電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

今日は、山響第256回定期演奏会

2016年10月16日 08時51分36秒 | Weblog
今朝は、いささか霧が出たようで、裏の畑の草も濡れておりました。早朝から畑仕事を済ませ、朝食の後にゆっくりコーヒーで一服しております。
今日は、午後から山響第256回定期演奏会の予定。曲目は、

  1. Naama Tamir/Spring Illusions(日本初演)
  2. メンデルスゾーン/無言歌集(Paul Angerer編)
  3. モーツァルト/ホルン協奏曲 第3番 変ホ長調 K.447
  4. ベートーヴェン/交響曲 第4番 変ロ長調 作品60
     ホルン独奏・指揮:ラデク・バボラーク、演奏:山形交響楽団

ということで、昨夜の公演の様子が、すでに地元紙・山形新聞に記事になっておりました。私は本日のマチネに行くのが今から楽しみです。



そういえば、バボラークさんと山形との関わりには、山形県の庄内地方の某脳外科のお医者さんとのご縁もあるらしい。たしか、頭痛持ちのバボラークさんが、診察を受けてピタリととまったのに感激して、来日すると庄内で演奏会をしたりして受診していたのだとか、だいぶ前の話ですが、そんなような記憶があります。

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WEB小説『本好きの下剋上』にハマり、Edgeの不都合さに気づく

2016年10月15日 06時02分45秒 | コンピュータ
文具を中心としたブログ「趣味と物欲」(*1)では、古典ブルーブラック・インク情報やインクのペーパークロマトなどのほかに、ときどきWEB(ケータイ?)小説を紹介しています。これまでも、ためしにいくつかの作品を読んでみましたが、作者の空想力に感心すると共に、細部の知識の詳しさに驚いてしまいます。

今回も、少し前に一番おもしろいと紹介されていた『本好きの下剋上』という作品がおもしろく、読みふけってしまいました。たぶん、『ぼく駐』以来のハマり方ではなかろうか(^o^)/
たっぷり読む量があるというところも、うれしい点です。

こうした作家の特徴として、大昔のシャーマンや民話のルーツに通じるような古代人の語り部を連想します。職業作家たちとは異なって、文章を彫琢するよりもむしろ意表を突く物語展開の連続を重視する、ストーリーテラーとしてのあり方が顕著なように感じます。



ところで、この作品を PDF でダウンロードしてみました。ファイルを開くと、Windows10ではMicrosoft Edge が起動しましたが、縦書き表示がまるでダメです。



ひどいもんです。これに対して、「プログラムで開く」から Adobe Reader で開いてみました。

  • Adobe Reader をデフォルトの PDF アプリにします  OK
  • このアプリがPCに変更を加えることを許可しますか  はい(Y)
  • デフォルトのPDFアプリケーションは Adobe Reader に設定できませんでした。

という具合で、Adobe に意地悪をしています。なんだかんだと理屈をつけているのでしょうが、要するに業界標準を蹴落としていこうという姿勢なのかも。

しかたがないので、Adobe Reader を先に起動しておき、これで読み込んでみました。
すると、結果はこんなふうでした。



ごらんのとおり、縦書きもきちんと表示されています。ただし、途中のページまで読んでも、どこまで読んだかを覚えていてはくれません。手近な紙に、ページ数を控えておく必要があり、ちょいと不便です。

ちなみに、Ubuntu Linux では、ドキュメント・ビューアで縦書き表示が正しく再現され、しかも途中まで読んだページ番号が保存されるらしく、次に読むときには、前に読んでいたページが再現されます。これはたいへん便利です。

(*1):ブログ「趣味と物欲」

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「Bun2」第68号(2016年10月号)を読む

2016年10月14日 06時04分39秒 | 手帳文具書斎
実用重視の中高年向きじゃないとぶつぶつ文句を言いながらも、毎号楽しみにしているステーショナリー・フリーマガジン「Bun2」第68(2016年10月)号を読みました。今号は「2017年版手帳特集」ということですが、内容的にはむしろ「2016年Bun2大賞」投票受付中という記事の比重が大きいようです。実際、特別に目をひくような手帳は見当たらず、私の手帳は今年も例年どおりのシステム手帳を継続することになりそうです。

