秋も深まり、川中島も霧に包まれる朝が多くなりました。暖冬のためか一寸先も見えないような濃霧はあまりありませんが、それでも早朝は深い霧の中に沈みます。「西条山(さいじょうざん)は霧ふかし」で有名な川中島の霧ですが、正しくは「斎場山は霧ふかし」です。ましてや「妻女山は霧ふかし」は間違いです。「妻女山」は「さいじょざん」であって、「さいじょうざん」とは読みませんから。戦国時代に妻女山という名の山は、まだありませんでした。この小学唱歌、またはお手玉歌を、おじいちゃんやおばあちゃんから、聞いた人、習った人もいるのではないでしょうか。
『川中島』小学唱歌(明治29・5)
1
西条山(さいじょうざん)は 霧ふかし
筑摩(ちくま)の河は 浪あらし
遥にきこゆる 物音は
逆捲く水か つわものか
昇る朝日に 旗の手の
きらめくひまに くるくるくる
2
車がかりの 陣ぞなえ
めぐるあいずの 閧(とき)の声
あわせるかいも あらし吹く
敵を木の葉と かきみだす
川中島の戦いは
かたるも聞くも 勇ましや。
『お手玉歌・霧の川中島』
西条(斎場)山は 霧深し
筑摩(千曲)の川は 波荒し
遥かに聞こえる ものおとは
さかまく水か つわものか
昇るあさひに 旗の手は
めぐるはめぐる 三万つよし
川中島の本当の濃霧の写真は撮れません。なぜなら真っ白で他になんにも写っていないからです。有名な第四次川中島合戦の早朝に出たといわれる川中島の霧は、川霧と盆地霧が合わさったもので、5m先も見えないような濃霧です。濃霧が出る前夜は快晴で冷え込みます。まず千曲川と犀川の上を真綿のような霧が覆い、それが溢れて地上を覆い、ついには山も覆ってしまいます。ホワイトアウトしたらフォグランプさえほとんど役に立たないほどです。
そんな濃霧も日の出と共に消え始め、8時過ぎには消えてしまいます。史実とすれば、突然現れた上杉の大軍に武田の軍勢は驚天動地、口から心臓が飛び出るような驚きであったに違い有りません。先日は、晴れた空の下を寒風にのってたくさんのケサランパサランが飛んできました。まるで粉雪のようでした。
写真上下は、晴れ始めた川中島の霧。真ん中は、江戸時代後期の軍記物語『甲越信戦録』に伝わる上杉謙信斎場山陣取を配置してみたものです。
★妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。武田別働隊の経路図、きつつき戦法の検証、上杉謙信斎場山布陣図などもご覧いただけます。