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以前授業で使ったテキストが紙の山の中から出てきた。懐かしい思いがやってきて、翻訳付きの台詞を読んだ。Travisが何年かぶりに息子のWaltを連れてテキサスのとあるクラブにJaneを尋ねる。母と息子は再会する。そしてJaneを愛しすぎたTravisはまた姿をくらます。愛して愛を貫けない男女の関係の悲しみが胸打つドラマである。
Sam Shepardの戯曲やスクリーン台本のテーマは家族であり、個々の愛や意志に反して関係の彩が残酷な様相を呈していく家族をこれでもかと描いていく。男女の愛の地獄であり、家族の隠された秘話であり、それでも生きていかざるをえない人間の背負う闇と光、と書いていくと、いかにそう書くことが陳腐かと思う。
愛するがゆえに執着し、愛するがゆえに相手を縛る。愛するがゆえに妄想の中に入る。愛するがゆえに暴力を振るう。愛するがゆえに逃げる。愛の執着、関係性のバランスを保てなくなったとき、人は逃げ出したくなる。愛していたのにうまくいかない関係の綾がある。逃げた男と逃げた女と子供がいた。トレーラーハウスは燃え、家族は崩壊した。崩壊した家族の修復の旅が始まる。
かつてあった家族の絆が断たれて修復が不可能になった時、人はどう動くのだろうか?元妻を殺す夫はいつでもニュースになりつづける。元の恋人を殺す男も絶えない。女が元夫や元恋人を殺すニユースはほとんどない。なぜだろうか?女性は男性ほど愛の執着がないからだろうか?愛していないからなのか?女の殺傷事件は多くはないのだ。女は諦めるのかもしれない。あるいは所有の断ち切れない欲望の糸につながれているのは男たちかもしれないね。つまり、男たちは弱いのである。一端手に入れた愛=存在を失うことに耐えられない精神の弱さをもっている男たちが大勢いる、ということなのだろうか?自立しえない精神の弱さなのか、それとも2000年以上男性のDNAに刻まれてきた主体的行為者としてインプットされた欲望がなせる技なのだろうか?所有者としての異性への愛(依存)ゆえの歪んだ愛ゆえか、主体であることの厳しさ故なのかもしれない。執着した相手を殺す行為にさえ及ぶ男のエゴーは破滅願望との心中でもある。~孤独に耐え得ない男たちが殺害に及ぶのかもしれない。犯罪を専門的に調べているわけではないので、印象だけのことばをつらつら並べている。映像は音楽がいいと思った。人間の底知れない孤独、関係の底冷えのする寒さを背中で描いている男の姿があったようなー。記憶が曖昧である。
一個の存在が一個の存在を愛し家族を育んでいく。互いに良かれと思って家族になり性愛を求める。しかし、その絆の破綻はどこにも転がっている。互いに互いを尊重し、信頼し、未来を夢見ることができなくなった時、一緒にいることが苦痛になり不快になり争いの場になるとき、人は共にいる空間が耐えられなくなる。そして別れる。しかし別れてもその愛(絆、縁、執着)に囚われる時、人は生きている間その囚われを生きざるをえないのかもしれない。
愛しすぎたがゆえに愛を貫くことができなかった男の悲しみそして女の悲しみが流れる『パリ、テキサス』である。映像を学生たちと一緒に見た。Jane役のNastassja Kinskiは美しいブロンドの女性である。セクシーで野性的なエロスも感じさせた。しかし母親の愛があふれていた。サム・シェパードは「Buried child」でもやはり家族を描いている。雨が降りしきる舞台である。家の裏庭の野菜畑でとれた野菜をステージに持ってくる息子がいる。裏庭に近親相姦で生まれた子供が埋められていた。
家族の絆、家族の地獄、家族の血なまぐさい関係の淵がこれでもか、と描かれる。ビンを投げつけ割る衝動がある。殺したい憎悪に鷲掴みにされながら家族の愛を求める。愛って何?家族って何?孤独と愛、人はそれぞれの地獄を隠しもって生きているようなそんな人生の凄まじさを見せられる。それでも愛を求め続ける人間の性があり、人間の果てしなさがある。