志情(しなさき)の海へ

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「人形に会える日」桜阪最終日、見てきました!感想は、んんん、厳しい批評はある程度同感!

2016-06-11 18:39:25 | 映画

Sさんの批評はその通りだとの印象でしたが、高校生が書いたシナリオで、高校生が中心の配役で、中心に演じた彼らがとてもいい等身大の高校生を演じていて、そこは好ましかったです。

迫ってきたのは引き篭もっていて夜中に叫びうなされるりょうたや自ら人身御供(犠牲)になっていくユメの爆撃の騒音に苦しむ姿ですね。

しかしSさんが書いているのですが、架空の村辺野座が自ら犠牲を常に神に供して自らの島の安寧を図ってきたという歴史が仮想・ファンタジーで、外部から犠牲(にえ)にさせられるのではなく、自ら犠牲(にえ)を供するという構図は、やはり、脚本の稚拙さが、特に大人たちの描写に、んんんんでミステリータッチの、怪奇趣味にも見え、普天間から辺野古(辺野座)への移動も容易で、生贄をのがれたコッコの登場も不自然で、つまり漫画的な戯画化はお笑い役者を登場させる時点で、決まってしまっているような、ところは、んんん、若者受けする、エンターテイメントだけどー、苦しむ二人の重さが残ったのは良かったです。

生贄=英雄だと川満先生がにたにた笑うところも気味悪かったし、マジメな高校生の苦しみや痛みの対極が、Sさんが書いたように確かに『惨い』映画です。

3回目を見るとメールを下さったSさんは途中から帰られたようですが、『人類館』のCDを受け取りながら氏の映画論はうかがいたいと思います。正直、図書館にこもっていた方が良くて、見る必要があったか、は、ちょっと時間はもったいない気もしました。ただ苦しむ若者たちのインパクトだけはとても良かったと思います。映像のもつイメージの力の大きさがありますね。

この映画の真逆が上映されている『辺野古』圧殺の海 第2章 ですね。仲村君はこのドキュメントからもっと想像力を膨らまさないとね。若さのもつ凄さがすぐ花のように枯れてしまうこともありえるのだから、芸術の力は何が真実か、の追求に他ならないといえます。究極的な真・善・美の追求は基本的なスタンスだといえます。もちろん、その逆の嘘≪偽り≫、悪、醜も同時にあぶりだされていきます。

それより魂乞い=魂呼び=魂恋ふ=相聞歌に関心があります。りょたとゆめの魂乞い=恋は未来の夢・希望か、そこはぼけていてもいいと思ったのですがー。愛と恋を求めていく社会に戦争は似合いませんし、基地も→戦争、犯罪(レイプ・殺害)に行き着きますしね。彼や彼女を自分と同じように皆が愛していけば、大量殺戮も起こりえないはずです。政治家も芸術家も理想を美を追求しないと未来は無になりますよね。すでに人類史はむごたらしいです。むごたらしい怖さをまさにホラーを現実の問題の焦点を浮き彫りにする手法としてはいいのだろうか?ちょっとやはり漫画的なイメージです。怖さの正体、世界の構造、社会の構造、心の闇と光など、人の奥深さ、関係の優しさとむつかしさと機械のような冷たさ、んんん、何度も生きられない人間である宿命と限界の中で、新しい切り口や視点を出せるか、それは想像力が問われるのでしょう。

余談ですが、日本にチョムスキーのような知性がいないことは悲しい現実かもしれませんね。日本に彼に匹敵する知性はどなたがいるのでしょうか?

Sさま!若い仲村君が辺野古移設賛成ではありえませんね。悩んでいてもそこに行き着くのは芸術ではありません。仲村君が苦しむ、叫ぶ、引きこもる、自ら生贄になるユメに重なるのであれば、彼は可能性を持っていることになりますね。感想です。

コッコの冒頭のウチナーグチはいいと思いました。ウチナーヤマトグチは面白いですね。んんん、苦しむ二人の「魂乞う高校生の男女」とウチナーグチ、ウチナークレオール言語が良かったです。

 

 

 

 


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