![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/3b/539604364facaa1e645f0f2e670dba93.jpg)
(鈴木雅恵先生はさすが、鋭い指摘をしてこられた。シンポでは映像を十分お見せできなかった!)
先日「劇場と社会」のシンポジウムに参加した鈴木雅恵先生はお能をたしなんで
いる方ですが、メールで以下のようなことを書いてきました。≪一部ご紹介≫
≪狩俣先生が女性は「能楽師の資格があっても、女性は国立には出てなくて、民間
でやってるだけでしょ」とおっしゃったのが気になって(「そんなことはない」
と言いたかったのですが、その場にそういうデータを持ってなくて)調べなおし
たのですが、能楽では、長く女人禁止の時代はあったけれど、1997年には
「女性能楽者の夕べ」という企画公演が行われ、その後も各流派の主要な能楽堂
で、女性のシテ(主役)の能がおこなわれ、2004年には22人の女性能楽師
が重要無形文化財総合指定保持者に認定されています。≫
沖縄は今組踊の復元、御冠船時代の組踊の様式を再現せんと頑張っていて、一方で
新作に果敢に挑戦しているわけですが、新作も両極に分かれてきましたね。
男だけの組踊で三間四方の劇的空間で御冠船時代の仮設舞台でやる組踊の古典化
があり、それにのっとって三間四方の空間で古典化した様式を生かす方向性≪最も
今回シンポジウムで問題にした四間四方で今やられていますけど≫と
大胆にこれまでに沖縄の芸能史に照らして弁証法の統合のように、組踊、沖縄芝居、現代演劇
を盛り込んだ新作で女性も登場させます。花道も含め、照明、音響効果をフンダンに使う
総合的なものーー。8886のリズムと詞章、すり足や古典化した組踊が踏襲してきた
身体所作を取り入れます。かつ芝居の様式、つらねや歌(歌唱)も入れます。
幸喜芸術監督は「道半ば」とおっしゃいました。また現代の組踊を担っている若者たちが
優れた女性舞踊家のみなさんに育てられてきた、とも。
女性の胎内から生まれる子供のようにーー。その女性舞踊家を全く排除する姿勢は
おそらく仇討物が多い伝統組踊を補強する役割を新作がまた担っているという事に
なるのだろうが、まさに過渡期なんですね!
私は両極化の傾向が一つに凝り固まるのを怖れます。嘉数さんたち若者が三間四方で
新しい作品を伝統形式にこだわりやる方向性もいいが、どうもそれだけでは面白くない
というのが感想。
大胆に総合芸術の面白さを歌劇を中心に組み直してほしいですね。「歌劇の方が面白い
でしょう」と友人の音楽教授が言い切ったのでした。女性も登場する面白い作品を!
歌ありつらねあり、唱えあり、ウチナーグチありで、「さかさま執心鐘入」は
張り出し舞台より、額縁舞台のあの大胆さが面白かったのです。そぎ落とされた舞台は
張り出し舞台に拘束され息苦しく、見ている方も矯正された感情に閉じ込められて
しまうようでした。
沖縄芸能の歴史を見ると、狩俣恵一先生がおっしゃったように、組踊の身体と沖縄芝居
の身体とは異なる、とはっきり言えるのか疑問も起こりました。戦前の名優たちは芝居
を主にして時々組踊を上演してきたのですよね。つまり近代の歴史は芝居が主体であっ
たのです。いきなり組踊の身体を中心にといっても基本は琉球舞踊があり、古典音楽が
あり、そして新しい感性に元づいた芸があったのでした。
それと琉球王府時代のいわば公務員のような芸が優れていたとは言い難いですね。琉球芸
能は近代以降、大衆の目にさらされて変質もしたが、磨かれていったのだと考えます。
そして古典組踊の母胎から新しい時代の感性の中、新派や歌舞伎を見て、壮士芝居も
見て、沖縄語の史劇や歌劇が誕生したのです。
その中で組踊が上演されていきました。村々の村芝居の中の組踊が意外と初期の形態を
保持しているのかもしれないですね。多良間の組踊など、その足使いからして初期の時代
を彷彿させるものではないのだろうか?
