12月19日(月)まで開催中の、「真田信之 - 十万石の礎を築いた男 -」真田信之松代入部400年記念 真田宝物館特別展に行ってきました。非常に見応えのある展示で、県外ナンバーの車もたくさん見られました。撮影禁止のものもありますが、撮影可能なものも非常に重要です。それらをアップします。信之や幸村の書状とか、真田マニアなら絶対に見逃せないものばかり。
■真田宝物館公式サイト
真田家の歴史から始まります。赤備えのイメージのディスプレイにワクワクします。
「真田昌幸 昇梯子の具足」天衝(てんつく)という大きな前立てと胴の四段梯子が特徴。軽量かつ実用的な仕様だそうですが、この兜の前立ては重くないのでしょうか。兜は何種類か持っていたそうなので、実戦用とかもあったのでしょうか。(左の掛け軸は撮影禁止なので消してあります)
「海津大絵図」で、床にレプリカが敷いてあり、くつのままお上がり下さいとあるのですが、皆さん無関心で見ていかないのです。私は地図フェチなのでじっくりと観察します。松代城を中心に、北は善光寺から南は狼煙山まで。東は奇妙山、西は西山地域まで描かれています。松代城の北に細い古川が描かれていることから、戌の満水の後で大規模な瀬直しが行われた後の地図だと思われます。川中島の集落もそれぞれ分かれていますが、現在は全部つながってしまってどこがどこやら境が分かりません。
妻女山は、斎場山の場所に記されています。現在の妻女山は赤坂と。倉骨城(鞍骨城)もあります。斎場山と妻女山、赤坂山の混同の入れ違いの歴史については、拙書やこのブログでも何度も記事にしています。BS・TBSの歴史番組で歴史研究家の三池純正さんをガイドをしたこともあります。「真説・川中島合戦」洋泉社新書は一読の価値があると思います。
皆神山。右奥の三角は狼煙山。武田の狼煙を上げる山城がありました。左奥に地蔵峠も見えます。
真田家の墓や御霊屋がある長国寺。その奥にそびえる瀧山は奇妙山のこと。清滝も描かれています。左手前に真田幸隆に攻略された尼厳山。拙書でも記していますが、奇妙山は本来は帰命山であり、本名は仏師岳、仏師ケ岳といいます。
善光寺。越後に通じる北国街道も。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」が出版された頃は庶民の旅行も盛んになり、善光寺御開帳には全国から参拝者が集まり、川中島の戦いの絵図がたくさん刷られ飛ぶように売れたということです。幕末頃には、妻女山で上杉謙信槍尻の泉を巡って「霊水騒動」なるものが起きています。槍尻の泉が霊水で万病に効くと噂が広まり、城下や遠く越後からも霊水を求めて人が集まったとか。実は、この騒動を起こしたのは、当時名主をやっていた我が祖先の林逸作ではないかと思っています。おそらく村おこしのために。
●上杉謙信槍尻之泉の新事実発見!妻女山湧き水ブームとは・・(妻女山里山通信)
真田昌幸が信幸にあてた書状。
「大阪落城絵巻」大坂の陣。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣。我が家の祖先は、豊臣方についた真田昌幸の家臣で、足軽大将の林太郎左衛門といわれています。息子は林源次郎寛高といい真田信繁(幸村)の7人の影武者のひとりで大阪夏の陣で討ち死にしたと伝えられています。その後生き残った7人で某所に林村を作ったとか。そのうちのひとり、林采女(林織部?)が松代に移り住み帰農したと伝わっています。激動の戦乱を生き延びたということです。川中島には、「七度の飢饉より一度の戦(いくさ)」という言葉が残っています。度重なる飢饉よりもたった一度の戦の方が嫌だという重い言葉です。
従四位の下侍従以上の者の冠。該当者は8代藩主・真田幸貫のみとか。彼は白河藩松平家から養子入りし、幕府の老中も務めました。我が家には、その後に老中を務めた松平乗全が描いた『庚辰春日』という白い牡丹を描いた一幅の掛け軸があります。岩野村の名主を務めた先祖が賜ったと思われます。近所には、幼馴染で松代藩の御用絵師の青木雪卿(せっけい)重明が住んでいました。
黒船来航の際に、松代藩と小倉藩が横浜の警備につきました。その際に横須賀沖に停泊する蒸気船を描いた巻物。当時の横浜は、貧しい漁村でした。今の横浜の元を作ったのが松代藩というわけです。
特別展示でないと見られない様なものが並んでいます。真田ファンにはお勧めの展示ばかりです。特に書状は、信之や信繁などの心情が見えて興味深いものがあります。