記事の中で興味深かったのは、「大人の白地図」という付箋です。四角い付箋に、様々な白地図が印刷されているというもの。記事では「お土産に貼って渡そう!」と提案されていましたが、歴史小説を読むときに書き込みをしながら読んだりもできますしね~(^o^)/
これはおもしろそうです。

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佐伯一麦「Nさんの机で~ものをめぐる文学的自叙伝」で「オーディオ(1)」を読む

2016年10月13日 19時15分52秒 | Weblog
地元紙の山形新聞で、佐伯一麦「Nさんの机で~ものをめぐる文学的自叙伝」という連載を楽しみに読んでいます。これまでもたびたび取り上げていますが、今回はなんと「オーディオ」の第一回!

内容的には、原稿を書くのに使っているノートパソコンで、USB端子にDACを接続し、ヘッドホンを通じてバッハの「無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ第2番のシャコンヌ」や、同じくバッハのマタイ受難曲の終結合唱「われらは涙流してひざまずき」、あるいはワーグナーの楽劇「ニュルンベルグのマイスタージンガー」の前奏曲などを聴いている、というのですから、思わずスクラップしてしまいました。



佐伯一麦さんが愛用するのは「ドラゴンフライ」という製品らしく、「空間再生が別次元」と評価しています。検索して調べて見ると、小型のUSBメモリのような形の製品。ふむふむ、なかなか興味深いです。

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閑話休題

2016年10月12日 06時08分39秒 | ブログ運営
「歴史技術科学」カテゴリーで、東北帝大に初めて入学した女子学生のエピソードを書いていますが、調べれば調べるほど迫力があります。学生時代に知った史実でしたが、その後、様々な史料に触れるにつれて、先人が切り開いた道のりの過酷さと、大きな意味を感じるようになりました。その背景に一貫して流れる、リービッヒ以来の実験室を通じた教育のあり方と師弟の関係に、思わず襟を正すような思いです。

雑誌等と違い締切りはありませんが、逆に気分で中断することがこわい。この後、もう少し関係の記事を続け、写真等をまとめて入れる計画です。その後は……昭和に入るのかなあ。

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帝国大学に入学した女性たち

2016年10月11日 20時22分33秒 | 歴史技術科学
世間の注目を浴びながら、初めて帝国大学に入学した三人の女性たちは、それぞれどのような経歴であったのかを調べると、当時の女性の高等教育の状況が見えてきます。

黒田チカ(*1)は、1884(明治17)年に九州の佐賀に生まれました。理解ある父のもとで育ち、17歳で佐賀師範学校を卒業、一年間の奉職義務を終えて1902(明治35)年に東京の女子高等師範学校に進みます。このとき、理科の実験は学校でなければできないという理由から、理科を受験したとのことです。明治30年代の師範学校の教育の中に、実験室を通じた教育が影響力を及ぼしている例が、ここにも見られます。1890(明治23)年に、師範学校教員の養成のために設立されていた東京女高師では、東京大学卒の平田敏雄教授が理論化学を担当していました。黒田チカは、平田教授の指導を受けながら酒石酸の光学異性や染料と染色などに惹かれます。1906(明治39)年に東京女高師を卒業した黒田は、福井師範学校女子部に理科教師として奉職します。福井での教師生活は活気あるものでしたが、翌1907(明治40)年に保井コノ(生物)に続く二人目の官費研究科生として母校に呼び戻されます。平田教授の下で講義の準備や実験助手をしながら化学の教科書を原書で読み、二年間の研究科生活を終え、東京女高師の助教授となります。25歳でした。

