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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

『第四次川中島合戦』啄木鳥戦法の検証【妻女山里山通信】

2008-06-01 | 歴史・地理・雑学
 啄木鳥戦法という言葉の初出は、江戸後期に信濃で書かれた『甲越信戦録』であろう。ただ、『甲越信戦録』には、二種類ある。川中島合戦の実録がないことに気付いた三代将軍家光の命により、越後長岡城主牧野備前守忠精の家臣山本主計が編集して出版献上した『甲越信戦録』五巻。これがオリジナル。この書に旧武田方家臣は、『甲陽軍鑑』『武田三代記』『信玄全集』と記述が異なると異議を唱えたが、足利11代将軍義澄の末子、南光坊僧正の「甲州の記したものは武田の悪事や非分を覆い隠し、虚談が過ぎるが、謙信は事実と異なる記述を嫌ったゆえ、事実相違ない」と進言し、家光が実録として認めた経緯がある。
 そして、江戸後期、文化7年(1810)以降に川中島で書かれた作者不詳の『甲越信戦録』八巻。前記の『甲越信戦録』を元にして、『甲陽軍鑑』、『武田三代記』、『北越軍記』、『本朝三国志』等の12の版木本と、『川中島評判記三巻』、『諸家見聞記』、『佐久間竹庵記』等の写本に加え、地元の口伝をもとにして執筆された戦記物語であり、創作も多い。俗名「妻女山(さいぢょやま)」という記述も見られる。正保4年(1647)、幕府の命により正保国絵図が作成される。松代藩により妻女山と明記。現在のところ公式文書では最初と思われる。
 世は滑稽本『東海道中膝栗毛』十返舎一九が出版され、大好評を博し、一般庶民にも旅ブームが起きる。善光寺参りも盛んになり、川中島合戦絵図が土産物として飛ぶように売れた時代である。

 『甲陽軍鑑』には、啄木鳥戦法という言葉は出てこないようだ。ここでは、明治16年に『甲越信戦録』を忠実に木版本にした西沢喜太郎編『実録甲越信戦録』を意訳してみた。
 山本勘助が信玄に「この度の軍術木啄(ぼくたく・きたたき・啄木鳥)の木をつついて虫を取るに朽つる穴を構わず後ろの方を嘴にてたたき候 故に虫は前に現るを喰い候 この度の軍法ははばかりながらこれに等しく存せられ候と申し上げる。」と提唱したと書かれている。さらに、「半進半退の繰分と唱え、味方二万余の御勢を二手に分けて、一万二千を大正(たいせい)の備え、八千余人を大奇(たいき)の備えとし、一万二千の大正をもって夜中に妻女山に押し寄せ、不意に切って入らば、さすがの謙信もこれに驚き山を逃げ下り、川を渡るところを、味方八千余人と引率し川中島に備えを立て、越後勢が犀川の方へ渡らんとするところを待ち構えて、ことごとく討ち取ることは、礫(つぶて)をもって鶏卵を打ち砕くに等しい。味方の勝利は疑なし。」と続く。
 しかし、海津城での炊飯の煙を見た謙信は夜襲があると気づく。「諸葛孔明名付けて半進半退の術と云い、日本にては繰り分けの術と云えり。」と見破ったと記されている。これは、中国春秋時代、呉の将軍・孫武が書いた兵法書『孫子』の軍争篇の一説、「辞卑而益備者、進也、辞彊而進驅者、退也、輕車先出居其側者、陳也、無約而請和者、謀也、奔走而陳兵車者、期也、半進半退者、誘也」。つまり、「辞卑くして備えを益す者は、進むなり。辞彊(つよく)して進駆する、者は、退くなり。軽車先ず出でてその側に居る者は、陣するなり。約なくして和を請う者は、謀るなり。奔走して兵車を陳(つら)ぬる者は、期するなり。半進半退する者は、誘うなり。」という文章からの引用である。
 啄木鳥戦法という言葉は、どこにも出てこない。

 おそらく『甲越信戦録』の作者によって、江戸時代後期に命名されたであろう啄木鳥戦法であるが、キツツキにそのような習性はない。森で観察すると分かるが、キツツキは、幹の周りを螺旋状につつきながら登っていく。ドラミングの際の音の変化で樹皮の下に虫がいるかどうか分かるのだそうだ。虫がいるとみるや猛烈なドラミングを開始し、虫が逃げるより速く木に穴をあけ、長い舌にひっかけて引きずり出し食べてしまう。おそらくこの螺旋状につつきながら登っていく様を、裏をつついて反対に追いやると勘違いしたのであろう。

