TV録画を整理した時、もう一度見た陶芸家・辻村史朗さんと詩人・茨木のり子さん紹介の番組2つ。自分がしたいことをし続ける凄さに再び見入った。この陶芸家の印象的な顔のこと(『面白い顔』)を裏ブログに書いたが、今回は陶芸家の奥さんの見とれるような可愛らしさと茨木のりこさんの詩『汲む -Y・Yに-』を重ねて考えていた。
詩は、早く大人ぶりたいと思っていた詩人に、俳優・山本安英さんが「人間はいつまでも初々しさが大切なんですね、人に対しても世の中に対しても。初々しさがなくなると俳優としても駄目になります。それは隠そうとしたって隠しおおせるものではなくて、そうして堕ちていった人を何人も見ました」(『一本の茎の上に』茨木のり子著:ちくま文庫から)と「背伸びを惜しんでふっと漏らした」言葉による。
陶芸家の奥さんはきっと知らない人と話す時に、どぎまぎし、ぎこちない挨拶で、醜く赤くなり、失語症、なめらかでないしぐさで、子どもの悪態にさえ傷ついてしまう人なのかもしれない。ぜひ、そうであって欲しい(笑)。少し前まで超過酷な暮らしの中、老いてなお輝くような初々しさはただものではない。
前に、歳をうんととったら生きるのが楽になるはずと言う若い人に、「そうだね。俺も前より気持ちが楽だよ」と相槌を打ったが妙に心に引っかかるものが残っていた。歳をとるということは、「頼りない生ガキのような感受性」や「咲きたての薔薇」「震える弱いアンテナ」を失うことを忘れていた。
茨木さんの韓国に対する思いを知ると、この詩人の人間的な値打というか人生の重層的な構え方が迫る。韓国の短い詩(本ブログ『祈りを意識する』掲載)の価値を思う 茨木さんの詩『寄りかからず』『自分の感受性くらい』が茨木さん自身への言葉だから救われる(笑)
初々しさは、容貌や化粧では生まれないし持続できないけど、ではどうしたら身につくのかなあ。生まれつきの才能でもないだろうし・・・・。