百年目の「草枕」ー熊本・小天温泉にてー
「山路を登りながら、こう考えた。
知に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。 兎角に人の世は住みにくい。」
日本近代文学史上有数の美文として名高い夏目漱石作「草枕」の書き出し部分である。
若い画工(画家)が那古井(なこい)の里へと続く山道をあれこれ人生や芸術について考え、俳句を詠んだりしながら旅し、着いたひなびた宿で美人だがひどく風変わりな 「志保田の那美さん」に出会い翻弄される―というのが小説の(かなり乱暴な)あらすじだ。
1896年に松山中を辞し、熊本五高へ教授として赴任した漱石はその翌年暮れ、同僚で東大の同級生でもある友人山川信次郎と二度、隣町の天水(てんすい)町小天(おあま) 温泉へと旅している。「草枕」はこの徒歩旅行での体験を素材に書かれた。つまり、今年(1997年)は「那古井」イコール小天への「草枕」の旅からちょうど百年目に当たるのだ。漱石たちは金峰山を越える十三キロの細く険しい山道を歩いたのだが、現在では海岸廻りの国道501号線が整備され、車なら二十分ほどで小天へ行くことができる。
熊本市内に泊まった翌朝早く、ひとりレンタカーを駆ってその道を走った。前夜ホテルのフロント嬢に尋ねたところ、初めての人が山道を行くのはちょっと難しいだろう、やはり501号線を走ったほうが確実、とのことだった。「草枕ハイキングコース」としてすっかり有名になっているらしい山越えルートを通らないのは少し心残りだったが、そういえば、沿道にある〝峠の茶屋”はバス会社が勝手に作って宣伝しているもの、という記述が、二十年以上前に買い求めた「カラーブックス名作の旅 夏目漱石」にあった。
有明海沿いにアップダウンを繰り返して天水町に入るとまもなく、「漱石館」への標識を見つけた。漱石と山川が投宿したこの「漱石館」、前身は前田案山子の別邸である。前田はご存知の方も多い有名な俳人だが、元々は黒田藩の重鎮で自由民権運動の論客、そして第一回衆議院議員でもあった。漱石らが訪ねた頃、彼はすでに政界から引退して広い別邸で優雅な文人生活を送っており、「草枕」には志保田家のヒゲの隠居として登場する。この別邸の一部が現在「漱石館」として保存・公開されているのだ。
早朝で人気のない庭へ入って行くとすぐに、さまざまな文献のロ絵写真で見慣れたあの部屋だった。縁側の障子は開け放たれたままで、正面に床の間。なんだかあわててカメラのシャッターを切った。
「思ったより庭は狭い。五、六枚の飛び石を一面の青苔が埋めて。素足で踏みつけたら、さも気持ち良さそうだ」という記述はそのまま。五月末で木立の緑は濃く、むうっと匂った。
敷地内で一段高いところにある漱石館の真下に、崩れかかった廃屋が見えた。あれが!竹薮の急斜面を駆け下りて、のぞいてみた。板材がはがれ落ち、内外とも荒れ放題のこの建物こそ、漱石たちが入った風呂場の跡だった。湯壺に黒く濁った水が溜まっているのが見える。小説では中盤、画工が入浴中とは知らずに那美さんが全裸で男湯へ現れる、というエピソードがあるのだが、これは那美のモデルとなった女性―案山子の次女で、二度の結婚に失敗し実家に出戻っていた卓子(つなこ)が、女湯より湯の熱い男湯へと来たところ、漱石と山川がいたので驚き逃げ戻った、という実話を基に書かれたと伝えられている。するとこの石段を卓子―那美さんは降りてきたのだな。
少しぼおっとした頭で別邸を出た。 別邸前の急な坂道が草枕の道の終点で、これをすんずん登って行くと、前田家の墓地に着く。後年漱石は「わが墓」という題の絵を残した。そこに描かれた静かで悲しいほど美しい風景は、この丘から有明海を眼下に望んだものなのだ。 遠くにはかすんで島原・雲仙も見える。のちの文豪がここを桃源郷、とまで書いたわけが分かった。
「ああ思いがけず自分はこの地へ来ることができた。」
段々畑の中の道を下りながら、 僕は幸運をかみしめた。
「今日は阿蘇山を観光する。そのあとで、ぜひとも内牧温泉へ寄ろう。山王閣ホテルにあるという「漱石館」(小説「ニ百十日」の素材となった旅で漱石が伯まった部屋が、離れとして保存されている) へも寄って行こう。」
(平成9年6月7日)
この小天行に踏み切れたのは、その前年に「文豪ミステリー!今甦る!漱石100年の恋」という、熊本県民テレビ開局15周年、夏目漱石来熊百年にちなんで企画制作されたドラマ仕立てのドキュメンタリー番組をたまたま観てのことだった。内藤剛志が漱石と本人の二役、高島礼子が前田卓子、鏡子夫人を芳本美代子、ナレーションが風間杜夫、と豪華な配役だった。