この頃、東京女高師には、東京大学医学部の長井長義も講師として指導にあたっていました。黒田は長井教授の実験助手もつとめながら、直接に指導を受けます。長井教授は黒田チカの実力を認め、1913(大正2)年に高等工業学校や高等師範学校卒業者、中等教員検定試験合格者に受験資格を与え、女子にも門戸を開放するという制度を創設した東北帝国大学理科大学化学科への受験を勧めます。実は、長井長義は明治34年に創立された日本女子大学校に、自ら設計した階段教室や化学実験室を備えた香雪化学館を作り、化学の教授をつとめていました。ここでは、1873(明治6)年・鹿児島生まれの丹下ウメ(*3)が長井教授の実験助手として働いており、長井教授は、幼時に右目を失明しながら29歳で日本女子大学校の第一期生として入学、最年長で優秀な成績を収めた丹下ウメに中等教員検定試験を受けさせ、これに合格するとさらに東北帝国大学理科大学化学科への受験を勧めます。丹下ウメは40歳でした。

東京女高師からは、もう一人、牧田らく(*4)が数学科を受験しており、この年は東北帝国大学理科大学に三人の女子帝国大学生が誕生します。

「大正デモクラシーの時代」と言われる「時代の後押し」はあったでしょうが、入学までの経歴を眺めるとき、むしろ時代を切り開いた女性たちの迫力を感じます。と同時に、長井長義等の恩師の存在が大きいことにも気づかされます。


(*1):黒田チカ~Wikipediaの解説
(*2):君川治「女性化学者・黒田チカ」~On Line Journal「ライフビジョン」日本科学技術の旅より
(*3):「農学博士・化学者 丹下ウメ」~On Line Journal「ライフビジョン」日本科学技術の旅より
(*4):都河明子「牧田(金山)らく(数学者、1888-1977)ー妻としての選択」

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帝国大学に初めて女子が受験、入学する

2016年10月10日 09時28分40秒 | 歴史技術科学
1907(明治40)年、分析化学の講義という職務のかたわらバイヤーやフィッシャーの論文を読破し、漆の有機化学を志していた東京帝国大学の眞島利行助教授でしたが、留学するにあたって上司の桜井錠二教授が命じたのは「無機化学の研究」でした。そのために、最初の留学先はチューリッヒのウェルナー教授の下となる予定でした。ところが、入学手続きもすまないうちに桜井教授から電報が届きます。それは、同年に仙台に新設されることとなった東北帝国大学に理科大学が設置され、そこで有機化学をやってよい、という内容でした。眞島はこれを「無上の幸せと思い」、ただちに漆の研究に不可欠な不飽和結合の位置決定のためにオゾン酸化法を開発したキール大学のハリエス教授のもとで研究することを決定し、留学生活を始めます(*1)。このあたりは、時の運と恩師のありがたさを感じたことと思われます。

明治44年9月12日付けの河北新報に掲載された沢柳政太郎の文章によれば、9月11日、東北帝国大学理科大学が数学、物理学、化学の三学科の授業を開始した、とあります。地質学科は準備が整わず、翌年開始の予定と付記されており、金百余万円を寄付した古河財閥ならびに土地および金十五万円を寄付した宮城県等に対して感謝の言葉を述べています(*2)。
化学科の初代教授は、

  • 眞島利行 有機化学
  • 小川正孝 無機化学  幻の元素「ニッポニウム」は、あともう少しで新元素発見につながる業績だった。
  • 片山正夫 物理化学  著書の『化学本論』は、宮沢賢治が法華経とともに机上に置いた愛読書であったとのこと。

の三名で、それぞれの研究室や学生実験室の他に、講義室、図書室、天秤室、封管爐室、製造室など、教育と研究のための設備を備えたものでした。

このように発足して間もない1913(大正2)年、文部省から東北帝国大学総長あて、一通の文書が舞い込みます。それは、同年に沢柳政太郎総長が女子の入学を受け入れることを表明したのに対して、東京女子高等師範学校でも化学を指導していた長井長義が勧める(*3)などにより三名の女子学生が受験することとなり、この新聞報道に対する一種の詰問状でした。現代風に直せば、次のようなものです。



