妻女山(戦国時代は赤坂山)の南へ30~40分ほど登ったところに、地元で「陣場平」と呼ばれる場所があります(写真最下部の地図参照)。明治時代の麓の岩野村誌には、【上杉謙信陣営跡】として「本村南、斎場山に属す。永禄四年九月此処に陣すること数日、海津陣営の炊煙を観、敵軍の機を察し、夜中千曲川を渡り、翌日大に川中島に戦うこと、世の知る所なり。山の中央南部に高原あり、陣場平と称す。此の西北の隅を本陣となし(斎場山古墳の上)、謙信床几場と云うあり」とあります。
陣場平は、斎場山と天城山の分岐の東風越(長坂峠)から大きく二段に分かれている広い平地ですが、地元では普通南の高い方を陣場平と呼んでいます。
小幡景憲彩色の『河中島合戰圖』(狩野文庫所蔵)には、斎場山の南の高原に「謙信公御陣所」と書かれ、陣小屋が七棟描かれています。この絵は、東北大学附属図書館 狩野文庫画像データベースで見ることができます。なぜ、この絵の場所が、陣場平と分かるかといいますと、上に斎場山から薬師山の尾根が左横に描かれ、東風越(長坂峠)から土口へ下りる谷があり、右の麓の地形が清野へ延びる尾根の形をそのまま描いていることから、陣城の場所が陣場平以外にはあり得ないのです。『甲陽軍鑑』の編者といわれる小幡景憲が、このような絵も描いていたというのが驚きですが、上杉軍と武田軍の対陣の様が描かれた非常に興味深いものです。どの程度の信憑性があるのかは分かりませんが、川中島の合戦から54年後のことですから、まだ生き証人はいたはずです。
写真一番上が陣場平ですが、養蚕が盛んなころは、一帯が主に桑畑でした。現在は、落葉松の植林地や荒れ果てた自然林で、夏場は藪になりバラが繁茂してとても入れませんが、晩秋から早春の落葉期には、ここが広い平地であり陣所を築くのに最適な場所であることが一目で分かります。
陣場平の北部は、切岸状の崖や急斜面ですが、その縁には石垣が残っています。桑畑の土留めに使われたものですが、陣所建造の際に作られたものを流用したのかもしれません。また、石垣の石は近くの堂平古墳群と同じく、陣場平にも積み石塚古墳群があり、その古墳の石を使ったのではないかと私は推測しています。
現在は全く手入れもされていないので、倒木が覆い重なり、葛や山藤のつるが木々を覆い見晴らしも悪く、非常に不気味な場所になってしまいました。ニホンカモシカや猪がたむろする場所で、希に熊も出没します。行き方は、妻女山駐車場の奥から右手の林道を登り15分、長坂峠の分岐を左へ進むと10分足らずで天城山・堂平大塚古墳の大きな標識がありますが、その左手に広がる平坦な森が陣場平です。中に入るのはかなり危険なのでおすすめしませんが、林道からでもその全貌はだいたいつかめます。冬の積雪が少ない時に訪れるのが、熊もオオスズメバチもいないので一番いいと思います。
謙信槍尻の泉が、江戸時代に霊水騒動を起こして有名になりましたが、陣場平から南西に少し下ると、蟹沢という豊富に水が湧き出る場所があります。陣場平からは、木さえなければ海津城は手に取るような位置に見えます。いずれにしても里俗伝の域を出ないものではありますが、実際に現地に佇んでみると、陣城を構えるのはここしかないだろうなと思えてくるから不思議です。
【陣場平全景】
★川中島合戦と古代科野の国の重要な史蹟としての斎場山については、私の研究ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。
★武田別働隊が辿ったとされる経路のひとつ、唐木堂越から妻女山への長~い長~い尾根を鏡台山から歩いたトレッキング・フォトルポをご覧ください。
★フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】には、斎場山、妻女山、天城山、鞍骨城、尼厳城、鷲尾城、葛尾城、唐崎城などのトレッキングルポがあります。