 では、啄木鳥戦法は無かったのだろうか。それまでの信玄は、謙信の気勢をそぐような動きばかりしていた。謙信がいないところを見計らって信濃を攻略し、謙信が責めてきても真正面から迎え撃つことはしなかった。それが信玄の戦い方であった。領土拡大が目的であれば、啄木鳥戦法のような作戦はとらなかったと思われる。この啄木鳥戦法は、よく歴史本で描かれているような象山の尾根を辿ったり、清野の山裾を徘徊するような小さな作戦ではなかったようだ。
 『甲越信戦録』に書かれている内容は、古い地名が出てくるので地元の人でもなかなか理解できないが、その経路を図式化すると、この作戦の壮大さと信玄の並々ならぬ謙信撃退の執念が感じられる。(詳細はカシミール3Dマップによる武田別働隊はどこをたどったか!?をご覧あれ。)
 
 『甲陽軍鑑』には、この啄木鳥戦法の詳細は全く書かれていない。別働隊に参加したという高坂弾正が元となるものを綴ったというにしては不可解だが、国語学者の酒井憲二氏の木版印刷本ではない国宝に指定されている元和写本の『甲陽軍鑑』研究によると、小幡景憲が手に入れた原本は、痛みが激しく読みとれない部分も多くあったと記されているという。別働隊に関する部分がごっそり抜けていたとしても不思議はない。啄木鳥戦法はなかったという説もあるが、修正ならともかく、全くの無から創作したにしては、地名の記載が細かく具体的である。真偽のほどは別にして、意外なほどその詳細が検証されたことがない(細かな地名が分からないと不可能だからか)啄木鳥戦法を図式化すると、想像以上に大規模な戦略であったことが分かる。

 江戸後期の『甲越信戦録』には、別働隊の動きをこう記してある。
 「武田方の妻女山夜討の面々は、子の刻に兵糧を遣い、子の半刻(月が隠れる午前1時頃)に海津を出べし。経路は西条の入より、唐木堂(坂城日名の方へ出る道なり)越に廻るべし。これより右手の森の平にかかり、大嵐の峰を通り、山を越えて妻女山の脇より攻め懸かるなり。この道は、甚だ難所なれども、ひそひそ声にて忍び松明を持ち、峰にかかり、谷に下り、あるいは山腹を横切り、次第に並ぶ軍勢これぞひとえに三上山を七巻き纏いしむかでの足卒苦して打ち通る。」
 「越後方は、月の入りを待って、静かに用意をして、丑の中刻(午前3時頃)妻女山を出給う。直江、甘粕、柿崎宇佐美の諸将は下知し、十二ヶ瀬、戌ヶ瀬を渡った。謙信公も戌ヶ瀬を渡るなり。直江山城守は、小荷駄奉行として、人夫に犀川を渡らせ、自分は丹波島に留まる。甘粕近江守は一千余人で東福寺に留まり、妻女山に向かいし敵兵が出し抜かれて、やむなく川を渡ろうとするのを阻止するため川端に陣を備えた。」

 また、『信濃史料叢書』の『眞武内傳』附録一 川中島合戦謙信妻女山備立覺には、「九月九日の夜、信玄公の先鋒潜に西條山の西山陰に陣す」とあり、夜襲に備えて予め唐木堂辺りに先鋒隊が潜んでいたと記されている。西條山とは、ノロシ山から高遠山辺りのことである。軍勢の多さからすると、主に唐木堂越と大嵐山への二つのルートで登り、大嵐の峰(戸神山脈)で更に隊を分けて、一部は尾根づたいに、一部は倉科、生萱、土口に下りて、数カ所から妻女山へ向かったと見るのが妥当だと思われる。倉科の天城山を清野へ超える峠道の麓には、兵馬(ひょんば)と呼ばれる場所がある。地元では斎場山へ向う別働隊が、隊を立て直した場所といわれている。(西條山とは外部のものが使う呼称で、狼煙山から高遠山辺りを指す。江戸後期の榎田良長彩色による「河中島古戰場圖」では、高遠山辺りに、西條山と記してある。なお当地では、にしじょうやまと呼び、さいじょうざんとは読まない。謙信が本陣としたと伝わる旧妻女山の本名は斎場山であり、さいじょうざんと読む。まったく別の山である。これを混同する歴史家が多い)
 
 倉科と清野を二本松峠を越えて結ぶ兵馬のある倉科坂などは、近年まで盛んに使われていた道であるし、清野の赤坂山の麓の道島から、赤坂山(現妻女山)を登り、東風越から斎場山を巻いて長尾根から薬師山へ辿り、土口へ下りる道は、斎場越・清野道などと呼ばれ、江戸時代には谷街道が増水で通れない時に大名行列も通ったとされる重要交通路である。当時は、電車やバスがないのだから、峠を越えて行き来することは普通のことであった。そのため、峠道もよく整備されていたと思われる。 特に笹崎の先は、現在のように堤防はなく、洪水の度に通行できなくなったそうであるから、山越えの道は欠かせなかった。谷街道も、江戸時代の絵図によると、現在のように笹崎と千曲川の間ではなく、笹崎の先端の尾根を越えていた。

