信州は千曲市の八幡(やわた)にある武水別神社へ諏訪立川流の木彫の撮影に出かけました。帰郷後何度も参拝はしたことがあるのですが、木彫の撮影をしていないことに気が付きました。最高気温8度の予想の中、用事を三件ほど済ませて10時過ぎに着きました。
◉武水別神社御由緒
社伝によれば、武水別大神は人皇第八代孝元天皇(紀元前二一四~一五六)の御代に御鎮斎と伝えられております。
その後安和年間(九六八~九七〇)に京都の石清水八幡宮より、誉田別命・息長足比売命・比咩大神が勧請され、相殿に奉斎されました。
当社は延喜式(平安初期の年中儀式や制度などを記した書物)に名神大社として記載されており、三代実録(延喜元年に編纂された歴史書)によると貞観二年(八六〇)に従五位下、同八年に従二位の神階を受け、同九年に官社に列したと有り、上古よりの大社であったことを窺い知ることが出来ます。
戦国時代から江戸時代にかけてはこの地方随一の八幡宮として諸武将の尊崇が篤く、慶安元年(一六四八)には幕府から朱印地二百石を与えられました。明治時代に入ると郷社に列せられ、明治四十一年に県社に昇格、現在は神社本庁別表神社に指定されております。(神社サイトより)
祭神は、武水別大神(たけみずわけのおおかみ)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)、比咩大神(ひめおおかみ)。上杉謙信が願文を奉納したことでも有名です。
(左)神社の最南端、県道77号を跨いで立つ大鳥居。左手には松屋旅館があるのですが、もうかなり前から営業していない様です。(中)神橋。車は左手から入り、右手の参拝者駐車場に。(右)入ってすぐ左手にある神輿休所。江戸後期の神仏混淆時代の神宮寺の行事に関わる貴重な建造物。
(左)天保の火災から免れた室町後期の作といわれる高良社(こうらしゃ)。覆屋の中にあります。(中)昭和50年に長野県宝に指定。扉に描かれているのは白い牡丹。(右)名物うずらまんじゅうの茶店。400円で抹茶とふたつのうずらまんじゅうがいただけます。お持ち帰りも。
(左)18,896平方メートルの社地には、社叢としてケヤキ・スギを主として20数種が生育し、その数は400本を超える。老木も多く、「武水別神社社叢」として長野県指定天然記念物に指定されています。シナノキもありました。合祀令により数多くの神社がなくなりましたが、鎮守の森は大切な自然の宝庫だったのです。(中)大鳥居方面を見たところ。右に御神木の大欅があります。内部は大きな虚(うろ)ができて空洞となっています。(右)手水舎。身を清めて本殿へ向かいます。
(左)木製の鳥居は修繕中で寄付を募る張り紙が。拝殿の手前に勅使殿。(中・右)阿吽の狛犬。阿吽を左右どちらに置くかは色々説があります。本来は獅子と狛犬だとか。
拝殿。立川和四郎の後見の下に、水内の峰村弥五郎の手により安政三年(1856)に完成。瓦葺の屋根はのちに昭和57年本殿と同様に銅板で葺き替えられました。
(左)拝殿前の勅使殿。勅使とは、天皇・皇帝・王など国の元首が出す使者のことですが、勅使を迎える特別な建物ということでしょうか。(中)拝殿中央の太平鰭(おおひらびれ)。牡丹の浮き彫り。(右)二代目 立川和四郎富昌(1782~1856)の獅子。典型的な諏訪立川流の木彫です。
◉諏訪立川流 概論 - 立川流彫刻 研究所
----寛政の改革で有名な松平定信は富昌の評判を聞き、富昌を大いに可愛がった。実力に加え、こうした後押しもあり、江戸幕府からは「内匠(たくみ)」の称号が与えられ、江戸幕府御用となり名実ともに日本一の彫刻師となった。
この当時、富昌は一般大衆からは「幕末の甚五郎」とよばれていた。 ----(サイトより)
(左・右)両サイドの木鼻の獅子と象。必ずしも完璧に左右対称ではないのは、よく見ると分かります。