発専八九
本年貴学理科大学入学志望者中数名の女子出願いたしおり候様(よう)聞き及び候(そうろう)ところ、右は試験の上選科・入学せしむる御見込みに候や。元来女子を帝国大学に入学せしむることは前例之無きことにて、すこぶる重大なる事件に之有り、大いに講究を要すところと存ぜられ候につき、右に関しご意見詳細に承知いたしたく、この段照会に及び候ところなり。
 大正二年八月九日
   文部省専門学校局長 松浦鎭二郎
東北帝国大学総長北條時敬殿

そして、この詰問状の欄外には「八月二九日、総長文部省へ出頭、次官へ面談済」という朱書きがあり、北條時敬総長がどのような約束をしたのかは不明ですが、当座の大学の意思を貫く形をとって決着したようです(*4)。

こうして入学したのが、次の三名でした(*5)。

  • 黒田チカ(*6) 東京女子高等師範学校、化学科
  • 牧田らく   東京女子高等師範学校、数学科
  • 丹下ウメ   日本女子大学校(香雪化学館)、化学科


(*1):櫻井英樹「眞島利行先生」,『東北化学同窓会報・化学教室創立八十周年記念号』,p.54,1992(平成4)年3月
(*2):沢柳政太郎「東北帝國大学」,『東北化学同窓会報・化学教室創立八十周年記念号』,p.8-9,1992(平成4)年3月
(*3):明治初期の留学生の行先~「電網郊外散歩道」2015年2月
(*4):女子学生受験についての文部省からの詰問状,『東北化学同窓会報・化学教室創立八十周年記念号』,p.13,1992(平成4)年3月
(*5):女子学生の歴史~東北大学女子学生入学百周年記念事業
(*6):去華就実と郷土の先覚者たち・第29回~黒田チカ

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明治~大正期の日本の化学研究の状況~紹介から自立へ

2016年10月09日 06時41分00秒 | 歴史技術科学
日本化学会が創立百周年を機にまとめた新書判の小冊子『日本の化学 100年のあゆみ』(日本化学会編・井本稔著)に、興味深いデータが掲載されています。それは、明治13年から44年までの東京化学会誌と興行化学雑誌に掲載された報文数の推移のグラフ(p.54、図2)と、大正元年から昭和15年までの同誌及び欧文誌"Bulletin of the Chemical Society of Japan"に掲載された報文数の推移のグラフ(p.65、図1)です。これによれば、

  • 明治期において、年間の報文数は10編程度から二誌あわせて50編程度まで増加した。
  • 大正期、とくに大正末期から報文数が顕著に増加し、100編を越えるようになる。

ということがわかります。とくに大正期の増加は工業化学雑誌で著しく、第一次大戦による日本経済の向上を反映しているものと考えられます。

『日本の化学 100年』によれば、研究の内容面からは「衣料資源がないならば化学繊維を、肥料と軍事力のためにはアンモニアを、一朝有事の際には自力で医薬や染料を」(p.78)という目標からもわかるように、軍事的・帝国主義的な色彩を強く持っていたことが指摘されますが、また一方では、基礎となる基礎化学の必要性が認識されていったことも確かでしょう。大正期が、西欧の進んだ科学技術の紹介・模倣から自立へと歩む時期であったと位置づけて良かろうと思います。

この頃の指導的な化学者として、同書は次のような人物を挙げて紹介しています。

  • 真島利行(1874-1962) 有機化学
  • 朝比奈泰彦(1881-1975) 薬学
  • 鈴木梅太郎(1874-1943) 農芸化学
  • 大幸勇吉(1867-1950)、片山正夫(1877-1961) 物理化学
  • 柿内三郎(1882-1967) 医化学→生化学

いずれも、それぞれの分野におけるビッグネームですが、これらの人々は日本で教育を受け、研究に携わった後に欧米の大学に留学して、ギーセン大学でリービッヒが開始したような実験室を通じて教育と研究を進めるというスタイルでそれぞれの研究を深めて帰国し、研究を発展させていった、という特徴を持っています。一言で言えば研究を深めるために留学しており、学ぶために留学していた明治初期の国費留学生とはだいぶ異なる様相を示しています。このあたりも、紹介から自立へという変化を表していると考えます。