 『川中島五箇度合戦之次第』には、「信玄は、戸神山中から信濃勢を忍ばせて、謙信陣の背後を突かせようとする。」とある。戸神山中とは、埴科郡の中心にある1269mの鏡台山から北へ1185mの三滝山を経て、977.5mの大嵐山(杉山)から鞍骨山に至る峰をいい、戸神山脈という。また、大嵐山(杉山)の名を取って大嵐の峰ともいう。

 上杉軍を川中島へ追いやるには、妻女山後背の天城山(ここを妻女山と誤記した絵地図や歴史研究本が多数)はもちろん、矢代(屋代)への退路を断つため唐崎城と雨宮の渡の間を塞ぐ必要がある。そこで一部は土口側から襲撃したのではないかと考えるのである。
 第四次川中島の合戦は、永禄4(1561)年9月10日。これは現行暦に直すと10月28日とされる。霧は千曲川、犀川で発生し、やがて自然堤防を溢れて里へ山へと押し寄せる。大河ドラマのように山からもの凄い霧が出るわけではない。山霧も出るが、これが川霧と合わさると10m先も見えないこともある。一度帰郷した際に高速道路がホワイトアウトしてフォグランプも全く効かず恐ろしかったことがある。忍び松明での行軍は決して容易なものではないと思うが、霧が出る前の夜は必ず晴れて空気が澄む。当日の月齢は、概算で9日目ぐらい、半月よりやや大きい程度。晴天ならばそこそこの明るさはあったと推察できる。
 行動を起こしたのは月の入りを待ってからとあるが、妻女山からは見えないところなので、先鋒隊が西條山の西山陰に潜んだのは、もっと早い時間ではなかったかと思われる。
 しかし、それほどの壮大な計略が、謙信によって読み取られ(実際はもう帰ろうだったかも知れないが)、ほぼ無人の妻女山へ攻め入った別働隊の驚愕の表情と血の気が引いたであろう様は、想像に難くない。そして、冬が来る前にさっさと越後に帰ろうとした謙信だったが(領民を食べさせるために関東に略奪に行かなければならない)、突然霧が晴れて遠くに信玄の大軍勢が。信玄も驚いたはず。そして、両軍とも逃げるわけにもいかず、両軍ともに大犠牲者を出した合戦が起きた場所が、その中間の南長野運動公園辺り。合戦場という住所がそれを示している。公園の南西の端には勘助宮の石碑がある。山本勘助が討ち死にしたと伝わる場所である。また、東の松代大橋北の信号を案内標識に従い西へたどると堤防沿いに典厩寺がある。ここの資料館には、武田典厩信繁にまつわる品が展示されている。マイナーで訪れる人が少ないが、友人の研究家によると、おそらく全て本物ですという見解。真田宝物館と共にぜひ訪れたい。

武田典厩信繁の墓と全国随一の大きさの閻魔大王像がある典厩寺探訪(妻女山里山通信)

 それにしても信玄も謙信もなぜ12年も川中島の戦いに拘泥したのだろうか。今でこそ越後は米どころだが当時は青麻(あおそ)ぐらいしか換金作物がなかった。甲州もザレ場の多い扇状地で米も多くは採れず作物は豊富ではなかった。しかし、信州の鎌倉といわれる塩田平や川中島は豊かで二毛作ができ、川には鮭も遡上した。信玄も謙信も領民を食べさせることができないと存在が危うくなるのだ。いわれるほど絶対的な権力を持っていたわけでもない。加えて上杉家はお家騒動ばかり。信玄も父との関係はご存知の通りである。英雄史観で見ていたら本当の歴史は見えてこない。決して絶対的でもなければ格好よくもない。戦術などは三国志がお手本だし、陰陽道で戦術を決めていたほどである。しかし、生島足島神社や武水別神社にある願文を読むと、お互いの憎悪の激しさに驚かされる。男の嫉妬は凄まじい。無駄に年月を浪費したともいえる。天下がほしければさっさと京に攻め込めばいいのである。こんな不毛な戦いで、最大の被害者はもちろん信州の人々である。川中島には、「七度の飢饉より一度の戦」という切実な言葉が残る。女子供は奴隷となり海外に売られた。当時のイエズス会の宣教師がそのことを書いている。もちろん彼らが女衒の張本人なのだが。何十万人もの人が奴隷として海外に売り飛ばされた。こんなことは絶対に学校では教えない。

「七度の飢饉より一度の戦」戦国時代の凄まじい実態 (妻女山里山通信)

妻女山の真実について、詳しくは、本当の妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「妻女山の位置と名称について」をご覧ください。

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