秋の三連休は、歴史の山巡りへ。といっても前日、八頭山と大林山へ駆け足撮影登山に登っているので少々疲れ気味。今回は清野氏の鞍骨城跡のある鞍骨山へ。妻女山から約90分の工程です。連休なので福島や鎌倉などかなり遠方からも山城マニアが訪れていました。一日休んで最終日は、まず妻女山へ山の手入れに。その後、兵庫から来た家族に展望台でガイド。ついでに拙書も紹介。次に佐久間象山縁(ゆかり)の象山、離山、象山神社、松代城を訪れました。
今回の記事は、リンク先も全て見ると本を一冊読む位の分量になります。Wiki以外は全て私のサイトかブログになります。ぼちぼち読んでくださいませ。
まず象山神社へ(左)。学問の神様として受験生の参拝が絶えません。高義亭(中)。佐久間象山が安政元年(1854年)から約10年間の蟄居中に住んでいた松代藩家老望月主水の下屋敷聚遠楼の敷地内にあった建物。来客があるとこの2階に招き、応対したそうです。中岡慎太郎や高杉晋作も訪れています。境内に咲く深紅の鶏頭の花(右)。神社近くの佐久間象山記念館はお勧めです。象山愛用の品や、怪しげな電気治療器や地震予知装置などがあります。
ペリー来襲の時に松代藩は横浜の警護を命じられ、象山は横浜に赴きます。彼の活躍には時の松代城主・真田幸貫の力もあります。象山の正室は門弟勝海舟の妹順子ですが子がなく、嫡子は側室お菊の生んだ恪二郎です。象山の敵を討つべく新撰組に入りましたが、生来のわがままで役立たず、後に司法省に入りましたが、食中毒で29歳で亡くなっています。
象山は儒学者・科学者・医者・砲術家で、日本最初の電信実験をし、地震計、医療器、写真機など数多くの化学実験をしました。その多彩な才能には驚かされますが、それ以上に、世界的な視野から日本の行く末を見つめる視点を持っていたことに驚かされます。後に勝海舟にまでほら吹きなどといわれましたが、結局鎖国が続いた後の日本では、彼の才能と見識を真に理解できる人は誰もいなかったのでしょう。ただ、そんな象山も、明治維新が英仏金融勢力による日本隷属を企て、明治維新は結局彼らが薩長の田舎侍を利用したクーデターになるとは、想像もできなかったのではないでしょうか。田布施システムで検索を。
気づかない人が多いのですが、高義亭の北側にある佐久間象山の像(左)。私はびっくり象山と呼んでいるのですが、頭が体の中心線からずれていて、なんかコミカルで好きです。その側に咲き誇っていたキンポウゲ科の秋明菊(貴船菊・秋牡丹)。ご近所の家にも桃色の花が満開。秋の信州っぽい趣きのある花です。花弁はなく、そう見えるのは萼片。秋風に揺れる様は優雅です。古く入った花なのに、これを詠んだ和歌がないというのは不思議です。
池の小径を西へ進むと、佐久間象山の生家があった場所(右)。当時を偲ばせるものは井戸しか残っていません。ここも割りと見落としがちな場所です。この西の土塀の木戸を出て右斜め前の小路を登ると神田川を渡って象山への登山口があります。
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漫 述
謗る者は汝の謗るに任す
嗤う者は汝の嗤うに任せん
天公本我を知る
他人の知るを求めず
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橋を渡ると、「象山コミュニティの森案内図」(左)。オレンジ色は私の書き込み。山頂までは20分ほど。神社のみで象山へ登らない人がほとんどですが景色もいいのでぜひ行ってください。特に桜と紅葉の季節はお勧めです。保育園児や小学生も遠足で登る易しい山です。登山靴でなくても、スニーカーやウォーキングシューズなら大丈夫。右は登山口の写真。小さなカットは、象山が思いを巡らしながら歩いたという神田川沿いの「思索の小径」。川の中にクヌギのドングリがたくさん落ちていました。ここから鞍骨山へのコースは、拙書でも紹介しています。
