名峰登山と草花

春から秋にかけて、登山と草花探索等を掲載。植物観察、世界歴史遺産巡り、庭園観賞、素人農業にもチャレンジ中。

スペインを駆け巡る_4 (セビリア)

2018-12-20 08:27:54 | 海外・旅行記

  4日目の夕刻にセビリアに着いた。セビリアはスペインで4番目に人口が多い港町だ。
(一番はマドリード320万人、2番バルセロナ、3番バレンシア、4番セビリア69万人)
 昔、支倉常長がローマ教皇を訪ねた折に、最初に入港したのがこのセビリア県である。
 ここの大聖堂(カテドラル)はスペインで一番大きく、また尖塔(ヒラルダの塔)も一番高い。
 4日目の夕刻は、夕食付きのフラメンコ・ショーを見学した。なかなかアクティブな
踊りだと思う。ジプシー娘が男を引きつけるための踊りだったのだろうか?「私は綺麗で
かっこいいわよ!」といっているような気がした。

 5日目は最初にスペイン広場を見て、次いでバスで移動し、カテドラル(大聖堂)へ少し
歩いた。途中の公園ではコロンブスのモニュメントや文書館、また王城(アルカサル)を横目に
見ながら大聖堂へ向かった。大聖堂には背の高い尖塔(ヒラルダの塔)があり、すぐわかった。
内部は立派な教会だった。ここから少し歩いて土産物屋のあるユダヤ人街のようなところ
で少し休憩し、そこを出るとコルドバに向かった。

以上で、セビリアを終わります。


スペインを駆け巡る_3 (ミハス、ロンダ)

2018-12-15 21:48:52 | 海外・旅行記

 4日目にはグラナダを出て、ミハス、ロンダを観光し、セビリアに向かった。セビリア
では、街中を散策しながら、大聖堂へ向かい、重厚な感じの教会や塔を見学した。夕刻には
フラメンコ・ショーを観劇した。では、この日の内容を行った順番に見ていこう。

 最初に訪問したミハスは白い街並の美しい町だった。後に出かけた南イタリアの海岸
都市、ポジターノ(アマルフィー海岸)などの地中海の観光地に多い風景だ。花の時期
ということか、ミハスの公園には様々な花が咲き乱れていた。

   ミハスからロンダへの道路の周辺は、起伏のあるアンダルシアの丘という感じで、黄色い
草花の咲く草原が続いていた。しばらく走る内に、正に絶壁の上に立つ城塞都市ロンダが
現れた。街の広場はゆったりとしてのどかな過ごしやすそうな街に見えた。街の真ん中を
U字谷が抜け、2つの台地を大きな石橋が繋いでいる。中世の技術の粋を集めた傑作の橋
なのだろうと推測する。絶壁の上には至る所に草花が咲き誇り、安らぎを得る。素晴らしい
風景を眺め、心安まる街を満喫できた。

以上で、ミハスとロンダを終わります。


スペインを駆け巡る_2 (グラナダ~  )

2018-12-09 09:40:23 | 海外・旅行記

 3日目、バレンシアを出てグラナダへ到着した。
 最初に訪ねたのは、アルハンブラ宮殿に隣接するフェネラリーフェ庭園だ。
フェネラリーフェ庭園は緑豊かな整然とした庭だった。また、ここからは対岸に
アルハンブラ宮殿の素晴らしい建築の数々を遠望できた。
 フェネラリーフェ庭園からは歩いてアルハンブラ宮殿に行くことができた。
 広場(アルカサバ、城塞下)から見上げる宮殿はなかなか圧巻だ。入口を入る
と円形の回廊(カルロス5世宮殿)があり、メスアルの間の窓からは先程歩いた
フェネラリ-フェ庭園側の街並を見ることができた。
 次いで、アラヤネスの中庭、ライオンの中庭、また天井装飾の美しいモカラベ
の間を幾つか通り、宮殿見学を終了した。
 宮殿内には庭園や通り道に綺麗な樹木の花を見ることができた。

