masaring

自己チューの進行形日記でshow。

『友達よ泣くんじゃない』。

2008年04月07日 | 音楽!何でも大好き

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【人のためにと思ってた歌。実は自分のための歌だった。】

Tyei

『友達よ泣くんじゃない』 作詞/阿久 悠*作曲/鈴木邦彦

友達よ泣くんじゃない
今はつらいけど
友達よ泣くんじゃない
明日は晴れるから
君の胸の奥は いつも熱いあらし
何をしても 苦しいせつないこの毎日

    友達よ 泣くんじゃない
    誰も今はそうさ
    友達よ 泣くんじゃない
    話してあげるから
  

    友達よ行くんじゃない
    逃げてどうなるか
    友達よ行くんじゃない
    ここにも夢がある
    恋に悩む時も 愛をさがす時も
    何をしても 苦しいせつないこの毎日

          友達よ行くんじゃない
                みんな君の味方
                友達よ行くんじゃない
                見つめてあげるから
  

Tyei

36年も前の昔の歌だ。流行り歌だ。

でも、悲しんでいる人のために 歌ってあげようと
密かに思っていた歌だ。

歌って、励ましてあげようと思っていた歌だ。

でも改めて聴くと、自分のための歌だった。

今を逃げたいと時々思う。
ここから逃げたいと時々思う。

この季節、特にそう思う。

自分の好きな歌って、自分のための歌だ。
と今頃、気がついている私なのです。

しかし、故 阿久 悠先生って偉大な人だったんだって
今頃、本心で気がついた。

人は亡くなっても、歌の精神は生きている。

色んなことがありながらも、今までも
毎日、紆余曲折がありながらも歩いて来たんだ。

これが自分の道だもの。歌って素晴らしいわ!!

o〇o。。o〇o。。o〇o。。o〇o。。o〇o

もしよろしければ、この歌をお聴きください。
お聴きいただける方は、下↓をクリックしてください。

『友達よ泣くんじゃない』。♪♪これって自分への応援歌だ。

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【今は今しかない。ここは此処にしかない。花も逃げずに咲く。】

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『さらば涙と言おう』。

2008年04月06日 | 音楽!何でも大好き

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【今日の記事の内容は、あくまでもフィクションでございます。】

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『智に働けば角が立つ、情に掉させば流される。
 意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい。』

まっちゃんの年代は社会を動かしていると自負する人間と
波風立てずこのまま、定年を迎えようと考える人間がいる。

まっちゃんは?
まっちゃんは窓際さんだから、どちらかと言えば後者だね。

でも、一応端役だけど、名前だけ役職も貰ってるから
会議には出なくちゃいけない。出たくないけどね。

+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+

時々意見も求められる。真面目に意見を述べる。
ところが「そういう発言は、この会議に相応しくないね」だ。

精一杯の誠意をもって意見を述べたのに
こう言われると堪えるね。

「まっちゃん、若い時。将来を嘱望されてたのにね。」
この言葉にも堪えるね。

あまり、理想ばかり述べるのも本意じゃないし
浪花節的発言は得意じゃないし
自論を並べるには、少々おこがましいし。

それに最後にはこう言われるのが分かっているしね。
「病気が足を引っ張ったね。」

とにかくお給料をいただいてるので、忍の字です。

+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+

ここからはあくまでも、まっちゃんの心の呟きですよ。

「でもね、皆さん。今、皆さん肩書きがたくさんあって
 重責だと思いますが、退職してその肩書きが無くなり
 一市民になったとき、今の言葉自分に返って来ますよ。」

上のような言葉、とても口にできないけどね。

今は、とりあえず耐えましょう。

まっちゃんは、優しいから皆さんがそんな境地になったら
「友達よ、泣くんじゃない」。と歌ってあげますよ。

まっちゃん、一度は地獄を見てるから。

+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+

こんなやりとりのあった会議のあとは
高校生時代に流行った歌を口ずさんで

明日のお仕事の段取りをするんです。

Hito

 

『さらば涙と言おう』 作詞・阿久 悠*作曲・鈴木邦彦

さよならは 誰に言う
さよならは 悲しみに
雨の降る日を待って
さらば涙と言おう

  頬をぬらす涙は 誰にも見せない
  こらえきれぬ時には 小雨に流そう
  さみしさも 悲しさも
  いくたびか 出逢うだろう

  だけど そんな時でも
  さらば涙と言おう  

    青春の勲章は くじけない心だと
    知った今日であるなら
    さらば涙と言おう

      まぶたはらす涙も
      こぼしちゃいけない
      こえらえきれぬ時には
      まつげにためよう

      恋のため 愛のため
      まっすぐに生きるため
      泣けることもあるけど
      さらば涙と言おう  

Hito

そうなんです。まっちゃんはまつげが長いんです。
歌をお聴きになられる方は下↓をクリックしてね。

「さらば涙と言おう」。幸か不幸か、睫で涙が止まります。

+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+:+

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【私、まっちゃん。こんな俺でも男だから、さらば涙と言おう。】