信之の時代に幕府から問い合わせがあった系図の問い合わせへの返答。滋野天皇から始まっていますね。滋野、海野、根津、望月、真田は同系氏族といわれています。信濃には他に源氏村上がいます。出雲系の諏訪氏や金刺氏、信濃國造になった大和系の子孫や高句麗の帰化人の子孫達は、今にどうつながっているのでしょう。
●滋野氏
高野山での信繁(幸村)の書状。信之が江戸で二代将軍・秀忠のもとでの活躍を目出度いとしつつも、今年の冬は不自由で察して欲しいと。慰みに連歌を勧められたが老いの学問で難しいと言っています。戦の日々で教養を高める時間など無かったのでしょう。
真田信之が、初代小野お通に宛てた松代移封を伝える書状。倉科の里や田毎の月、朝日山や善光寺などの名所が多くあり、都にも劣らないと。しかし、長生きしたため親しい人もいなくなり、朝夕は涙ばかりだと吐露しています。
松代城と城下の地図。よく見ると現在の道と同じ通りがけっこうあるのが分かります。千曲川が城のすぐ横を流れているので戌の満水の前の地図だと分かります。
5代藩主・真田信安が描いたもの。狩野派に師事したのでしょうか。見事な描写力です。
6代藩主・真田幸弘所要の筆。馬、羊、鹿、狸、猫などの動物の毛だそうです。
閉じても開いている様に作られた扇子。鮮やかです。
8代藩主・真田幸貫の子・幸良の性質の貞松院の住居・新御殿の庭。庭園の面影は今も残っています。左奥は狼煙山、右は象山から鏡台山まで続く戸神山脈。武田別働隊が超えたと伝わる山脈です。当ブログでは、古文書に残る地名からそのルートを推測して記事にしています。
帰りに松代城に寄りました。観光客もちらほらと。中にある大正時代の大きな石碑が松代城ではなく海津城と書いてあるのですが、なぜでしょう。幕末から明治初期の松代藩のことを調べれば分かります。
松代城(海津城)から見る上杉謙信が最初本陣とした斎場山(妻女山)と、七棟の陣小屋を建てたという陣場平。海津城との距離感が分かると思います。近いです。間者もいたでしょうし、炊飯の煙とか大勢での移動とか丸見えだったと思います。
●『龍馬伝』にも出た老中松平乗全の掛け軸から推測する幕末松代藩の人間模様(松代歴史通信)
●斎場山から天狗山へ。上杉謙信斎場山布陣想像図。古書の虫干しで大発見(妻女山里山通信)
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★本の概要は、こちらの記事を御覧ください。
★お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
■真田宝物館公式サイト
真田家の歴史から始まります。赤備えのイメージのディスプレイにワクワクします。
「真田昌幸 昇梯子の具足」天衝(てんつく)という大きな前立てと胴の四段梯子が特徴。軽量かつ実用的な仕様だそうですが、この兜の前立ては重くないのでしょうか。兜は何種類か持っていたそうなので、実戦用とかもあったのでしょうか。(左の掛け軸は撮影禁止なので消してあります)
「海津大絵図」で、床にレプリカが敷いてあり、くつのままお上がり下さいとあるのですが、皆さん無関心で見ていかないのです。私は地図フェチなのでじっくりと観察します。松代城を中心に、北は善光寺から南は狼煙山まで。東は奇妙山、西は西山地域まで描かれています。松代城の北に細い古川が描かれていることから、戌の満水の後で大規模な瀬直しが行われた後の地図だと思われます。川中島の集落もそれぞれ分かれていますが、現在は全部つながってしまってどこがどこやら境が分かりません。
妻女山は、斎場山の場所に記されています。現在の妻女山は赤坂と。倉骨城(鞍骨城)もあります。斎場山と妻女山、赤坂山の混同の入れ違いの歴史については、拙書やこのブログでも何度も記事にしています。BS・TBSの歴史番組で歴史研究家の三池純正さんをガイドをしたこともあります。「真説・川中島合戦」洋泉社新書は一読の価値があると思います。
皆神山。右奥の三角は狼煙山。武田の狼煙を上げる山城がありました。左奥に地蔵峠も見えます。
真田家の墓や御霊屋がある長国寺。その奥にそびえる瀧山は奇妙山のこと。清滝も描かれています。左手前に真田幸隆に攻略された尼厳山。拙書でも記していますが、奇妙山は本来は帰命山であり、本名は仏師岳、仏師ケ岳といいます。