アルハンブラ宮殿を終了します。


スペインを駆け巡る  -旅行記-

2018-12-02 17:59:49 | 海外・旅行記

 スペイン旅行記

  登山ネタが少なくなったので、かねて気にしていたスペイン旅を再整理して
旅行記として掲示することとした。
 この旅はJTBツアーに乗って出かけたものだ。スペインをほぼ一周する結構
ヘビーなスケジュールではあったが、充実した内容であった。

 最初にバルセロナ空港からスペインに入国した。旅行1日目はバルセロナで
宿泊した。

 バルセロナ観光は旅行2日目となる。ここでは、ガウディー設計によるグエル公園と
建築で有名なサグラダファミリアを見学し、街の風景やミロ美術館を見て回った。サグ
ラダファミリアでは、外観にも内部の教会の造作にも、その迫力に圧倒され、感動した。
 バルセロナ観光の後、バレンシアへ向かい、バレンシアに宿泊した。

以上で、バルセロナを終了します。次いでバレンシアを掲載します。

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 (お詫び) スペイン旅の記事を登録しようとして、旅行記と題して掲示作業
を開始したが、実は既に「スペインの歴史遺産を巡る」と題して、掲載していた
ことが判明した。二重登録となることをお詫びします。

 従いまして、興味のある方は次のアドレスを検索しご覧願います。

 1.スペインの歴史遺産を巡る その1          <次のアドレスをクリックすると記事が開きます>  
 https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/6db76d10fa522bf5c59ba04b9bd44351
 2.スペインの歴史遺産を巡る その2          <次のアドレスをクリックすると記事が開きます>
 https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/8a4ae80ce921305b5efa6a024d389258
 3.スペインの歴史遺産を巡る その3          <次のアドレスをクリックすると記事が開きます>
 https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/cf7686f1452a7b5010cded3b300e0aee

  大変失礼しました。
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 なお、本・旅行記「スペインを駆け巡る」は旅行内容を見やすく整理し、風景を
中心にして、掲示を継続することとしました。悪しからず。

 

 

 

 

 


ローマ近郊の歴史遺産を巡る_2 -アマルフィ海岸-

2018-05-07 08:07:52 | 海外・旅行記

アマルフィ海岸を行く

 今日の行程のメインはアマルフィ海岸を行くことだ。ソレントからポジターノ、アマルフィ
を経てサレルノまで行き、新幹線でローマに戻る予定である。分かり易くするため、まず、
地図をご覧下さい。

1.ソレント~ポジターノ (バスからの車窓)     個別写真はクリックすると拡大します。

 ソレントでSITAバスに乗車した。ベスビオ鉄道の電車が遅れたので、心配したが
何とか間に合った。一日乗車券もうまく買えた。地球の歩き方では6eurと書いてあったが、
12eurに値上がりしていた。
 バスは中形バスだが新しく、快適そうだ。途中の断崖絶壁の道が狭いので大型バスでは
通れないらしい。ところが、走り出すと5,6m幅のカーブ坂道を猛スピードで走るので、
はらはらする。写真も景色が流れてうまく撮れない。何とか撮った写真を掲載する。

    

 

2.ポジターノ散策                      個別写真はクリックすると拡大します。

 ポジターノのバス停(上の駅)で下車し、展望所から周囲の写真を撮って、崖の街ポジターノ
の道を下った。この時期は空いているようだ。後から歩いてきた青年から声をかけられた。
私がモンベルの携帯リュックを背負っていたので、日本人と分かったそうだ。日本の青年が
一人旅でこのようなところまでくるのかと思うと、うれしかった。歩速が違うので下で会えたら
会いましょうと言うことで先に行って貰った。
 断崖の斜面にへばりつくようにできたこの町の風景は本当に素晴らしい。街の上部には天を突く
岩山が聳え、眼下には紺碧の海が広がっている。絶壁の道端にはホテルやカフェが並んでいて
景色を楽しみながら寛ぐことができる。
 さて、私達は余りゆとりがなく、下のバス停を探しながら進み、何とかたどり着いたが、一つ
バスを乗り過ごしてしまった。(行程上は考慮済みで、無事に次に進めた。)

