志情(しなさき)の海へ

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太宰の【人間失格】を片手に死んだ人がいて、ブームになったんだろう?そのように17歳が言った。

2011-02-25 23:32:44 | 心の劇場
「おれね、太宰の「人間失格」を二回読んだんだよ。あれを読むとね、太宰が主人公で実際にリストカットしながら苦しんでいる人間を見ている感じがするんだよね。そしてあの小説を読んだら、死にたくなるね」と17歳が言った。

「地べたをのたうちまわる人間を見ている感じなんだよね!」

「太宰は生きるために書かざるを得なかったんでしょう?「斜陽」もそうで、滅びを身に魂にまとっていたような人よね。わたしたちが話していたあの吸血鬼を自ら成敗するために書いて死んだのかもしれないね。生きる罪悪感との闘いの形かもーー。」

17歳のことばはもっと真剣なものに聞えていて、落ち込んでいる人間にどうことばを繰り出せばいいのかわからないままに、率直に君が落ち込んでいたとして、どんなことばをかけてあげたらいいのか、わからないのよね。「諦めずに頑張ろう。継続は力なり」でもないし、どんなに頑張っても、どんなにXXXより自分の方が実力もインパクトもあると思っていても、システムに乗れなかったりするし、親の七光はあるし、兄弟光もあるようで、なんか嫌味な汚らしい関係性は一杯あってね。

おれ人を殺したいと思ったことはあるよ。

わたしもあるなー。意外と人は殺せるんだろうね。相手が憎らしく思ったら、殺せるんだろうね。
おそらく自分の存在が正当に評価されていないと感じる時や、生活のぎりぎりの所で生きている人間のプライドが壊される時や、その他諸々、DVやパワハラも含め、そうだ、尊厳なんだよね。それが破壊される、犯されると感じた時人は殺意を抱くののかもーー。若い頃コリン・ウイルソンの【アウトサイダー】など読んでいたけど、その後彼は殺人者についての本を書いたんだよね。それも昔読んだけどーー。まだ文庫本があると思うよ。

目取真俊の【希望】という小説についてあれこれ批評があるけれど、あくまでフィクションとしての小説だけど、作品の中で人を殺すのは容易にできる、という事よりも子供だから赤子だから殺すということが人道に反する、という文芸批評はアタラないね。
人は殺意を抱くとき、相手が子供だろうと大人だろうと、赤子だろうと、殺す行為は同じだろうね。ユーゴスラビアで戦争が起こった時、【タイム】にいいエッセイがあって、どちらの陣営も相手側が無垢の子供を殺したという物語の原型的パターンの神話構造を持ち出して、相手の批判中傷、自らの殺戮行為の正当化に使っていたことを思い出したのだけれど、子供をどう捉えるか、もっと考えてみる必要があるね。例えば沖縄の「組踊」でも仇討物が大半なんだけど、主人公だけ追っていったら美談に見えるけど、実際は敵方の女・子供を殺害しているのよね。見えなくしているけれど、行為の残虐性は変わらない。その辺を想像していったいどこに美や倫理の規範があるのか、裏を見る必要があるよね。自らをどこに置くのかによっても変わるしね。

スターリンや毛沢東だけではなく、ヒットラーもそうだったけど、権力の中心に上り詰めた人は敵対する者たちをあっさり殺せたのよね。人は相手を恨むと結構簡単に殺せるものかもしれないね。権力にしがみついて大勢の国民を殺して憚らないカダーフィーのような人間もいる。国家としては、どんなリーダーを選びどんな民主主義システムを作り出せるか、常に問われているね。日本はどうかな?「まだ軍が自衛隊が一般国民に銃を向けるわけではないからいいのかも、でもね、分からない----」

ああ、十数人殺して自分も殺した韓国人がいただろう。あれ相当快感があったはずだよね。人を殺せない人の方が多いのだから、殺す行為の快感は絶対あるね。ゲームでモンスターを殺しまくる時の陶酔感と同じかもーー。「じゃー、戦争はどうなの?」
「戦争状況は平和という戦争の局部的なものだからそのカオスを経験できるのは限られているーー」「でもあの韓国人の青年は自殺せざるをえなかった。多くの命を犠牲にしてーー、あれは傲慢そのものだよね」「やはり殺したいという欲望は起こっても殺してしまうと自分も死ぬのよね。人を殺さば穴二つの言い伝えもあるしね」「国家意志による大量殺人が是認されて、戦勝国が負けた国の人間を奴隷にしたり蹂躙したり、犯罪人扱いをしたり、一方で市民社会では人を殺せば犯罪人でね、言い古されていると思うけど、矛盾だらけだよね」

そういえば悲劇の主人公たちは凄い犯罪者に似ているね。ある境界を超えるのよ。境界を超える。規範を超えるから悲劇の結末になるんだけど、君が言うように他の多くの人たちができない事をやれるのよーー。つまり可能性そのもので、ある域を超える快感・慧眼・心の浄化があって、そして次の認識に至るのよね。普通の人間が分からない、理解できない体験・経験の飛翔があるのかもね!

越えられない領域を超えることができたら幸せかもしれない。ただ超えるか否かの決断が必要で、結果に関してもーー。進むも引き下がるも地獄だったりしてね!

すでになされた対話を記憶して書き留めることは意外と難しい。やはり創作になってしまう。それを思うと、私小説はすでに書かれた時点で私小説ではなくなるのだと分かる。一分一秒が過去になっていくわけで、時間の大河の中で全てが流れていく。昨日の記憶もすぐ失われる。その河の中でキラリと光るものを掬い取るより他にない。

東京で一応課題テーマのジュリの表象を追いかけているので小説で読んだ[テンペスト]の舞台を見て他の資料収集をする予定だが、そこで池上永一が芸術なんてと言いきって、小説は読まれて価値があるなんて言っているね、の話もしたのだった。

それでいいんじゃないの?割り切っているよね。でも大衆に迎合して読まれるからそれが優れた作品という事にもならないしね。
わたしも写真と散文詩集を出そうかな。「---------------?」

17歳が「やっぱりそこらへんの新しい小説より芥川龍之介の小説がはるかにいいよ」と言い切った。
いろいろ話していて、科学技術が世界の神になった現在だけどギリシャ時代から現代にいたるまで人間の属性はあまり変わらないね、で意見が一致した。

<写真はキャンパスの雑草>

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