古典化の中で失われているもの、いくもの、現在の新作組踊は現在の感性・知性に
基づいた作風ですね。
女を排除した新作組踊をまた形式的であれ基準化していく方向性は否定したい!
沖縄芝居役者の他に辻のジュリの女性たちもまた沖縄芸能を担ってきたのあり、
彼女たちの生活・身体を通した芸の継承を割愛するようなことはどうだろう?
王府時代にも辻の女性たちは芸を嗜み、そこでお能から組踊から唱えられ
座敷芸ではあっても踏襲されてきた可能性は大です。
近代においても芝居役者と辻のジュリとの関係性の根は深いです。
芸能史のうわべだけをなぞって現代の新作組踊があるとするとどうも
その流れに声を上げたくなります。伝統形式なり古典化だけも見てもね
面白みはないです!
女性舞踊家のみなさんを組踊からも歌劇からも史劇からも締め出しては
いけません。また女性舞踊家のみなさんは独自にどんどん表現活動をして
ほしいですね。
もっとも芝居は「沖縄芝居実験劇場」と女だけの劇団「うない」が中心に
なっていく可能性が強そうです。その第三局があってもいいかもしれないのですが。
狩俣恵一先生は新作組踊ではなく別のネーミングでもいいね、と話していましたが
どんなネーミングが可能だろうか?
あれはもう組踊ではないという先生の思いがあるのだろうが、最近の形態は
伝統組踊化していますしね。総べて男たちでシンプルに、でも舞踊が多いです。
まぁ、議論が闊達であることは可能性があるという事なのだろう!
私は総合芸術としての沖縄芸能、演劇が面白い方向性に向かうことを念じて
います!しかしまさに過渡期の熱風が吹いているようです!
様式美ですか?
カオスの美はどこに見出されるのかな?
優れた芸術はやはりアポロ的なものとディオニソス的なものの統合にあると
思いますね。
先日「劇場と社会」のシンポジウムに参加した鈴木雅恵先生はお能をたしなんで
いる方ですが、メールで以下のようなことを書いてきました。≪一部ご紹介≫
≪狩俣先生が女性は「能楽師の資格があっても、女性は国立には出てなくて、民間
でやってるだけでしょ」とおっしゃったのが気になって(「そんなことはない」
と言いたかったのですが、その場にそういうデータを持ってなくて)調べなおし
たのですが、能楽では、長く女人禁止の時代はあったけれど、1997年には
「女性能楽者の夕べ」という企画公演が行われ、その後も各流派の主要な能楽堂
で、女性のシテ(主役)の能がおこなわれ、2004年には22人の女性能楽師
が重要無形文化財総合指定保持者に認定されています。≫
沖縄は今組踊の復元、御冠船時代の組踊の様式を再現せんと頑張っていて、一方で
新作に果敢に挑戦しているわけですが、新作も両極に分かれてきましたね。
男だけの組踊で三間四方の劇的空間で御冠船時代の仮設舞台でやる組踊の古典化
があり、それにのっとって三間四方の空間で古典化した様式を生かす方向性≪最も
今回シンポジウムで問題にした四間四方で今やられていますけど≫と
大胆にこれまでに沖縄の芸能史に照らして弁証法の統合のように、組踊、沖縄芝居、現代演劇
を盛り込んだ新作で女性も登場させます。花道も含め、照明、音響効果をフンダンに使う
総合的なものーー。8886のリズムと詞章、すり足や古典化した組踊が踏襲してきた
身体所作を取り入れます。かつ芝居の様式、つらねや歌(歌唱)も入れます。
幸喜芸術監督は「道半ば」とおっしゃいました。また現代の組踊を担っている若者たちが
優れた女性舞踊家のみなさんに育てられてきた、とも。
女性の胎内から生まれる子供のようにーー。その女性舞踊家を全く排除する姿勢は
おそらく仇討物が多い伝統組踊を補強する役割を新作がまた担っているという事に
なるのだろうが、まさに過渡期なんですね!