    

     

     

 

3.ポジターノ~アマルフィ (バスからの車窓)   個別写真はクリックすると拡大します。

 断崖絶壁の余り広くない、ヘアピンカーブの道を結構なスピードでバスは進む。眺めは最高
だが、なかなかスリルがある。こんな所に路上駐車をする車があるが、取締をしないようだ。
イタリアは少しルーズ(アバウト)な国だと思っていたが、こんなところで、納得した。とり
とめもなく、写真を撮りましたので、車窓の風景をご覧下さい。

     

    

    

   

 4.アマルフィ~サレルノ (バスからの車窓) 個別写真はクリックすると拡大します。

 アマルフィでバスを乗り換え、待機していたサレルノ行きに乗った。バスからの風景は、これ
までと同様の山と海と絶壁の道をバスがハイスピードで走る形態が続き、よく似た風景が続く。
漁港らしい港とサレルノの港に出入りする大型船が散見された。サレルノはこのあたりの中心地
のようだ。
 サレルノではバスを降り、鉄道に乗り変えたが、結構歩かないと着けなかった。新幹線に間に
会うか心配だった。道しるべが少なく、不親切だ。途中で英語で青年に道を尋ねると「スタチオーネ?」
といわれた。アルファベットを頭の中で並べてみるとStationeとなる。最後のeをとるとStation
だ。大きな声でYesというとあっちだと教えてくれた。

     

    

 

5.サレルノ~ナポリ             個別写真はクリックすると拡大します。

 新幹線は20分位遅れてやってきた。こんなことなら焦って、急いでくることもなかったのにと
不満を抱きながら、電車を待った。乗る電車はイタロ社のIntercityという電車だ。ローマ~ナポリ
はトレニタリア社のフレッチャロッサ号で快適だったが、Intercityは少し汚れていて、サービスもない。
これでは勝負にならないと思った。
 ナポリに戻り、無事、トレニタリア社のフレッチャロッサに乗って、予定通り、ローマに戻る
ことができた。本日の行程完了だ。やったぜ!

 

 最後に、この「アマルフィ海岸を行く」私の計画書を添付して終わりとする。

以上。

 

 

 


ローマ近郊の歴史遺産を巡る_2 -新幹線、等-

2018-04-30 20:39:54 | 海外・旅行記

  4月18日はナポリに向かい、ポンペイ遺跡を見て、その後、ベスビオ鉄道でソレントへ向かい、
次いでSITAバスに乗って、ポジターノ、アマルフィ、サレルノまで観光し、新幹線でナポリ経由
にてローマまで帰った。この間、ローマ~ナポリの新幹線、ポンペイ、ソレントへのベスビオ
鉄道への乗車、SITAバスの一日乗車券購入など個人旅行を悩ませる切符購入などをクリアー
できたので、まず、新幹線とベスビオ鉄道について、記載することとした。

以上です。


ローマとナポリ、歴史遺産を巡る自作旅

2018-04-20 23:13:17 | 海外・旅行記

 4月18日はポンペイ遺跡を見学し、その後、ポジターノ、アマルフイ海岸へ行って来ました。素晴らしい絶壁の街を楽しんで来ました。写真はポジターノの風景です。

19日は、ローマ植物園、アッピア街道とカラカラ浴場等を見て回り、 20日はフォロ・ロマーノ、パラティーノの丘、コロッセオ等をゆっくり見学しました。ポンペイといい、フォロ・ロマーノといい紀元3、4世紀に西洋から北アフリカに至る世界の富と権力を集めた150万都市ローマの廃墟にめを奪われる旅行となりました。

写真はカラカラ浴場とコロッセオの外観および内部の写真です。

 以上、中間報告です。

<参考1> 歴史遺産を巡る

https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/d6d53fffa5b035bc40c8412af74d9c7f