例えば真島利行(*1)は、1874(明治7)年に京都市に生まれ、京都府中学を経て第一高等学校に入学、東京帝国大学理科大学を卒業後、同大助手、1903年から助教授となり、1907年から留学します。真島の研究テーマは漆の化学成分で、留学先は、いずれもリービッヒの弟子またはその門下生にあたり、ドイツのキール大学のハリエス教授(*2)と、スイスのチューリヒ工科大学のヴィルシュテッター教授です。ここで、真空度の高い減圧蒸溜法やオゾン酸化法、接触還元法などを取り入れ、帰国後に東北帝国大学理学部を拠点に、白金黒を触媒として水素気流中で接触還元するという方法で、1917年には漆の化学成分を突き止めます(*3,*4)。東洋の島国に生まれた若者が、ドイツに発する実験室を通じた教育と研究というスタイルで成長し、人種や国籍を越えて世界的な研究に到達するという、見事な実例です。

真島は、1911(明治44)年に東北帝国大学教授に就任していますが、この研究の最中の1913(大正2)年に、一つの「事件」が持ち上がっていたのでした。
(続く)

(*1):真島利行~Wikipediaの解説
(*2):Carl Dietrich Harries~Wikipediaの解説(ドイツ語)
(*3):真島利行の業績
(*4):化学遺産の第3回認定~眞島利行ウルシオール研究関連資料,久保孝史・江口太郎,『化学と工業』,2012年7月

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ニョキニョキパッ!

2016年10月08日 07時08分59秒 | 季節と行事
毎年秋になると、黒い土の中からイヌサフランがニョキニョキと出てきます。写真は、今年の9月29日のものです。




これが10月3日になると



こんなふうに咲き出して、翌日の10月4日には



こんなふうに。

毎年のことですが、イメージとしては「ニョキニョキパッ!」という感じです。カエルやアホ猫が登場(*1,2)しなくても(^o^)、実に不思議な花です。

(*1):猫に小判、蛙にサフラン~「電網郊外散歩道」2010年10月
(*2):イヌサフランはあるのに、どうしてネコサフランはないの?~「電網郊外散歩道」2014年9月

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新型デミオ・ディーゼルXDの近況

2016年10月07日 06時02分34秒 | 散歩外出ドライブ
新型マツダ・デミオXDディーゼルの近況です。9月の燃料消費率は、平均値で 22.8km/L でした。夏場のエアコン使用が一段落し、通常走行になったために、燃費が改善されたようです。

これに対して、燃料消費率の面からではなく、運転のしやすさ、疲労感、走行安定性などの面からみるとき、こんなふうになります。

  • 制限速度が70~80km/h程度の自動車専用道路や、高速道路でも走行車線での100km/h程度の走行では実に安定感のある走りで、動力性能の点でも充分なものですが、高速道路の追越車線で後方からぶっ飛ばしてくる車にあおられるような状況では運転にも緊張感があり、一言で言えば疲れます。
  • 郊外の一般道を淡々と走り、ときどき自動車専用道路を利用するような利用のしかたの場合、デミオ・ディーゼルXDは実に安心して走ることができ、満足できるものです。


一般道と高速道を併用するような長距離で、あまり追越車線を走らないような運転の場合は、燃料消費率は 29~30km/L くらいの値を示します。

これに対して、燃料消費など気にせず、高速道路の追越車線で他の車に対抗しつつ長距離を走り抜けるような走り方には、もっと車格が上の、大きめの車が向いていると言えます。当然のことですが、あらためて再確認です。

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アイアランド「幻想三重奏曲」を聴く

2016年10月06日 06時02分52秒 | -室内楽
ずっと通勤の音楽で聴いていた、アイアランドのピアノ三重奏曲集のCDを、ようやく自宅で聴きました。まだ暗い夜明け頃、グールド・トリオの演奏を簡易なPC-audioを経由してヘッドホンで聴くとき、ロードノイズに隠れがちな弱音部もずっとよく聴くことができます。



