年末は、去年は豪雪で断念した信州は長野市清野と千曲市倉科の境にある、第四次川中島合戦の武田方の清野氏の要害、「鞍骨城」のある鞍骨山へ登りました。
鞍骨城へは、妻女山の麓から妻女山、陣馬平、天城山(てしろやま)、二本松峠を経て登るのですが、冬季以外は月の輪熊の生息地であり、猪、ニホンカモシカもおり、夏場はサルトリイバラやエビガライチゴが密集し、オオスズメバチガ飛び回るのでとても登れません。城郭の石垣やガレバはマムシの巣になっていることも充分に考えられます。安全に登れるのは熊が冬眠した冬しかないのです。
そんなわけで大晦日の登山を決行したのですが、妻女山へ登ってみると大勢のハンターがいるではありませんか! なんですかと聞くと大がかりな猪の駆除が行われるとのこと。間違われて撃たれたら洒落になりません。私達の経路を説明し、ハンター仲間に無線で伝えてもらうことにしました。大きな声を出しながら登ってくれとのことで、大声を出したり笛を吹いたりと大騒ぎの山登りになりました。
もっとも猪狩りは、谷の下から猟犬を使って猪を追い上げ、上からねらい撃ちするので、尾根の稜線を歩いている分には、流れ弾さえなければ心配はいらないのですが…。
鞍骨城は、標高798mの鞍骨山頂にあり、埴科郡の山城中最も規模の大きい城郭です。本郭(西辺20m、南辺17m、北辺9.7m)、西方に16×9mの脇郭、22×12mの副郭、さらに西に幅9.4×18mの大郭、その西に幅8×長さ70mの狭長な郭があり、堀切を隔てて平坦部が続きます。その東方に箕状の段郭が階段敷きに四つ連立しています。
この城郭は、北面が急で南面がやや緩やかで、南西に虎口があり大手とするようです。城趾から100m余り離れて長さ18m、幅9mの馬場跡があったといわれています。
城主の清野氏はもともと葛尾城主の村上氏に属していましたたが、天文十九(1550)年九月、武田氏による戸石城攻撃の際に清野清寿軒が武田氏に出仕し、天文二十二(1553)年には清野左近大夫が信玄より「信」の一字を偏諱されています。しかし、永正年中(1505-1520)清野山城守勝照の築城説には、明確な証拠がないそうです。
深い空堀を越えて行った先に我々を待っていたのは、高さ50mはあろうかという天空にそびえる鞍骨城の雄姿でした。一時は、積雪もあるしこれは登れるかなと思いましたが、なんとかルートを探しながら登頂に成功しました。山頂からは善光寺平や更級の里が一望の下に見え、風もなく穏やかで爽快な気分でした。ここで強者共が夢の跡に想いをはせ、昼食の時間としました。
新年には、一般的に知られている招魂社のある妻女山(地元でも妻女山と呼ばれて久しいが本当は赤坂山)とは別に、本来の妻女山、地元では上杉謙信が本陣を置いたため謙信台と呼ばれ、妻女山古墳のある512mの頂きに登り、遠い歴史に思いを巡らせました。
モリモリキッズにフォトドキュメントをアップしました。ご覧ください。
追記:後日聞いたところでは、30、31両日で、この山域だけで40頭もの猪が仕留められたそうです。正確にいうと猪ではなく、以前逃げたか放されたイノブタが大繁殖したものだそうですが、亥年を前にちょっと可哀想な気もしますが、地元の人の甚大な被害の話を聞くとしょうがないのかなとも思います。
鞍骨城へは、妻女山の麓から妻女山、陣馬平、天城山(てしろやま)、二本松峠を経て登るのですが、冬季以外は月の輪熊の生息地であり、猪、ニホンカモシカもおり、夏場はサルトリイバラやエビガライチゴが密集し、オオスズメバチガ飛び回るのでとても登れません。城郭の石垣やガレバはマムシの巣になっていることも充分に考えられます。安全に登れるのは熊が冬眠した冬しかないのです。
そんなわけで大晦日の登山を決行したのですが、妻女山へ登ってみると大勢のハンターがいるではありませんか! なんですかと聞くと大がかりな猪の駆除が行われるとのこと。間違われて撃たれたら洒落になりません。私達の経路を説明し、ハンター仲間に無線で伝えてもらうことにしました。大きな声を出しながら登ってくれとのことで、大声を出したり笛を吹いたりと大騒ぎの山登りになりました。
もっとも猪狩りは、谷の下から猟犬を使って猪を追い上げ、上からねらい撃ちするので、尾根の稜線を歩いている分には、流れ弾さえなければ心配はいらないのですが…。
鞍骨城は、標高798mの鞍骨山頂にあり、埴科郡の山城中最も規模の大きい城郭です。本郭(西辺20m、南辺17m、北辺9.7m)、西方に16×9mの脇郭、22×12mの副郭、さらに西に幅9.4×18mの大郭、その西に幅8×長さ70mの狭長な郭があり、堀切を隔てて平坦部が続きます。その東方に箕状の段郭が階段敷きに四つ連立しています。
この城郭は、北面が急で南面がやや緩やかで、南西に虎口があり大手とするようです。城趾から100m余り離れて長さ18m、幅9mの馬場跡があったといわれています。
城主の清野氏はもともと葛尾城主の村上氏に属していましたたが、天文十九(1550)年九月、武田氏による戸石城攻撃の際に清野清寿軒が武田氏に出仕し、天文二十二(1553)年には清野左近大夫が信玄より「信」の一字を偏諱されています。しかし、永正年中(1505-1520)清野山城守勝照の築城説には、明確な証拠がないそうです。
深い空堀を越えて行った先に我々を待っていたのは、高さ50mはあろうかという天空にそびえる鞍骨城の雄姿でした。一時は、積雪もあるしこれは登れるかなと思いましたが、なんとかルートを探しながら登頂に成功しました。山頂からは善光寺平や更級の里が一望の下に見え、風もなく穏やかで爽快な気分でした。ここで強者共が夢の跡に想いをはせ、昼食の時間としました。
新年には、一般的に知られている招魂社のある妻女山(地元でも妻女山と呼ばれて久しいが本当は赤坂山)とは別に、本来の妻女山、地元では上杉謙信が本陣を置いたため謙信台と呼ばれ、妻女山古墳のある512mの頂きに登り、遠い歴史に思いを巡らせました。
モリモリキッズにフォトドキュメントをアップしました。ご覧ください。
追記:後日聞いたところでは、30、31両日で、この山域だけで40頭もの猪が仕留められたそうです。正確にいうと猪ではなく、以前逃げたか放されたイノブタが大繁殖したものだそうですが、亥年を前にちょっと可哀想な気もしますが、地元の人の甚大な被害の話を聞くとしょうがないのかなとも思います。
なにせ夏は、熊、猪、マムシ、スズメバチにイバラで、とても行けませんからね。去年は豪雪で断念したしで、やっと念願が叶ったわけです。
できれば象山側からも登ってみたいですね。
それにしても、雄大な城郭でした。