<参考2> 草花(ローマ近郊)を撮る

https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/3d734f9db1691ea5f4c6091b7f5ae706

 

 

 

 

 


ベトナムへ_3(ハロン湾、ハノイ市) -記録-

2018-01-26 07:55:30 | 海外・旅行記

 10年前の5月に、友人とハノイへ旅行をした。ここでは、ベトナム報告ついでに
記録として、ハノイの記事を登録することとした。この時は、多少の用事とハロン湾
観光を目的として出かけた。もちろん、自費です。
 ハノイ駅近くのホテルニッコーハノイに泊まりました。街中のオートバイの多さ
にビックリ、信号を守らないことにビックリ、2人乗りが多く、3人乗り、4人乗り
も珍しくないことにビックリ、天秤棒に野菜や果物を担いでオートバイのラッシュの
中を歩いて行く伯母様達を見て更にビックリしました。
 観光ガイドさんの案内は良心的で、共産圏であるにも関わらず、街中の人々も親日
的で、かつ親切でした。

 目玉のハロン湾観光は、世界遺産であるだけにスケールが大きく、圧巻でした。昔
の船を思わせる観光船の多さにも驚きました。
 街中の散策も楽しかったのです。10年前のことなので、現在はもう少し都会の
雰囲気になっていることと思いますが、興味がありましたらご覧下さい。

 

<参考>ベトナム近代史  この際、ベトナムの歴史を勉強しました。いや、なかなか紆余
曲折、2000年の旅は長いです。根気の続く方はお読み下さい。

ベトナムの歴史 (王朝と政権と戦争)

 ベトナムは、中国の秦王朝以降、約1000年を中国に支配されてきた。11世紀に入り
1009年に大越国(李朝)が独立し、13世紀に陳朝、1400年に胡朝、1428年に
黎朝が成立した。黎朝は明との良好な関係を維持した。17世紀に入ると武将の鄭氏と阮氏が
争って、長期の内乱になった(鄭、阮二百年戦争)。ベトナムの北部を鄭氏が南部を阮氏が
支配した。その後、中部のフエに阮氏が独立政権を樹立し広南国と称した。18世紀に入ると
中部の西山(タイソン)にいた西山阮氏が西山朝(1778~)を起こし、1789年にハノイ
の黎朝・鄭政権を支援し、清軍の侵攻を破ってベトナムを統一した。1802年には広南阮氏
の末裔がフランス人の支援を得て阮朝を復興し、国号を越南国とした。都をフエにおき、清朝
を宗主国としてベトナム統治を始めた。

 植民地政策を進めるフランスは、阮朝がキリスト教を禁止し宣教師を処刑したことに対して
1858年にベトナムに出兵した。1862年にサイゴン条約でベトナム南部を直轄領とし、
更に1867年にはベトナム南部に支配を拡大した。1884年宗主権を主張する清国と侵略
を進めるフランスは清仏戦争となるが、清国が敗退し宗主権を放棄した。1887年には仏領
インドシナ連邦が成立し、ベトナムはそれに編入された。(阮朝はフエに形式的に存続する)

 1904年には自立を求めるファン・ボイ・チャウらの英雄は維新会を結成し、ロシアに
勝利した日本に学び日本の支援を受けようとして東遊運動を起こし、日本留学を開始したが、
日本政府は日仏協約により協力しなかったため、この運動は失敗した。次に1911年に中国
で起きた辛亥革命の影響を受け、ファン・ボイ・チャウらは共和制による独立を目指してベト
ナム光復会を組織したが、フランスにより厳しく弾圧された。1930年にはフランス、ロシア
でマルクス主義を学んだ社会主義者ホー・チ・ミンがベトナム共産党を結成し、民族運動を
指導しはじめた。

 1940年9月、本国フランスがドイツ軍に占領されたことを受け、日本軍が北部ベトナムに
進駐し、1941年7月には南部ベトナムを占領して支配を行った。この間、44年末から
45年にかけて、日本軍の占領政策によりすさまじい食糧不足が発生し、大量の餓死者を発生
させたことから、反日感情が起こった。