拝殿後背の本殿。本殿は諏訪出身の工匠立川和四郎富昌(二代目)によって嘉永三年(1850)に完成しました。建坪三十一坪余と規模が広大な上に、内外の彫刻は繊細を極め、見事と言う他はありません。当初、柿(こけら)葺きの屋根は年と共に千木・鰹木が取り付けられました。(神社サイトより)まず作法通りに参拝してから撮影をはじめました。
立川和四郎富昌による子持ち龍。千曲市森の興正寺山門の子持ち龍とは、また違った趣があります。
◉佐久間象山大砲試射地から諏訪立川流山門の興正寺。象山の定宿だった伴月楼へ。象山神社と松代城(妻女山里山通信)
そのアップ。沢山の釘は鳩の糞害防止のものです。見て分かるように木彫に直接打ち込まれているわけではありませんが、やはり異様な感じがします。金網ではなく透明なテグスの網を張るとか、なにか有効な対策はないものでしょうか。調べると超強力なネオジウム磁石が有効な様です。
(左)木鼻の獅子と象。(右)脇障子の鳳凰。富昌の傑作といえる作品かもしれません。間近で見られないのが残念です。
(左)亀に乗った仙人。おやこれは浦島太郎でしょうか。浦嶋神社(京都府与謝郡伊根町)は、天長2年(825年)に創建といわれています。(中)牡丹の浮彫り。(右)力神。足が梁に食い込み外に出ているのがいいですね。
木鼻から右側側面の造形。
(左)左側面の力神。西面は鳩の糞害が酷い。木部の劣化は避けられないでしょう。根本的な対策を考えるべきだと思います。確かに 鳩は、「八幡神」という農業神、仏教保護の神、護国の神、源氏の氏神として信仰されている神様の使いとされており、追い出すようなことはしなかったそうですが、問題ですね。鳩は戦勝の象徴でもあったので、武将達にも好まれました。寺社にいる鳩はドバトで、野生の鳩ではありません。駆除するのはいけませんが、せめて境内にいても堂宇には止まらない様にするべきでしょう。(中)八剱社(はっけんしゃ / やつるぎじんじゃ)。(右)小さな木鼻の獅子と象ではなくて、耳が立ち毛が逆立っているので、これは貘。
(左)本殿後背の十二神社。天神社も。(中)子安社。安産祈願の神社。(右)その神社の小さな木鼻の象と獅子。右の木鼻の象はなくなっていました。
(左)明治の南方熊楠が猛反対した明治の愚策、合祀令で集められたものでしょうか。沢山の神様が。(中)木曽義仲にまつわる伝説の滝壺の石。(右)拝殿と後背の本殿。地元の人が時折参拝に訪れていましたが、ほとんどひと気もなく閑寂としていました。武水別神社で行われる、祈年祭(3月15日)、例大祭(9月15日)、大頭祭(新嘗祭、12月10日-14日)の3祭は「三大祭」といわれます。
(左)酒造租社。(中)木鼻の獅子と象。(右)松と仙人? 酒中の仙人といえば、玄宗皇帝のお気に入りでもあった「詩仙」と称えられた中国唐代の天才詩人、李白を思い出しますが。李白、杜甫、白楽天と言えば中国唐代の三大詩人。いずれも大酒飲みだったとか。あるいは酒呑童子か。いすれにせよ親近感を覚えるのは私だけではないでしょう。
(左)神社西の77号を渡って小路を進むと、武水別神社神主松田家館。残念ながら昨年の9月6日に、蜂の巣駆除の火で多くが焼けてしまいました。無常。(中)焼け崩れた跡が傷ましい。木造の家屋で蜂の巣駆除に火器を使うなど信じられない愚行です。斎館再建の寄付を募っています。(右)武水別神社の裏手から南方の眺め。左手奥の山は冠着山(姨捨山)。この川は、姨捨駅の上の大池から流れてきて千曲川に合流します。
◉武水別神社神主松田家館跡:明治時代の屋敷の俯瞰図や焼けてしまった屋敷の写真が見られます。
◆『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。
★本の概要は、こちらの記事を御覧ください。
