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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

霧に浮かぶ鹿島槍ヶ岳:茶臼山から(妻女山里山通信)

2009-11-25 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 勤労感謝の日の朝、川中島は霧に包まれていました。通常なら霧は日の出と共に消え始め、午前八時過ぎには完全になくなるのですが、その朝は東に雲があったためなかなか霧が晴れませんでした。そこで、出かけたついでに茶臼山へ寄ってみました。有旅茶臼山登山口に着くと、空は青く晴れてきましたが、眼下の川中島は一面霧の下。茶臼山も霧に包まれ幻想的です。武田信玄布陣の石碑も霧の中でした。

 これは、いい展望が得られるのではと、霧で湿った落ち葉を踏みしめながら茶臼山展望台へ急ぎます。展望台へついて目に飛び込んできたのが写真の風景です。霧に包まれた山里の遙か向こうに朝日をあびた鹿島槍ヶ岳が浮かんでいました。ここ茶臼山からは三十数キロ離れています。

 鹿島槍ヶ岳(南峰2889.1m、北峰2842m)は、後立山連峰の盟主とされる日本百名山の一つですが、妻女山展望台からもその特徴的な双耳峰の雄姿がよく見える名山です。
----鹿島槍ヶ岳ほどさまざまな名前が付けられていた山も珍しいかも知れません。江戸時代、加賀藩の奥山廻りの絵図には、富山県側の立山の真後ろに当る山で「後立山(ごりゅうさん)」と記入されています。同時代長野県側では「ケンノフガ岳」「ケンノフ岳」などと呼ばれていました。明治の初めには「隠里(かくねざと)岳」「乗鞍岳」「布引岳」などとされ、雪形から「しし岳」「鶴ヶ岳」さらに面白いのは双耳峰が高さを競っているように見えたのか「背比べ岳」とも呼ばれています。----(信濃毎日新聞社編集局編『北アルプス』より)

 鹿島槍ヶ岳の呼称は一説に、室町時代の大地震で大崩落がおこり、その怒りを静めるために常陸国一之宮の鹿島神宮の祭神、建御雷之男神(武甕槌大神・タケミカヅチノオカミ)を祀ったことに由来するとされます。麓の大町市には、平家の落人伝説が残る鹿島という集落があり鹿島神社があります。その脇を流れる鹿島川の支流、大川沢の源流部には、カクネ里(隠里)という地名がありますが、ここが本来は平家の落人の里だったのではないでしょうか。

 建御雷之男神は、葦原中国平定の際、出雲側の健御名方神(タケミナカタノカミ)と力比べをして勝って、これを従わせたとされています(相撲のルーツとか)。健御名方神は諏訪大社の祭神です。

 隠れ里とは、平家の落人伝説や古代の山岳信仰、桃源郷などの理想郷を表す言葉で、洪水の後にお椀や箸が流れてきて、その存在が初めて知れたとか、山中で迷って辿り着いたら手厚くもてなされたとかいう言い伝えがあります。興味のある方は、「隠れ里」で調べてみることをお勧めします。

 妻女山展望台からは、西に鹿島槍ヶ岳、東に根子岳と四阿山が望めます。根子岳は、元は禰固岳と書かれました。「禰」は弥の旧字で、天理によく沿い従うもの。親孝行の意味があります。「禰」に固まると書いて「禰固岳」でした。天意に適うようにお参りすれば願い事がかなう山という意味でしょう。この字は根子岳山頂の祠の隣にある石碑に書いてあります。また、猫嶽、あるいは猫岳とも書きますが、まるで眠る猫の背中のような山容から、そう呼んだのでしょう。

 しかし、子供の頃の私には、どうみても鹿島槍ヶ岳の方が猫岳という名前に相応しく思えてなりませんでした。双耳峰の剣が峰が猫の耳に見えたのです。今ならさしずめトトロでしょうか。

★茶臼山展望台と妻女山展望台から見た北アルプスの大パノラマ写真は、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】の「北アルプス」のページをご覧ください。

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