 1945年8月に日本軍が降伏すると、ホー・チ・ミンの指導するベトナム民主共和国が
1945年9月に独立を宣言したが、植民地支配を復活させようとする仏軍が進駐してきた
ため、両者間で激しいインドシナ戦争が行われた。1949年にはフランスはバオダイ帝を
擁立してベトナム国を樹立し、傀儡政権とした。1949年に中華人民共和国が独立すると、
アメリカはアジアの共産主義化を防ぐため、フランスの支援を始め、インドシナ戦争はベト
ナム人民とフランス、アメリカの対立の構図となった。ホーチミンの指導するベトナム労働党
を中心とするベトナム独立同盟(ベトミン)がゲリラ戦を展開し、1954年のディエン
ビエンフーの戦いで勝利して、フランスを追い出すことに成功したが、アメリカは南部一帯
を占領した。

 1954年のジュネーブ休戦協定では17度線を停戦ラインとしてインドシナ戦争が停戦
となった。北ベトナムにはホーチミンが指導してベトナム民主共和国が、南ベトナムには翌年
にアメリカが支援するゴ・ジン・ジェムのベトナム共和国が成立し、両者は激しく対立した。
1960年12月には南ベトナム民族解放戦線が抗米救国のための統一戦線として結成され
南ベトナム人民革命軍を組織した。一方、南のゴ・ジン・ジェム政権は国民の支持を失い、
弱体化していった。

 インドシナ全域の共産化を恐れるアメリカは1964年トンキン湾で海軍が砲撃を受けた
という「トンキン湾事件」をでっち上げ、北ベトナムの空爆を開始した。翌1965年からは
本格的な北爆を開始し、宣戦布告のない「ベトナム戦争」が始まった。米軍はベトナム全土を
制圧すべく地上軍を投入して戦線を拡大したが、ベトナム民衆は地下に潜って空爆に耐え、
ゲリラ戦術で果敢に戦った。北ベトナムからホーチミンルートで支援された解放戦線は次第に
米軍を圧迫していった。

 米軍の厭戦機運や内外の批判などを受け、和平への動きが進み、1967年5月にはベトナム
和平会議が、米国の北爆停止宣言を受けて開始された。1969年1月からはベトナム民主
共和国(北ベトナム)、南ベトナム解放戦線(ベトコン)、ベトナム共和国(南ベトナム)、
アメリカの代表が参加して協議されたが、進展しなかった。1970年米国ニクソン政権は
交渉を有利に進めるため、カンボジア侵攻、ラオスへの空爆を行い戦線を拡大したが、軍事的
成果は上がらず、かえって内外の反戦運動を活発にした。このような中、ベトナム戦争の停戦、
アメリカ軍の撤退、南ベトナムの政治的対立の解決、捕虜の相互解放などで合意に達し、
1973年1月27日に、べトナム和平協定(パリ和平協定)が成立した。南ベトナム政権の
あり方には合意がなかったため、政府軍と解放戦線の内戦はなおも続き、75年にサイゴンが
陥落して南ベトナム政府が崩壊し、ようやく戦争が終結する。1976年に現在のベトナム
社会主義共和国が成立し、首都は北ベトナムのハノイが継承し、1977年に国連に加盟した。

 ベトナム戦争後も、1979年1月のカンボジアに侵攻、同年の中国との中越戦争と戦時態勢が
続き、国民生活を圧迫し続けた。また南北統一後、全土の社会主義化を進めようとしたが、生産は
停滞し、経済成長が止まり、政策の転換を余儀なくされた。1985年にソ連に登場したゴルバ
チョフ政権がペレストロイカという改革を開始すると、ソ連の影響の強かったベトナムでも、
1986年から市場経済の導入に踏み切った。その新路線をベトナム語でドイ・モイ(刷新の意味)
と言った。この路線への転換は、政治的な混乱もなく、比較的スムースに行われた。1989年
にはカンボジアからも撤退し、91年にカンボジア和平協定が成立した。1995年には東南
アジア諸国連合(ASEAN)に加盟、同年アメリカとも国交を正常化させ、経済は回復に向
かって現在に至っている。

以上です。 (お疲れ様!)