ジョン・アイアランド(1879-1962,*1)はイギリスの作曲家で、これまでもピアノ協奏曲を取り上げたことがあります(*2)。CDの冒頭に置かれた「幻想三重奏曲」は "Phantasie Trio in A minor(1908)" のことで、「ピアノ三重奏曲第1番」と明記されてはいませんが、それに相当するようです。作曲されたのは、Walter Willson Cobett という実業家が主催した室内楽作品のコンペティションがきっかけのようで、このへんの事情は、CD添付のリーフレットによれば、こんなふうだそうです。

The first competition, in 1905, was for string quartet and attracted 67 entries. It was won by Hurlstone, with Frank Bridge's Phantasie in F minor placed second. Frank Bridge, born the same year as Ireland, won the 1907 competition for piano trio, and Ireland's Phantasie in A minor was placed equal second with James Friskin's Phantasie, also in A minor. The Third competition was announced in 1909 and was for a sonata, not a Phantasie. It attracted 134 submissions, and the first prize was awarded to Ireland in 1910 for his Violin Sonata (no.1) in D minor.

ふむふむ、フランク・ブリッジの曲は何度か聴いたことがあります(*3)。彼らは全く同時代の人なのですね。アイアランドの「幻想三重奏曲」は、ピアノ・トリオを募集した年の同点二位にあたり、アイアランドが優勝したのは1910年のヴァイオリン・ソナタのようです。

YouTube に、この曲の動画がありました。
John Ireland - Phantasie Trio in A minor (1906)


(*1):ジョン・アイアランド~Wikipediaの解説
(*2):アイアランド「ピアノ協奏曲」を聴く~「電網郊外散歩道」2015年10月
(*3):ヤンネ舘野ヴァイオリン・リサイタルでモーツァルト、ガーシュイン、フランク等を聴く~「電網郊外散歩道」2014年4月

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宇佐江真理『通りゃんせ』を読む

2016年10月05日 06時01分05秒 | 読書
出張先で見つけた角川文庫で、宇佐江真理著『通りゃんせ』を読みました。
主人公・大森連は、スポーツ用品メーカーの社員として東京に転勤することとなり、交際相手と別れた失意と孤独を、休日のマウンテンバイク&アウトドア生活で紛らせています。そんなある日、甲州街道の旧道にある小仏峠で滝の水を汲んでいるときに地震に遭い、天明六年にタイムスリップしてしまいます。

助けてくれたのは、青畑村の時次郎とさなの兄妹でした。時次郎は青畑村の領主である旗本の松平伝八郎の命により、青畑村に配された間者の役割を負っており、連を従弟として養ってくれるのですが、天明の大飢饉が迫る不順な天候のせいで、百姓たちの動きも不穏です。庄屋の家が襲われ、庄屋が殺されるという事件が起こり、身元を疑われた連は時次郎の計らいで江戸の領主家の中間として住み込むこととなります。それでも天明の大飢饉はじわじわと百姓たちを襲い、青畑村も無事では済みませんでした。



タイムスリップ小説にはいろいろなパターンがありますが、本作は何の力もない現代の若者が地震をきっかけに天明の大飢饉の時代に投げ込まれる話です。女性作家らしい、なるほどという展開でした。個人的には、冷害に強い稲の品種の話だとか深水などの栽培技術による対策だとか、人智をしぼって対応してみてもかなわない気象災害の冷酷さを描いてほしいという思いもありますが、それは農業の経験のない作家には無理なことなのでしょう。さなさんとのご縁は、ちょいといい話でした。

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TWSBIダイヤモンド580ALラヴァーに若い人たちの視線が集まる

2016年10月04日 06時02分02秒 | 手帳文具書斎
過日、若い人たちの中でツイスビー(TWSBI)の万年筆ダイヤモンド580ALラヴァーを使う場面がありました。オレンジ色のアクセントカラーが鮮やかな透明軸が彼らの注意をひいたらしく、とくに若い女性が興味を示しました。