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デゴイチ愛情保存。

2008年04月05日 | masaringの内緒話

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【桜の季節が終わったら、訪ねてみようか。根来SL公園を。】

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どういう訳か、国鉄OBのお爺さん、いやおじさんと
話す機会があった。JRじゃなくて国鉄だよ。

「良かったら読んでみてよ」と新聞記事のコピーを
私に渡した。私、小さい頃から鉄道マニア。

その新聞。こう書かれていた。《記者には失礼。少し編集。》

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早春の夕日が黒い車体に反射していた。
岩出市根来の根来SL公園に展示される蒸気機関車

「D51  930」。昭和の時代、白煙を吹きながら全国を
走り抜け「デゴイチ」の愛称で親しまれた。

この930号は、1934年に製造された。東海道線の
米原機関区や北陸線の敦賀機関区などを経て、

65年7月からは紀伊田辺機関区に所属して紀勢線で
活躍した。72年11月限りで現役を引退。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

翌73年からは和歌山県海南市みなと公園に展示され
ファンの人気を集めていた。

だが、公園は98年6月に閉鎖され、近くの工場跡地で
野ざらしにされた。車体には傷みやサビが目立ち、

部品が盗まれることもあった。スクラップも検討された。
それを譲り受け、根来SL公園での展示にこぎつけたのは

「D51  930保存会」だった。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

《中略》

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2002年11月、市(当時は町)が教育的資料として受け入れる
ことになった。だが、海南市みなと公園へ行って保存会の
人達は愕然とした。

「サビだらけであまりにボロボロ。」
「見ていられなかった。」それでもあきらめなかった。

5か月後、車体を3分割して移送してきた。

開園までには、さらに4か月余りもかかった。

壊れていた部品は、JR各社や国鉄OBを通じて探したり
保存会が作ったりして、交換した。

保存会の約20人がサンドペーパーで車体のサビを落とし
黒光りするまで磨き上げた。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

03年9月に開園。それから5年足らずで約18,000人が
公園を訪れた。《開園しているのは週5日。土祝日休園》

「この機関車は和歌山を走っていたんだよ。」
日曜日は保存会の方が出てきて、子どもたちに説明。

子どもたちも一生懸命聞き、運転席でレバーも操作できる。

「もう、お目にかかることもないと思っていたから、、、。
 これからも大切にしていきたい。」

保存会のだれもに、「デゴイチ」への愛情と
「国鉄マン」としての誇りがあふれていた。

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まっちゃんの家の近くを走る、和歌山線。

確か、まっちゃん17歳の時までSLが走ってた。
SL運行最後の日。線路間際で写真撮ったよ。

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そして、岩出市のHPから「保存会」の頁へリンク。
何と新聞のコピーをくれたおじさんが笑顔で登場してる。

人間、熱中人生を過ごしていたら肉体は老いても
精神や明日への希望は決して色あせないと
改めて感じた、まっちゃんでした。

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豆知識:この車輌は外観をできる限り修復し保存、
     これを、静態保存いう。

梅小路や大井川鉄道などで走行している機関車は
動態保存という呼び方をするのだそうだ。

Sakura7

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【職場近くの桜谷川と土手の桜。名称に合わせ桜を植えた?】

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NSPの歌【其の弐】。

2008年04月03日 | 音楽!何でも大好き

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【2005年の19年振り新曲CDとジャケット。最後のCDとなった。】

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NSPはテレビにはあまり出なかった。
コンサート活動が主だった。

アルバムは出す度にヒット。当時としては珍しく
総売り上げ300万枚の記録を残している。

1980年代に入りメンバーそれぞれが作曲、
プロデュースなどソロ活動が多くなり、
1987年に、活動を停止した。

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ある日、まっちゃんは情報誌でNSPの再結成の
コンサートが開催されることを病院で知った。
そう、まっちゃんは入院していたのだ。

たまたま、用事を頼んでおいた妹が病院に来た。
妹はその情報誌に釘付けになった。
何と、妹は以前ファンクラブに入っていたようである。

o〇o。。o〇o。。o〇o。。o〇o。。o〇o

すぐに、先行予約で申し込んだらしい。
そして、チケットを2枚ゲットしていた。
退院祝いと私を誘ってくれた。私、杖をついて行った。

そう、2002年にオリジナルメンバーで再結成したのだ。

1月26日、日本青年館。2月3日、大阪厚生年金会館で
復活後初コンサート。チケットは1時間で完売したという。

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その後、定期的にコンサートを開催した。
でも土・日限定だった。そう、彼らには別に本業があった。

まっちゃんと同い年の彼ら。三人とも色々な人生模様。
すでに、孫を見ているメンバーや、まだ幼稚園児の親で
あったり、一人は私生活をコンサートでも語らなかった。

演奏は若い頃より上手くなっていると感じた。
PAが昔と比較できない位進歩していることも要因だ。

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年一回のコンサートが、春・秋の2回開催されるようになった。

