志情(しなさき)の海へ

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QABが報じた「でいご村から」は≪物語≫の筋を見せた!

2014-04-24 22:46:38 | 沖縄演劇

 隣の部屋のテレビから聞こえたきたことばに惹かれてみると、先日の「でいご村」からの演劇の報道で、気になった。「生きていればきっといい事がある」はとことん裏切られた。変わらない現実=沖縄、「生きていれば、きっといい事がある」と人は信じて生きている。そうでないかぎり、待つことは苦しい。赤い霊柩車が舞台にドカンとおかれ、担がれていく。グソー結婚が好きな作家と演出家かもしれない。「山のサバニ」でもグソー結婚があった。以前、アルゼンチン出身でハワイ大学院で博論に取り組んでいたフランセスが話していたことが忘れられない。「沖縄の女性たちは死後に幸せになるのね」と、彼女は真顔で言ったのだった。沖縄の組踊研究のためにスカーラシップを取って2年ほど滞在していた時のことである。グソー結婚で幸せになるのだろうか?なるのだねきっと。生きている間の愛であり、生きている間の幸せかもしれないのだが、生きている者たちの精神の心の安らぎの儀式としてのグソー結婚であり、盆行事なのだろうか?他界と現世はやはり繋がっている。繋がっているとの前提の上で成り立っている意識であり、信仰である。死者と生者は確かにつながっている。記憶がある限り、だけでもなく、関係性のあらゆる無意識・意識の層なり実態があるかぎり、繋がり続ける。

するとグソー結婚も成り立つことになるね。

「生きていればきっといい事がある」のではない現実は絶望が迫ってくる。明日はきっといい事があると、人は幻想を抱きつつ生きている。そうではないと、耐えられない。明日もまた地獄なら、生きる意味がなくなってしまう。純粋な思いをこれでもか、と打ちのめす現実があるが、それでもきっといい事があると、思いたい。この小説は暗すぎる。ある面、構造(筋立て)がやはりそのまま迫ってこない、というのが印象である。サヨを米兵に殺させる作家の意図は何だろう?踏みにじられる沖縄の象徴だろうか?梅吉は?病んでいた梅吉がコザの街で女性たちを食い物にして太っていく、という設定である。精神が病んでいたからこそ、そうして物理的に時代の波にのっていく人物なのだろうか?対立する人物像がある。

 


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