先月、清流出版から出ている、福沢(澤)一郎著『知られざる藤沢周平の真実~待つことは楽しかった』を読みましたが、いろいろと考えるところがありました。
藤沢周平が、故郷である鶴岡市の名誉市民の称号を辞退したことについて、実はずっと引っかかっていました。これは、後に叙勲を受けていることも考えあわせると、彼が晴れがましいことを好まなかったことだけでは説明しがたいと思います。では、郷里の人々に対して、何十年もの間、なにか恨みや含むところがあったのだろうか。藤沢周平の人柄など、様々な点からみて、それもちょっと考えにくいことです。
この本の著者・福澤一郎氏は、文春文庫『藤沢周平のすべて』に掲載された「仰げば尊し 湯田川中学校教師時代」(*)の筆者です。この中で同氏は、藤沢周平の最初の夫人である三浦悦子さんの死後、後に妻となる和子さんと出会うまで、郷里鶴岡の女性と二度結婚し二度破綻したことを指摘しています。
藤沢周平の娘さんの遠藤展子さんが著した『藤沢周平 父の周辺』(*2)でも、2番目に「子供の直感」という文章が掲載されていますが、この中にも彼女が二歳のころの話しとして、
「しかし、まだ小さな子供の子育てを祖母一人に任せるのは大変だということで、田舎の親戚が心配して、父の再婚相手として何人かのお嫁さん候補をわが家に連れてきたのでした。
父にしてみれば、妻が亡くなって日も浅く、とても再婚など考えられる心境ではなかったのですが、話だけはどんどん進んで、わが家では一時期、よそのおばさんが面倒を見てくれていたときがありました。」
と書いています。
詳しい事情や理由は別として、藤沢周平との間で不幸な経緯をたどった女性がいたことは、どうも確かなことのように思われます。
ここからは、本書の趣旨をはなれて、私の考えです。
死別の場合はともかく、離別の場合は恨みがのこることが多いものです。この場合には、おそらく女性の側で恨みの気持ちをもったことでしょうし、藤沢の側でも、心の傷、痛みとなって残ったことでしょう。後年、家庭の平凡な幸福を味わっていた作家・藤沢周平に、因縁のあった女性やその家族が住む郷里・鶴岡市から名誉市民の話があったとき、氏は正直「困ったなぁ」と思ったのではないか。おだやかな晩年を過ごしていたはずの藤沢周平が、故郷からの名誉市民の話を固辞したのは、ひとえに「それではあまりに申し訳ない」との思いだったのではないか。故郷への片意地や、本人のカタムチョな性格から、という解釈があるとすれば、それはどうも賛同できかねるように感じています。
(*):『藤沢周平のすべて』を読む
(*2):『藤沢周平 父の周辺』 を読む
ちょいと野暮用のため、本日の山響「第九」演奏会には行けませんでした。残念!
藤沢周平が、故郷である鶴岡市の名誉市民の称号を辞退したことについて、実はずっと引っかかっていました。これは、後に叙勲を受けていることも考えあわせると、彼が晴れがましいことを好まなかったことだけでは説明しがたいと思います。では、郷里の人々に対して、何十年もの間、なにか恨みや含むところがあったのだろうか。藤沢周平の人柄など、様々な点からみて、それもちょっと考えにくいことです。
この本の著者・福澤一郎氏は、文春文庫『藤沢周平のすべて』に掲載された「仰げば尊し 湯田川中学校教師時代」(*)の筆者です。この中で同氏は、藤沢周平の最初の夫人である三浦悦子さんの死後、後に妻となる和子さんと出会うまで、郷里鶴岡の女性と二度結婚し二度破綻したことを指摘しています。
藤沢周平の娘さんの遠藤展子さんが著した『藤沢周平 父の周辺』(*2)でも、2番目に「子供の直感」という文章が掲載されていますが、この中にも彼女が二歳のころの話しとして、
「しかし、まだ小さな子供の子育てを祖母一人に任せるのは大変だということで、田舎の親戚が心配して、父の再婚相手として何人かのお嫁さん候補をわが家に連れてきたのでした。
父にしてみれば、妻が亡くなって日も浅く、とても再婚など考えられる心境ではなかったのですが、話だけはどんどん進んで、わが家では一時期、よそのおばさんが面倒を見てくれていたときがありました。」
と書いています。
詳しい事情や理由は別として、藤沢周平との間で不幸な経緯をたどった女性がいたことは、どうも確かなことのように思われます。
ここからは、本書の趣旨をはなれて、私の考えです。
死別の場合はともかく、離別の場合は恨みがのこることが多いものです。この場合には、おそらく女性の側で恨みの気持ちをもったことでしょうし、藤沢の側でも、心の傷、痛みとなって残ったことでしょう。後年、家庭の平凡な幸福を味わっていた作家・藤沢周平に、因縁のあった女性やその家族が住む郷里・鶴岡市から名誉市民の話があったとき、氏は正直「困ったなぁ」と思ったのではないか。おだやかな晩年を過ごしていたはずの藤沢周平が、故郷からの名誉市民の話を固辞したのは、ひとえに「それではあまりに申し訳ない」との思いだったのではないか。故郷への片意地や、本人のカタムチョな性格から、という解釈があるとすれば、それはどうも賛同できかねるように感じています。
(*):『藤沢周平のすべて』を読む
(*2):『藤沢周平 父の周辺』 を読む
ちょいと野暮用のため、本日の山響「第九」演奏会には行けませんでした。残念!