何か、生き急いでいるようにも思えたが
どの回も、心和むコンサートだった。

2005年2月に19年ぶりの新曲シングル「水のせいだったんです」、
アルバム「Radio Days」を発売した。

o〇o。。o〇o。。o〇o。。o〇o。。o〇o

発売記念のコンサートが、大阪でも開催されると思いきや
2005年7月1日、リーダーの天野滋さんが死去した。

大腸ガンで闘病中であったにもかかわらず、
精力的に全国ツアーや諸活動を続けていたのだった。

残念ながら昨年10月、ファンクラブの活動は停止した。

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1984年発表の曲「未来」。恋愛をモチーフにしているが
まっちゃんはこの歌。恋愛を超越した人間愛・友情を
歌っているように思えるんだ。大好きな歌だ。

Iro

『未来』  作詞・作曲*天野 滋

求め合えばコミュニケーション
信じたい人がいる
愛は めくるめく時間の中で
一つだけ無くしたくないもの
未来を強く生き抜くために
あなたのその微笑が欲しい 

    見つめ合えばカンバセーション
    偶然に生まれた国で
    もしも苦しみを分かり合えて
    喜びをわかちあえたら
    命が燃えつきてしまうまで
    あなたを愛し続けていたい 

   
        何がそうさせて 何が導くの
        愛しても 愛し足りない
        未来を強く生き抜くために
        あなたのその微笑が欲しい
        命が燃えつきてしまうまで
        あなたを愛し続けていたい 

Iro
       
この歌を聴くには、下↓をクリックしてください。

未来

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20080331_006

【愛そして友情。時間は経過しても絶対に無くしたくないよね。】

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NSP の歌【其の壱】。

2008年04月02日 | 音楽!何でも大好き

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【NSPの懐かしきアナログLPの数々。その頃はN.S.P.と表記。】

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NSP(エヌエスピー)は、岩手県出身の三人組の
バンド。正式にはバンドだった。過去形にしたのは、
もう生のステージは見ることが出来ないからだ。

国立一関工業高等専門学校の同級生であった三人が
在学中の1972年に結成したバンドである。

アマチュア時代にはニュー・サディスティック・ピンク
(New Sadistic Pink)として、当初はロックを
中心に活動していた。

o〇o。。o〇o。。o〇o。。o〇o。。o〇o

高専在学中の1973年に第5回
ヤマハポピュラーソングコンテストに於いて
楽曲「あせ」でニッポン放送賞を受賞し、
同年6月「さようなら」でデビュー。

しかしフォーク調の曲でデビューするのに
この名前が似合わないという理由で、
頭文字だけ取り出したNSP(N.S.P )という
アルファベット三文字のバンド名に変更された。

翌年、高専を卒業を機に上京する。
その後「夕暮れ時はさびしそう」「赤い糸の伝説」などが
ヒットし、叙情派フォークを代表するグループとなった。

まっちゃんが、彼らの音楽を知ったのは
ヒット曲「夕暮れ時はさびしそう」からである。

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その頃は、すでに都会派フォークが流行っていて
オカリナで始まるイントロは何か田舎の風景を
見事に表現していた。でも、シングルは買わなかった。

私の妹がNSPの大ファンだったせいもあるが
アルバムは発売されるたびに購入した。
ジャケットも、とてもまっちゃん好みだった。

o〇o。。o〇o。。o〇o。。o〇o。。o〇o

昔の、彼らのコンサートには行っていない。
《再結成してからは、足しげく通ったが。》

でも、1979年に発売され下に紹介する歌は
シングルでも購入した。何かまっちゃんの
その時の心境とピッタリだったからだ。

彼らは、高専の同級生。そして、まっちゃんと同い年。

岩手と和歌山の違いはあるが、地方で育った感性は
多分、似通った部分が多かったからであろう。

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『青い涙の味がする』   作詞・作曲*天野 滋

すすきが揺れる 遠いふるさとの町に
忘れた物を探しに来たんだ
ホームに足を 降ろしただけでこうばしい
青い涙の味がする

    仲間を呼んで 騒いだ
    酒など飲んで 歌った
    そしていまはみんなちりぢり
    青春なんて言葉を
    手のひらで 握り潰してた
    あの頃の 僕たちさ 

   
黙っていても ひとつずつ年をとってく
体の中は思い出だらけ
久しぶりに ふと合わせたアイツの顔が
可愛らしいくらい老けていた

    握手をしても ダメさ
    頭を下げても 無駄さ
    心の距離を感じてしまう
    青春なんて文字が
    心の隅をつつく
    傷口を またつつく   

   
     慰めあった人も
     別れを惜しんだ人も
     今となってはみんなちりぢり
     青春なんて 言葉の
     意味さえ わからずに
     あの頃は 生きていた

     青春なんて言葉を
       手のひらで 握り潰してた
       あの頃の 僕たちさ   

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この歌を聴くには、下↓をクリックしてください。

青い涙の味がする

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【今は空の星となった天野さん。でも心の中では生きてるよ。】

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