猫の日に、猫たちの自由な環境がそうでもないことに頭を悩まさざるを得ない事が起こった。地域猫運動が闊達なのはいいのだが、家猫の場合はどうなのだろう。猫との縁は公園の猫たちがきっかけだったが、猫を飼ったのは2年前。思いがけなく野良猫が我が家にやってきてからだが~。
犬好きと猫好きにペットは分かれるのだろか。以前は琉球犬の雑種を飼っていたが、猫は念頭になかった。
猫たちとのコロナ禍での暮らしは、癒やしになり、成長が楽しみでいっしょに生活してきた。しかし、家の中で飼えが基本路線である。家の中と庭、その周辺を自由に行き来していたのだが、猫嫌いな近隣の人々もいる。
友人はマンションで猫を飼っていたが、実家に引っ越してからは、庭で猫と犬を飼っている。猫と犬を小さい頃から飼っていたゆえに、手慣れて見える。
家の中は古い住宅で結構広くベランダもあるので、家の中で飼うことは可能だが、この間自由に空気を吸っていた猫たちに窒息感が起こるのではと危惧している。猫のために田舎に引っ越し、のびのびと生活するのも可能かもしれない、などと思ったりする。しかし沖縄はどこでも金属音の戦闘機の音にさらされる環境。基地が集中しているところは特に~。那覇市はまだ良い方だ。
基地(や戦闘機)の被害が少ないところで、自由な空気を吸っていると感じる場所はどこだろう。どこにもないのかな~?
猫の幸せとは何だろう。住む家と食べ物と飼い主の愛情だろうか。
近隣迷惑にならない飼い方が、家の中に閉じ込めろ、では可哀想に思えるのだが、庭の周囲をすべてネットで囲んでも猫たちは流体の身体なので、すぐ通り抜けるに違いない。さてどうしょう?
法的な問題でサイト検索をすると古来、放し飼いだった猫ゆえに、強制的な家の中で飼え、はゆるいようだ。地域猫運動があるのはその辺の緩やかさがあるのだろう。しかし住宅密集が増えて、地域のコンセンサスがなければ、それぞれの利害で人は動いているので、厳しいところがある。
猫の鳴き声がうるさいというクレームは子供の鳴き声がうるさい、になってしまうのかもしれない。実際猫以上に耳障りな事もある。
悩みが増えた!
昨日、猫を30匹も飼っていたことがある女優さんのお話をうかがった。20年前のことで、当時はまだ牧歌的だったのかもしれない。那覇で飼っていたのだ。繁華街で交通事故もなかったという。
猫の話はつきない。猫を飼っている家庭は意外と多いようだ。
猫にとっての自然と自由と幸せとは?避妊去勢もそれがいことだという事と否、自然を殺しているという思いもあり続ける。
世界の人口が70億、80億になり、人口過剰が問題視され、老人は老害として集団切腹しろのキャッチコピー、優生学的志向もメディアが煽っている現在だ。ペットどころか人間も生産性で優劣の判断がなされ、老人に対する敬意の念も薄れつつある昨今である。合理性と利潤を追求する資本主義の先にはAIが社会の中軸になっているようだ。ペットAIも誕生するのだろう。
生身の生き物、動物たちも間引きされていくのだろうか。家の庭にやってきた子猫について那覇市などに電話したら餌をあげるな、だった。野良猫たちは市民の愛情で毎日食べ物がもらえるが、ゆとりのない社会では猫も被害を受ける。戦争がその事例だが、人間の大災害は動物たちの災害でもある。
いずれにしても我が家の猫たちを守らなければならない。