ツイスビーという台湾のメーカーの製品であること、吸入式でいろいろな色のインクが使えること、などを話したところ、たいへん盛り上がっていました。秋田の「とみや文具店」が代理店になっていて、通販で購入したことを説明したら、「お値段は?」と訊かれましたので、税込で8,640円と答えたら、「買えない~」と言われてしまいました(^o^)/

たしかに、万年筆になじみの薄い若い人たちには、3,000円のボールペンさえも高級品です。8,000円を超える値段の筆記具は、ちょいとハードルが高いのでしょう。その意味では、プレッピーやカクノなどの廉価万年筆は、体験入門用としてちょうど良い役割を果たしてくれるものなのかもしれません。

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最近の記事に写真を入れながら、ある独居老人の葬儀に思う

2016年10月03日 06時03分25秒 | Weblog
このところ、なぜかまとまった時間が少なく、なんとか記事を更新できたものの、関連する写真を入れることができませんでした。その都度、愛用のデジタルカメラで撮影してはいたのですが、リサイズしてシャドウ処理して、記事の中に取り込む…時間がなかった(^o^;)>
仕方がないので、割り切って記事だけ先行し、あとから写真を入れることにしました。逆はちょいと難しいようですので(^o^)/
結果的にはまとめて5日分の写真を入れただけですが、5日も写真のない記事が続いたのは、近年にはない珍事でしょうか。



先日、近所の独居老人の葬儀に参列して来ました。最後は、遠隔地に住む息子さんのところに引き取られたものの、進行したガンが見つかり、家に帰りたいと言いながら亡くなったとか。遺体となって帰宅しても、葬儀には近所の人たちがおおぜい参列しておりました。施設の収容人数に比べて老人の人数の方がはるかに多いうえに、徘徊などなかなか難しい点はありますが、もし可能な条件があるならば、独居老人はご近所との交際の中で最後を迎えた方が良いのではないかと思ってしまいます。老木は移植できないように、今の時代、親を引き取らないのは親不孝だなどと言う人はあまりいませんから。

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霞城公園の秋~県立博物館で「寶幢寺至宝展」を観る

2016年10月02日 06時03分30秒 | 散歩外出ドライブ
週末に、山形市の霞城公園を散歩して来ました。銀杏の樹はまだまだ緑色です。広葉樹も一部に黄色い葉がちらほら見える程度で、紅葉にはまだ早いようです。でも、気温は暑くもなく寒くもなくちょうど良いくらいです。



山形市郷土館「済生館」が移築後の周年記念展をやっていました。県立博物館も、プライム企画展ということで、「寶幢寺至宝展~よみがえる古の大寺院」を開催中(*1)でした。



出羽国寶幢寺(ほうどうじ)というのは、まだWikipediaにも記述がないようですが、明治の廃仏毀釈で廃寺になってしまった、中世から近世にかけての山形の真言宗の大寺院だったそうで、最後の住職であった佐伯菅雄資料と共に、ご遺族から寄贈された旧蔵の宝物と同時代資料を集めたもののようです。学芸員の説明を脇で聞きながら拝見して来ましたが、なかなか見応えのある展示となっていました。
一部の展示替えを予定しているそうで、10月18日からはかつての寶幢寺の仏像も展示されるそうです。



最上義光の時代には石高1300石を越えたという寶幢寺があった場所は、現在のもみじ公園のところだそうで、護国神社の近くにある薬師堂はもとの寶幢寺の建物を移築したのだとか。かつての大伽藍を惜しみ、あちこちに寺宝を移して可能な限り残そうとしたのではないかと想像しています。堺市博物館に所蔵された「南蛮屏風」(*2)も、寶幢寺旧蔵品だそうで、おそらくは廃寺にともなって流出してしまったものなのでしょう。末寺も多く、寺侍もいたでしょうから、今で言えば大企業の廃業のようなもので、再就職先や退職金のような形で、処分し分配せざるをえなかった事情があったのではないかと思われます。

(*1):寶幢寺至宝展~山形県立博物館
(*2):堺市博物館館蔵品紹介拡大画像~ページをスクロールした中ほどにある「南蛮屏風」がそれ

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