「みえるわ」が観る価値があるのかどうか、ネットで批評を確認していたら、批評らしきサイトが少しあった。中味に深くコミットしていないので、詩篇を身体表出することがどのような形になるのかちょっと曖昧でー、ラップを見た感じの評もあり、つまり印象としては「少女」なんだと感じた。扇田さんのインタビューによる演出家のコメントを見ると、やはり「少女」であり、「Cocoon」もひめゆりの少女たちだった。Cocoonは研究棟に籠もっていた時期で芸能担当者の記事を読んだだけで結局観に行かなかった。
Cocoonが演出賞・受賞に至らなかったことが分ったが、なぜかというところに関心がいく。
平田オリザの現代口語演劇以降の新しい世代を指して「ゼロ年代」と呼んでいるのらしい。2000年以降に台頭した演劇人のことである。21世紀がゼロ年代である。21世紀が仕切りなおしと言えるだろうか?個人的には2001年の9・11のインパクトが今でも尾を引いている。沖縄では戦後ゼロ年が続いている。実質的(リアリティ)として戦後ゼロ年である。
演劇人の動向・傾向をゼロ年代と呼ぶことにどことなく安易さを感じる。
藤田貴大の演劇世界は「『ハロースクールバイバイ』(2010)、『塩降る世界。』(2011)、『Kと真夜中のほとりで』(2011)をとおして、多感な少女たちの記念写真のような心象風景=記憶をアングルを変えた反復(リフレイン)と独特な身体表現によって甦らせ(リジェネレート)、新境地を開拓した。変化を続ける」ということは分った。
創作過程が映画のようにシーンを幾つも作って重ねたり編集したりして構成するということは興味深い。戦前の口立て芝居の手法に映画の編集技法が加味されているようなイメージがする。イメージとしての演劇である。いろいろな評を見て、観るかどうか、まだ躊躇している。詩人で作家の川上末映子にも関心はあるが、詩集は読めるしね。
http://www.performingarts.jp/J/art_interview/1111/1.html 〈国際交流基金 The Japan Foundation)
漫画の脚本化〈演劇)や小説からの脚本化〈演劇)、民謡からの芝居もある。翻案はいろいろあっていい。最近は映画からミュージカルへもあり、ゲームから演劇もある。多様な舞台物語のコアやパターンがあっていい。問題は好みかもしれない。パフォーミングアーティスト、映像作家の作品と劇作家や舞台作品との境界も曖昧になっている時代なのか。
美術館に行ったら動画作品が並んでいるデンマークの美術館に驚いたのは10年も前だ。詩集も物語に違いない。それをどう身体で表出するか、音楽と照明、衣裳も目玉のようだ。
https://www.oricon.co.jp/news/2051394/full/ (以下に一部転載です!)
人気漫画家・今日マチ子の同名作品を原作に、脚本・演出家の藤田貴大によって舞台化された本作は、象徴的なシーンを執拗に繰り返す“リフレイン”と呼ばれる手法により、否応なしに戦争に巻き込まれた若き女学生たちの悔しさ、怒り、嘆きをダイレクトに客席に突き付け、巨匠・蜷川幸雄氏に“打ちのめされた”“ライバルだ”と言わせしめるなど、その圧倒的な強度で各方面より21世紀最高の舞台との激賞を受けた舞台だ。