つづら折れの後、水道施設の横を抜けるとこんなレトロな四阿があります(左)。相当古いものですが、昔は中にベンチとかあったのでしょう。妙な竈かストーブみたいなものもあります。そこから木段や石段のある道を登ると、四阿のある集いの広場(中)。春は妻女山と同様に桜が見事です。キタキチョウやヤマトシジミ、アキアカネが舞っていました。そこから僅かにひと登りで象山山頂(右)。象山の石碑とスピーカーがあります。佐久間象山の名前の由来ともなった象山は、明末清初の禅宗の僧、隠元隆にちなむもので、象山の麓には彼を祀る黄檗宗(おうばくしゅう)(禅宗) 象山 恵明禅寺があります。象山の名は、彼の故郷の象山という地名に因むものでしょう。
象山山頂から西方の斎場山、妻女山、茶臼山方面の眺め。古代科野国から戦国時代、江戸時代、明治維新と歴史の風景が堪能できます。妻女山の名称や位置の変遷については、「妻女山の位置と名称について」をご覧ください。第四次川中島合戦の考察も。注意しないといけないのは、斎場山は陣馬平と妻女山を結ぶ尾根上にはなく、400m向こうにあるということです。
東側を見ると皆神山(左)。崇神天皇に初代科野国造に任命された森将軍塚古墳の埋葬者といわれる建五百連命(たけいおたつのみこと)の妻、会津比売命(あいづひめのみこと)の父、出速雄命(いずはやおのみこと)を祀る皆神神社があります。その父は、諏訪大社の祭神、建御名方神 (たけみなかたのかみ)。その父は大国主命。つまり、大和系と出雲系が結ばれ、古代科野国を造ったということになります。
会津比売神社は、本来は斎場山の西の御陵願平にあったといわれ、上杉が庇護していたため、武田の兵火に焼かれたといいます。現在は、妻女山へ登る高速のトンネルを右へ進んだ山陰にあります(上のカットの妻女山の向こう側)。
右へ目をやると、武田軍が狼煙を挙げたというのろし山(中)。中腹に、真田貞元、貞保親王、信之が合祀される白鳥神社が鎮座。境内には、天才と呼ばれた立川流和四郎富昌作木造神馬があり、これは必見です。
象山山頂には石垣もいくつか残存。竹山城とも呼ばれたように竹林があります(右)。
さらに南へ尾根を辿ると、長野市の水道施設(左)。ここは多田越といって上杉謙信が斎場山布陣の際に超えたところといわれています。右上に小丸山(越山)。その奥に鏡台山や鞍骨山へ続く尾根。
(中)戻って集いの広場でキタキチョウを撮影。(右)ヤマトシジミも舞っていました。ハナアブも。この時期、温かい日には山だけでなく、畑や庭やその辺の道端でもたくさん見られます。しかし、ネオニコの空中散布をした千曲市の山域ではまったく見られませんでした。
帰路は往路の登山口ではなく、そのまま尾根を北に下って離山へ。離山神社は改修中でした(左)。ここは山頂から城内が見えるため、江戸時代は庶民は登れませんでした。諏訪大明神を祀ってあります。清野氏の鞍骨城の鬼門除けとか。境内の一角にある青麻神(あおそさま)(中)。中風を治す神として信仰が厚かったようです。昔は塩分のとりすぎで中風や脳溢血が多かったのでしょうか。山を下りて文武学校沿いを松代城へと向かいます(右)。写真は振り返って南を見たところ。近くの真田宝物館と真田邸も必見です。
◉清野氏と戦国時代「清野氏について」
前日まで松代十万石真田祭だったのですが、この日も大勢の観光客が訪れていました。太鼓門前橋から斎場山を望む(柳の木の左側の山)(左)。戌亥の櫓台(中)。櫓台とは。中学の頃は、寂れていてよく石垣を登って遊びました。太鼓門から武田別働隊が超えた戸神山脈を望む(右)。
◉松代城太鼓門前橋から戸神山脈と鞍骨城と斎場山(旧妻女山:上杉謙信本陣)を望む大パノラマ。山座同定も。
武田別働隊は襲撃前夜、上のカットの西条山と書かれた手前の谷を詰め山陰に潜み、右手の戸神山向こうの唐木堂越から森の平を通り倉科に下り、二本松峠下の兵馬(ひょんば)で隊を整えてから分かれ、斎場山一帯に布陣する上杉軍を襲撃したといわれています。実際は蛻の殻だったわけですが。武田の軍学書『甲陽軍鑑』に誤って斎場山(旧妻女山)を読みが同じため西条山と書かれたことで誤解を生みましたが、当地で西条山というのは、特定の山頂ではなく、のろし山から高遠山までの山域一帯を示す言葉です。斎場山とは全く別の山です。
◉『第四次川中島合戦』啄木鳥戦法の検証(武田別働隊斎場山襲撃経路図)
