『パリ、テキサス』サム・シェパードのスクリプトが登場、断捨離はまだ続く!やれやれの日々!以前授業で使ったテキストが紙の山の中から出てきた。懐かしい思いがやってきて、翻訳付きの台詞を読んだ。Travisが何年かぶりに息子のWaltを連れてテキサスのとあるクラブにJane...
小田中章浩さんの『フィクションの中の記憶喪失』を読むと、パリ・テキサスの主人公Travisは実は記憶喪失に陥っていたと解説されていて、以前全くアイデンティティがはっきりしない状態で彷徨っている男の発見から始まったことを思いだした。トラバスはトレーラーハウスが火事になった後、すべての記憶を失い、ある日突然、発見され、戻ってきたのである。息子のところへ。そしてかつての家族を求める。美しいかつての妻を探し求める。彼女は遠くから息子のために仕送りを続けていたのである。それを頼りにテキサスに父と息子は母を訪ねて旅に出る。
ジェーンは男たちの目に晒されながら彼らの対話の相手をする風俗の世界で生きていた。多くの男たちの言葉に出合っていた。見られながら対話する。対話の相手の姿は見えない。一方的な対話のオブジェクト=女を演じてきた。生きるためにー。ヒューストンの場末覗き小屋。小田中さんが凄いのはこう書いている。「客は電話を使って女性と話すことができるが、女性の側から男の姿は見えない。暗闇の中の小さな窓から自分の欲望の対象を凝視するというこの奇妙な仕掛け(言う間でもなくそれは映画の比喩となっている)の中でトラヴィスは女性に対してある喩え話をする。それはかつて一人の男がどれほど深く一人の女性を愛したかという物語である。~この作品においても失われた記憶は(らしきもの)は虚構そのものが表現されているのとは別のメディア(媒体)によって提示=再現される」~引用終わり。記憶喪失に陥った男と女の過去が独特な哀愁メロディーで強烈にインプットされていく。人の悲しさのメロディー、は母と息子の再会に明るい光がさしている。男はまた行方をくらます。
痛みを引きずって人はまた生きていく。愛の妄執の中で妻を閉じ込めてしまった。対幻想の行きつく果ては常に一緒の空間の中で破たんしていったような記憶が残っている。個の孤独を身体に押し込め、人はまた生きていく。満たされないもの、満たされるもの、虚を埋めるもの、は何だろうか?
端正な(ハンサムな)叔父は高校長で退職したが、彼は幸せだったのだろうか?同じ教員の彼の妻は美しい女性だったが、お二人とも幸せそうに見えなかった。直感だがー。彼女の表情の暗さに不幸せの三字をイメージしただけなのかもしれない。にこやかさのない家族の影が気になっていた。二人でいて幸せに感じない結婚はピリオドを打った方がいい。ピリオドを打てない決断力の無さは、リヴェンジされる。いつでも(陳腐で単純な表現だが)素敵なウチナーウィキガを求めている心のありかー、永遠の眠りの日までー。いいウチナーウィキガのお一人は大城立裕先生かな?ウチナーンチュの魂と気骨、気概を持ち続けている方々!創造的な面々!なぜかスポーツ系にはそれほど美を感じない。イマージネーション(表象)の美に惹かれたままなのかもしれない。