★お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
◉武水別神社御由緒
社伝によれば、武水別大神は人皇第八代孝元天皇(紀元前二一四~一五六)の御代に御鎮斎と伝えられております。
その後安和年間(九六八~九七〇)に京都の石清水八幡宮より、誉田別命・息長足比売命・比咩大神が勧請され、相殿に奉斎されました。
当社は延喜式(平安初期の年中儀式や制度などを記した書物)に名神大社として記載されており、三代実録(延喜元年に編纂された歴史書)によると貞観二年(八六〇)に従五位下、同八年に従二位の神階を受け、同九年に官社に列したと有り、上古よりの大社であったことを窺い知ることが出来ます。
戦国時代から江戸時代にかけてはこの地方随一の八幡宮として諸武将の尊崇が篤く、慶安元年(一六四八)には幕府から朱印地二百石を与えられました。明治時代に入ると郷社に列せられ、明治四十一年に県社に昇格、現在は神社本庁別表神社に指定されております。(神社サイトより)
祭神は、武水別大神(たけみずわけのおおかみ)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)、比咩大神(ひめおおかみ)。上杉謙信が願文を奉納したことでも有名です。
(左)神社の最南端、県道77号を跨いで立つ大鳥居。左手には松屋旅館があるのですが、もうかなり前から営業していない様です。(中)神橋。車は左手から入り、右手の参拝者駐車場に。(右)入ってすぐ左手にある神輿休所。江戸後期の神仏混淆時代の神宮寺の行事に関わる貴重な建造物。
(左)天保の火災から免れた室町後期の作といわれる高良社(こうらしゃ)。覆屋の中にあります。(中)昭和50年に長野県宝に指定。扉に描かれているのは白い牡丹。(右)名物うずらまんじゅうの茶店。400円で抹茶とふたつのうずらまんじゅうがいただけます。お持ち帰りも。
(左)18,896平方メートルの社地には、社叢としてケヤキ・スギを主として20数種が生育し、その数は400本を超える。老木も多く、「武水別神社社叢」として長野県指定天然記念物に指定されています。シナノキもありました。合祀令により数多くの神社がなくなりましたが、鎮守の森は大切な自然の宝庫だったのです。(中)大鳥居方面を見たところ。右に御神木の大欅があります。内部は大きな虚(うろ)ができて空洞となっています。(右)手水舎。身を清めて本殿へ向かいます。
(左)木製の鳥居は修繕中で寄付を募る張り紙が。拝殿の手前に勅使殿。(中・右)阿吽の狛犬。阿吽を左右どちらに置くかは色々説があります。本来は獅子と狛犬だとか。
拝殿。立川和四郎の後見の下に、水内の峰村弥五郎の手により安政三年(1856)に完成。瓦葺の屋根はのちに昭和57年本殿と同様に銅板で葺き替えられました。
(左)拝殿前の勅使殿。勅使とは、天皇・皇帝・王など国の元首が出す使者のことですが、勅使を迎える特別な建物ということでしょうか。(中)拝殿中央の太平鰭(おおひらびれ)。牡丹の浮き彫り。(右)二代目 立川和四郎富昌(1782~1856)の獅子。典型的な諏訪立川流の木彫です。
◉諏訪立川流 概論 - 立川流彫刻 研究所
----寛政の改革で有名な松平定信は富昌の評判を聞き、富昌を大いに可愛がった。実力に加え、こうした後押しもあり、江戸幕府からは「内匠(たくみ)」の称号が与えられ、江戸幕府御用となり名実ともに日本一の彫刻師となった。
この当時、富昌は一般大衆からは「幕末の甚五郎」とよばれていた。 ----(サイトより)
(左・右)両サイドの木鼻の獅子と象。必ずしも完璧に左右対称ではないのは、よく見ると分かります。
