電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

ブラームスがクララ・シューマンに出会った頃

2006年10月13日 20時11分27秒 | クラシック音楽
ここしばらくブラームスの音楽を聞いている関係で、気になっていることを調べてみました。それは、「シューマンがライン河に身を投げたとき、結婚指環を取り外していたのは、妻クララと若いブラームスが恋に落ち、嫉妬と病気の絶望感から入水自殺を図ったため」という説が、はたして成り立ちうるのだろうか、という点。もちろん、タイムマシンに乗って昔に帰ることはできませんし、できたとしても私はドイツ語の会話がわかりませんけれど、新潮文庫の三宅幸夫著『ブラームス』でわかる範囲での推測です。

年譜によれば、ブラームスがデュッセルドルフのシューマン夫妻のもとを訪ねたのは1853年、ブラームス20歳、シューマン43歳、クララは34歳です。今で言えば、大学2年生が恩師の奥さんにポーっとなるようなもの。まだ子どもらしさを残した20歳の青年が、34歳のクララを一方的に敬慕したとしても、この時点でクララが青年に恋するとは考えにくいです。ちょいと「あっ、いい青年だな」くらいは思ったかもしれませんが、シューマンが嫉妬して身を投げるほど見せ付けたりするだろうか。これはどうも、シューマンの死後のブラームスとの関係を投影し、後から理由付けた結果論に思えます。

むしろ、運動機能障碍から精神障碍に進みつつあったシューマンの、クララを得るために法学の論文を提出し知力を証明したほどの知性が、創作をまとめあげる健康と時間が許されず、家族を残してやがて迎えるはずの恐ろしい結末を正確に認識したがゆえの絶望ではないか。これがライン河への投身の真相でしょう。救助時に指環をつけていなかったというエピソードが仮に事実であっても、それをブラームスに帰すほどの重さがあるとは思えません。ライン河を行き来する船に助け上げられたとき、誰かにちょろまかされたのかもしれない。

クララとブラームスの関係は、その後の四年間、1854年から1858年にかけてほとんど作品が生み出されていない、シューマン夫人とその娘たちへのブラームスの献身として知られています。21歳の才能ある若者から25歳の頼りがいのある青年へと成長していったブラームスの変容を目の当たりにしたクララの意識の変化は、この頃にはたしかにあったことでしょう。アガーテとブラームスの関係を知ったときのクララの態度や、後年までのアガーテへの冷淡さなどから推測されます。しかし、ブラームスは自分自身がまず生活しなければならなかった。クララはベルリン、ブラームスはハンブルグ。ウィーンに居を定めるのは1862年、29歳になってからでした。

結論。シューマンの悲劇に、青年ブラームスの関与はごく小さい。18歳のシューマンが病気に感染した責任は、あくまでもシューマン本人と相手の娘にある。悲劇の本質は有効な治療法がなかった点にあり、ブラームスではない。
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