松代城戌亥の櫓台から斎場山を望む。上のカットの右手になり、二本松峠の左に鞍骨城跡があります。松代城から斎場山までは、2キロちょっとしかありません。かなり近いです。炊飯の煙などお互いに見えまくり必至です。謙信は、信玄が全軍を海津城に入れた後、本陣を斎場山から海津城が見える陣場平に移したといわれています。『甲陽軍鑑』の編者、小幡景憲の画「河中島合戰圖(23、27番の図)」(東北大学狩野文庫)には、陣場平に七棟の陣小屋が建てられている様子が描かれています。
ところで、以前ここに来られた観光客から、妻女山や茶臼山がどこか分からないと言われました。ここに山名方位盤を置いて欲しいですね。しかし、現妻女山(赤坂山)を本陣としたり、斎場山を記さないのでは全く役に立ちませんが。以前聞いたボランティアガイドの人達の解説も江戸時代後期の物語『甲越信戦録』を元にしたものでした。
戦国当時は妻女山という名の山はなかったのです。斎場山と赤坂山のみ。江戸時代になって『甲陽軍鑑』に西条山と書かれたものが流布したために、松代藩が妻女山という新名称をつけたのです。長野郷土史研究会の故小林計一郎氏も、本当の妻女山は現在の妻女山ではなく、旧岩野駅の上の512mの妻女山(本名の斎場山は知らなかったようです)と『川中島の戦』で記しておられます。『甲陽軍鑑』自体は、脚色や改変がされた江戸時代の木版本でなく、国宝の元和写本の解析で、国語学者の酒井憲二氏による『甲陽軍鑑大成』全七巻では、江戸時代には使われなくなった甲州の方言が記されており、偽書ではないということです。
◉『甲陽軍鑑』はなぜ斎場山を西条山と誤記したのか!?(妻女山里山通信)
「上杉謙信斎場山布陣想像図」未だかつて誰も描いたことのなかった江戸時代の人が伝える上杉軍斎場山布陣図。
【資料:『甲越信戦録』江戸後期の川中島の史書。史実というより物語で、まだ生まれていない人も出ている】(写真:昭和23年GHQ撮影。私所有の掛け軸より。青色は推定される当時の流路。無断転載禁止)
『上杉年譜』(編纂の着手は5代綱憲)の上杉軍の編成は下記の通り
●先陣
村上義清 高梨政頼 井昌満 須田満親 島津忠直
●二陣
河内和泉守貞政 石川備後守為元 本庄美作守慶秀 荒川伊豆守長実
●後備
柿崎和泉守景家 北条安芸守輔広 安田掃部介匡元 大関阿波守盛憲
●遊軍
本庄弥次郎繁長 斎藤下野守朝信 松川大隅守脩衡
●遊軍二軍
黒川備前守清実 水原壱岐守隆家 下條薩摩守実頼 元井日向守為宗 加地安芸守知綱 新津丹波守勝資
●旗本前備
小島弥太郎貞興 福王寺兵部少 須賀修理亮盛能 黒金上野介景信
●旗本左備
山吉孫二郎豊守 本田右近允 山内宮内少秀能 琵琶島弥七郎広員 大崎筑前守泰継
●旗本右備
桃井伊豆守義高 唐崎孫次郎吉俊 進藤隼人正家清 同山城守家長 安田冶部少長秀
●軍奉行
直江大和守実綱
●小荷駄奉行
甘粕近江守長重
●旗本先手
宇佐美民部少実定 岩井藤左衛門長忠 黒金孫太郎保信 鮎川孫次郎盛永 唐崎左馬之助為宗 田原左衛門太夫近典
●御手廻
北条孫五郎高広 松本大学助忠繁 長尾小平次景速 岩井民部少信能 長尾勘四郎景親 長井丹波守為実 矢野因幡守綱直 平賀左京亮頼直 飯森摂津守重之 竹俣筑後守昌綱
以上一万八千(『甲陽軍鑑』一万三千)
◉「妻女山の位置と名称について」妻女山の真実「妻女山は往古赤坂山であった! 本当の妻女山は斎場山である」
◉「妻女山」「妻女山 行き方」「妻女山 地図」「斎場山」「さいじょざん」「さいじょうざん」
◉真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その1(妻女山里山通信)
◉真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その2(妻女山里山通信)
◆『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。その山の名前の由来や歴史をまず書いているので、歴史マニアにもお勧めします。
本の概要は、こちらの記事を御覧ください。
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