拝殿後背の本殿。本殿は諏訪出身の工匠立川和四郎富昌(二代目)によって嘉永三年(1850)に完成しました。建坪三十一坪余と規模が広大な上に、内外の彫刻は繊細を極め、見事と言う他はありません。当初、柿(こけら)葺きの屋根は年と共に千木・鰹木が取り付けられました。(神社サイトより)まず作法通りに参拝してから撮影をはじめました。
立川和四郎富昌による子持ち龍。千曲市森の興正寺山門の子持ち龍とは、また違った趣があります。
◉佐久間象山大砲試射地から諏訪立川流山門の興正寺。象山の定宿だった伴月楼へ。象山神社と松代城(妻女山里山通信)
そのアップ。沢山の釘は鳩の糞害防止のものです。見て分かるように木彫に直接打ち込まれているわけではありませんが、やはり異様な感じがします。金網ではなく透明なテグスの網を張るとか、なにか有効な対策はないものでしょうか。調べると超強力なネオジウム磁石が有効な様です。
(左)木鼻の獅子と象。(右)脇障子の鳳凰。富昌の傑作といえる作品かもしれません。間近で見られないのが残念です。
(左)亀に乗った仙人。おやこれは浦島太郎でしょうか。浦嶋神社(京都府与謝郡伊根町)は、天長2年(825年)に創建といわれています。(中)牡丹の浮彫り。(右)力神。足が梁に食い込み外に出ているのがいいですね。
木鼻から右側側面の造形。
(左)左側面の力神。西面は鳩の糞害が酷い。木部の劣化は避けられないでしょう。根本的な対策を考えるべきだと思います。確かに 鳩は、「八幡神」という農業神、仏教保護の神、護国の神、源氏の氏神として信仰されている神様の使いとされており、追い出すようなことはしなかったそうですが、問題ですね。鳩は戦勝の象徴でもあったので、武将達にも好まれました。寺社にいる鳩はドバトで、野生の鳩ではありません。駆除するのはいけませんが、せめて境内にいても堂宇には止まらない様にするべきでしょう。(中)八剱社(はっけんしゃ / やつるぎじんじゃ)。(右)小さな木鼻の獅子と象ではなくて、耳が立ち毛が逆立っているので、これは貘。
(左)本殿後背の十二神社。天神社も。(中)子安社。安産祈願の神社。(右)その神社の小さな木鼻の象と獅子。右の木鼻の象はなくなっていました。
(左)明治の南方熊楠が猛反対した明治の愚策、合祀令で集められたものでしょうか。沢山の神様が。(中)木曽義仲にまつわる伝説の滝壺の石。(右)拝殿と後背の本殿。地元の人が時折参拝に訪れていましたが、ほとんどひと気もなく閑寂としていました。武水別神社で行われる、祈年祭(3月15日)、例大祭(9月15日)、大頭祭(新嘗祭、12月10日-14日)の3祭は「三大祭」といわれます。
(左)酒造租社。(中)木鼻の獅子と象。(右)松と仙人? 酒中の仙人といえば、玄宗皇帝のお気に入りでもあった「詩仙」と称えられた中国唐代の天才詩人、李白を思い出しますが。李白、杜甫、白楽天と言えば中国唐代の三大詩人。いずれも大酒飲みだったとか。あるいは酒呑童子か。いすれにせよ親近感を覚えるのは私だけではないでしょう。
(左)神社西の77号を渡って小路を進むと、武水別神社神主松田家館。残念ながら昨年の9月6日に、蜂の巣駆除の火で多くが焼けてしまいました。無常。(中)焼け崩れた跡が傷ましい。木造の家屋で蜂の巣駆除に火器を使うなど信じられない愚行です。斎館再建の寄付を募っています。(右)武水別神社の裏手から南方の眺め。左手奥の山は冠着山(姨捨山)。この川は、姨捨駅の上の大池から流れてきて千曲川に合流します。
◉武水別神社神主松田家館跡:明治時代の屋敷の俯瞰図や焼けてしまった屋敷の写真が見られます。
◆『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。
★本の概要は、こちらの記事を御覧ください。
★お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。