私は両極化の傾向が一つに凝り固まるのを怖れます。嘉数さんたち若者が三間四方で
新しい作品を伝統形式にこだわりやる方向性もいいが、どうもそれだけでは面白くない
というのが感想。
大胆に総合芸術の面白さを歌劇を中心に組み直してほしいですね。「歌劇の方が面白い
でしょう」と友人の音楽教授が言い切ったのでした。女性も登場する面白い作品を!
歌ありつらねあり、唱えあり、ウチナーグチありで、「さかさま執心鐘入」は
張り出し舞台より、額縁舞台のあの大胆さが面白かったのです。そぎ落とされた舞台は
張り出し舞台に拘束され息苦しく、見ている方も矯正された感情に閉じ込められて
しまうようでした。
沖縄芸能の歴史を見ると、狩俣恵一先生がおっしゃったように、組踊の身体と沖縄芝居
の身体とは異なる、とはっきり言えるのか疑問も起こりました。戦前の名優たちは芝居
を主にして時々組踊を上演してきたのですよね。つまり近代の歴史は芝居が主体であっ
たのです。いきなり組踊の身体を中心にといっても基本は琉球舞踊があり、古典音楽が
あり、そして新しい感性に元づいた芸があったのでした。
それと琉球王府時代のいわば公務員のような芸が優れていたとは言い難いですね。琉球芸
能は近代以降、大衆の目にさらされて変質もしたが、磨かれていったのだと考えます。
そして古典組踊の母胎から新しい時代の感性の中、新派や歌舞伎を見て、壮士芝居も
見て、沖縄語の史劇や歌劇が誕生したのです。
その中で組踊が上演されていきました。村々の村芝居の中の組踊が意外と初期の形態を
保持しているのかもしれないですね。多良間の組踊など、その足使いからして初期の時代
を彷彿させるものではないのだろうか?
古典化の中で失われているもの、いくもの、現在の新作組踊は現在の感性・知性に
基づいた作風ですね。
女を排除した新作組踊をまた形式的であれ基準化していく方向性は否定したい!
沖縄芝居役者の他に辻のジュリの女性たちもまた沖縄芸能を担ってきたのあり、
彼女たちの生活・身体を通した芸の継承を割愛するようなことはどうだろう?
王府時代にも辻の女性たちは芸を嗜み、そこでお能から組踊から唱えられ
座敷芸ではあっても踏襲されてきた可能性は大です。
近代においても芝居役者と辻のジュリとの関係性の根は深いです。
芸能史のうわべだけをなぞって現代の新作組踊があるとするとどうも
その流れに声を上げたくなります。伝統形式なり古典化だけも見てもね
面白みはないです!
女性舞踊家のみなさんを組踊からも歌劇からも史劇からも締め出しては
いけません。また女性舞踊家のみなさんは独自にどんどん表現活動をして
ほしいですね。
もっとも芝居は「沖縄芝居実験劇場」と女だけの劇団「うない」が中心に
なっていく可能性が強そうです。その第三局があってもいいかもしれないのですが。
狩俣恵一先生は新作組踊ではなく別のネーミングでもいいね、と話していましたが
どんなネーミングが可能だろうか?
あれはもう組踊ではないという先生の思いがあるのだろうが、最近の形態は
伝統組踊化していますしね。総べて男たちでシンプルに、でも舞踊が多いです。
まぁ、議論が闊達であることは可能性があるという事なのだろう!
私は総合芸術としての沖縄芸能、演劇が面白い方向性に向かうことを念じて
います!しかしまさに過渡期の熱風が吹いているようです!
様式美ですか?
カオスの美はどこに見出されるのかな?
優れた芸術はやはりアポロ的なものとディオニソス的なものの統合にあると
思いますね。