善光寺。越後に通じる北国街道も。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」が出版された頃は庶民の旅行も盛んになり、善光寺御開帳には全国から参拝者が集まり、川中島の戦いの絵図がたくさん刷られ飛ぶように売れたということです。幕末頃には、妻女山で上杉謙信槍尻の泉を巡って「霊水騒動」なるものが起きています。槍尻の泉が霊水で万病に効くと噂が広まり、城下や遠く越後からも霊水を求めて人が集まったとか。実は、この騒動を起こしたのは、当時名主をやっていた我が祖先の林逸作ではないかと思っています。おそらく村おこしのために。
●上杉謙信槍尻之泉の新事実発見!妻女山湧き水ブームとは・・(妻女山里山通信)
真田昌幸が信幸にあてた書状。
「大阪落城絵巻」大坂の陣。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣。我が家の祖先は、豊臣方についた真田昌幸の家臣で、足軽大将の林太郎左衛門といわれています。息子は林源次郎寛高といい真田信繁(幸村)の7人の影武者のひとりで大阪夏の陣で討ち死にしたと伝えられています。その後生き残った7人で某所に林村を作ったとか。そのうちのひとり、林采女(林織部?)が松代に移り住み帰農したと伝わっています。激動の戦乱を生き延びたということです。川中島には、「七度の飢饉より一度の戦(いくさ)」という言葉が残っています。度重なる飢饉よりもたった一度の戦の方が嫌だという重い言葉です。
従四位の下侍従以上の者の冠。該当者は8代藩主・真田幸貫のみとか。彼は白河藩松平家から養子入りし、幕府の老中も務めました。我が家には、その後に老中を務めた松平乗全が描いた『庚辰春日』という白い牡丹を描いた一幅の掛け軸があります。岩野村の名主を務めた先祖が賜ったと思われます。近所には、幼馴染で松代藩の御用絵師の青木雪卿(せっけい)重明が住んでいました。
黒船来航の際に、松代藩と小倉藩が横浜の警備につきました。その際に横須賀沖に停泊する蒸気船を描いた巻物。当時の横浜は、貧しい漁村でした。今の横浜の元を作ったのが松代藩というわけです。
特別展示でないと見られない様なものが並んでいます。真田ファンにはお勧めの展示ばかりです。特に書状は、信之や信繁などの心情が見えて興味深いものがあります。
信之の時代に幕府から問い合わせがあった系図の問い合わせへの返答。滋野天皇から始まっていますね。滋野、海野、根津、望月、真田は同系氏族といわれています。信濃には他に源氏村上がいます。出雲系の諏訪氏や金刺氏、信濃國造になった大和系の子孫や高句麗の帰化人の子孫達は、今にどうつながっているのでしょう。
●滋野氏
高野山での信繁(幸村)の書状。信之が江戸で二代将軍・秀忠のもとでの活躍を目出度いとしつつも、今年の冬は不自由で察して欲しいと。慰みに連歌を勧められたが老いの学問で難しいと言っています。戦の日々で教養を高める時間など無かったのでしょう。
真田信之が、初代小野お通に宛てた松代移封を伝える書状。倉科の里や田毎の月、朝日山や善光寺などの名所が多くあり、都にも劣らないと。しかし、長生きしたため親しい人もいなくなり、朝夕は涙ばかりだと吐露しています。
松代城と城下の地図。よく見ると現在の道と同じ通りがけっこうあるのが分かります。千曲川が城のすぐ横を流れているので戌の満水の前の地図だと分かります。
5代藩主・真田信安が描いたもの。狩野派に師事したのでしょうか。見事な描写力です。
6代藩主・真田幸弘所要の筆。馬、羊、鹿、狸、猫などの動物の毛だそうです。
閉じても開いている様に作られた扇子。鮮やかです。
8代藩主・真田幸貫の子・幸良の性質の貞松院の住居・新御殿の庭。庭園の面影は今も残っています。左奥は狼煙山、右は象山から鏡台山まで続く戸神山脈。武田別働隊が超えたと伝わる山脈です。当ブログでは、古文書に残る地名からそのルートを推測して記事にしています。
帰りに松代城に寄りました。観光客もちらほらと。中にある大正時代の大きな石碑が松代城ではなく海津城と書いてあるのですが、なぜでしょう。幕末から明治初期の松代藩のことを調べれば分かります。
松代城(海津城)から見る上杉謙信が最初本陣とした斎場山(妻女山)と、七棟の陣小屋を建てたという陣場平。海津城との距離感が分かると思います。近いです。間者もいたでしょうし、炊飯の煙とか大勢での移動とか丸見えだったと思います。
●『龍馬伝』にも出た老中松平乗全の掛け軸から推測する幕末松代藩の人間模様(松代歴史通信)
●斎場山から天狗山へ。上杉謙信斎場山布陣想像図。古書の虫干しで大発見(妻女山里山通信)
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