 


ベトナム・ホーチミン市を訪ねた。

2018-01-21 10:36:56 | 海外・旅行記

 ベトナムのホ-チミン市、そう、旧・南ベトナムの首都で、当時のサイゴン市です。北
ベトナムからの統一後にホーチミン市と改名されました。そのホーチミン市へ出かけてき
ました。

 東南アジアは時差が少なく、帰国後も時差ボケがおきにくいのがいいですね。ちなみに
ホーチミン市の場合は時差が2時間です。今回のツアー予約(飛行機とホテル)は正月明け
で割安料金でしたが、早く申し込んだ特典で、5つ星ホテルの最上階のラウンジを無料で
使えるというメリットを享受でき、少しリッチな気分を味わうことができました。

 ホーチミン市には特別な歴史遺産はありませんが、元・南ベトナムの大統領官邸(現在の
統一会堂)、聖母マリア教会、市民劇場、ホーチミン像、人民委員会・庁舎、歴史博物館、
動・植物園、タワービル(スカイデッキ49F)、ドンコイ通り、ベンタイン市場、新しく出店
した高島屋百貨店、等を散策しました。市内散策にはドンコイ通りのシェラトンホテルの
ロビーを中心に活用しました。

ホテルは快適 (ホテル ニッコー サイゴン)
 部屋は客室最上階(22階)の広々とした高級な部屋を使わせていただきました。23階に
ある高級ラウンジのアフタヌーンティー、夜の軽食&アルコールの飲み放題、食べ放題を満喫
しました。特に、夜景を見ながらの夜のアルコールは最高でした。5階の20mプールは屋上
にあり、開放感がありゆったりとした一時を味わうことができました。

以上です。

 

 

 


ロンドン市街巡り

2017-07-14 18:36:54 | 海外・旅行記

 ナイツブリッジ周辺にはブランドショッピング街が広がり、一角には有名なハロッズ・デパートが
ある。食材売り場を見て回ったが、日本と生活習慣が違うのか美味しそうな庶民向けの食材は種類も
品数も少なく、購買欲が湧かなかった。それでもつまみに買ったサラミやハムは美味しかった。宿泊
ホテルからナイツブリッジ駅までの150m位を毎日、高級なお店やブロンド美人を横に見ながら、
楽しく歩くことができた。

 6月20日、ハンプトンコートからの帰りに、ピカデリーサーカス駅で下車し、フォートナム
&メイソン(本店)に出かけ、スコーン(菓子)とお茶を味わい、土産を沢山買った。フォート
ナム&メイソンには23年前に家族で(子供連れで)来た時にもお茶を飲んだ思い出がある。

 6月21日にはオイスターカードで、ホテル前から二階建てのバス(22番)に乗り、グリーン
パーク駅で下車して、バッキンガム宮殿へ歩いた。バッキンガム宮殿付近を散策した後、ビクトリア
駅まで歩きそこから地下鉄で2駅を乗ってオックスフォード・サーカスに降り立った。ここで相方
さんがリバティ・デパートで買い物がしたいと宣うので、リージェントstreetを少し歩いてリバティー
へ立ち寄った。木製の階段が残る老舗の有名百貨店だ。買物後はリージェントstreetをピカデリー・
サーカスに向かって、銀ブラのようにバーバリーの本店などを見ながら歩き(バーバリー店の向かい
当たりには出店間もない?ユニクロがあった。)、ピカデリーサーカス駅に到着した。ここから地下鉄
ピカデリー線でナイツブリッジに向かいホテルに戻った。
 ハロッズ横のイタリアンレストランで昼食をとり、ホテルで荷物を受け取って、帰宅の徒に着いた。
(ヒースロー空港に向け地下鉄に乗車した)

以下、個別の写真を掲載します。

    

     

    

    

   

以上です。