これらはすべて俗称です。そこから拝んだことで、斎場山古墳が、陵願塚、龍眼塚、両眼塚などと呼ばれるようになったわけです。
他には上杉謙信が第四次川中島合戦で本陣としたという伝説から、床几塚とか謙信台などとも呼ばれますが、これらもすべて俗称です。その俗称の中でも、五量眼塚というのは、最も下位に属するもので、私の周りではこの表記を知る人は皆無です。その『更埴市史』に一カ所見られるだけです。
『更埴市史』は、その他にも陣場平のコブの写真に斎場山とキャプションをつける誤りがあります。あそこは旧清野村の字妻女山の最高地点で、斎場山ではありません。
古墳というのは通常、森将軍塚古墳や土口将軍塚古墳のように大きなものは村名で呼ばれますが、一般的にそれ以外の古墳の場合は、立地する小字名をもって呼ばれます。ですからそれに従えば、斎場山古墳の場合は、旧岩野村字妻女、または松代町字岩野小字妻女ですから、「妻女古墳」か「妻女山古墳」とすべきなのですが、これには問題があります。
なぜなら、現在、国土地理院の地形図において、妻女山と記されているのは、斎場山のことではなく、妻女山松代招魂社のある旧赤坂山のことだからです。そして、ここにも古墳があり(明治村誌では赤坂山古墳)、妻女山古墳となると重複してしまい混乱が生じます。
ですから、この古墳の名称は、往古の山名、斎場山から「斎場山古墳」とするのが最も相応しいということになるのです。いずれにしても、私のサイトを見た人が斎場山まで足を伸ばすこともあると思います。インターネットの時代ですからブログなどで、この標識や名称が紹介されることの影響を考えると、このままでいいわけがありません。標識設置の責任者名が書いてないのも問題です。なるべく早く対策を講じなければと考えています。
参考資料:『岩野村誌』(明治13年調査)、『神話の舞台は北信濃』安藤光彦他、及び里俗伝による
★妻女山の詳細は、妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。