小池昌代さんの詩で良かったのは「獣たち」と「階段の途中」あとがきにかえて、である。他はしおりにも書いているように技法の詩人だという事がわかる。つまり感銘を受けなかった。時間の重層性を意識した詩編は面白いとは思ったが、隙間を切り取り、重ねているような手法なのか、彼女の詩についての詩論など読んだことがないので~。ああ、もう一冊読んだ記憶は残っている。確か学校のプールで死んだ子供についてだったか~。日常の些細な出来事が異風な空気を帯びる、幽鬼じみた時空の感覚は起こるが~。
小林秀雄が書いている「人間になりつつある動物かな」が生きている私たちだとすると、すでに生きていて死者でもありえる私たちは幾層もの時間や記憶の束の中にいると言えるのは事実だ。「獣たち」はまさに動物・獣としての人間の無情な感性を描いている。他者の死を笑って受け止める人間たちを描いている。ニヒルな感性だが、世間はそんなものの不気味さなり非情さが短い詩にまとめられている。
そして八重洋一郎さんの取り寄せた『日毒』をめくる。よくよく見ると「叙事詩集」とある。沖縄の現在と過去の歴史が浮き上がるゆえに、どうしても心臓が高鳴る。その点、『永遠にこないバス』の詩語は技法の面白さと意外性があるが、ことば、修辞の詩だということが分かってくる。これが20世紀末の日本の現代詩だ。多くの詩集が出版されているので、この詩集が時代の空気とも言えないのだろうけれど~。
参考になった。時間や記憶の描き方。
さて『日毒』は告発の叙事詩でもある。心臓にずしりとくる詩だ。国家なりこの世界の仕組みのありよう、権力の悪意、恣意の元に弱者を贄にするシステムが貫かれているこの世界というとほうもない実在へ、桐を差し込む怒りが伝わってくる。目に見える見えない歴史に切り込んでいく、それは現在形の沖縄のうめきであり叫びを象徴している詩集に思える。
「日毒」という鋭い二語の持つインパクトに揺れる日本の詩人たちがいる。
日本が毒をまき散らすというわけではない。日本の一般大衆が毒虫のように描かれているわけではない。あくまで日本の国家権力を「毒」として描いている。国家=暴力装置とする認識は新しくはない。パックスアメリカーナ=米毒かもしれない。日毒、琉毒、米毒、中華毒と続くのだろうか。国家悪があり民主主義制度がある。透明な民主主義という全体主義や独裁もありえる。
この『日毒』は日本史の政治構造の闇を、戦後レジームの陥穽を突いている。公文書に「日毒」が登場するのか、琉球史研究者の見解が待たれる。
日本の一般大衆は「日毒」の二語を見てどう受け取るのだろうか。
続く。