(『華風』の表紙に4人の主人公たちの写真が掲載されている。写真は正直だと思う。神谷さんの表情はいいね☆実は今、写真分析にのめりこみそうである。宮城さんの両目、表情は作りすぎで人工的な匂い、和佳子さんの表情の中の驕りはいいとしても、恋する女のせつなさが感じられない。東江さんの顎鬚がよくないね。本来美形の彼の女形をじっくり見たいと思った☆)
本番舞台を一回見ただけで批評を書くことは難しい。分析となると舞台映像をしっかり見ないといけない。感じたことを備忘録として記しておく。美しい新作組踊だった。伊野波節の石くびれの象徴する悲痛な別れ(愛する者たちの宿命的な決別)が物語の本筋にあり、禁断の愛(恋)を神人であるノロ(伊野波の守護神)と首里の里之子に据えた。二人の愛の行方を語る間の者は二人(カミジャー兄の宇座仁一とマチャー金城真次)、彼らの語りで京太郎が浮かび上がり、彼らが黒装束で隠密のような所作で里之子のノロ・チラーとの石くびれでの密会を遮る役目をする。そこは面白かった。京太郎への新しい視点の開示である。動きも面白かった、空手の手を見せた点など、この間ない表現である。「ままならぬ恋路 深く踏み迷て いつす忘れよが 里がすがた」の散山、「深山路の伊集の花 志情の露に いつす咲きゆが」仲風節、と聞かせる。興味を引いたのは「あだしこの浮世 まどろみゆる間の あはれ夏の夜の 夢どやため」(子持節)である。一瞬かの著名なシェイクスピアの「真夏の夜の夢」が頭をかすめた。そうか夏の夜の夢のごとき美しい幻想的な愛(恋)物語だったのだ。禁断の恋、しかし恋は実った。二人は真夏の夜に愛し合った、その思いで、幻想を抱いて生きていける。数年後のチラーが下手から出てノロの白装束、「伊野波の石くびれ無蔵つれてのぼる にやへも石くびれ 遠さはあらな」(伊野波節)で登場、静かに音曲に合わせて踊って上手に消える。里之子の面影を慕ってチラーは生きていける。幻想=愛は彼女の中にあり続ける。悲恋だが実は悲恋ではない。この世は夢の浮世、幻のごとく消え去る。組踊の詞章を見ると、露のごとき浮世が十二分に意識されている。それゆえに幻想や夢・志情が見えない結晶のようにきらりと光っている。
疑問は村遊びの男女それぞれ3人の遊び(踊り)の場面である。彼らは士族層なのか、と目を疑った。なぜそこだけ村の男女の芭蕉布の着物をつけた快活な村の息吹をノロのチラーと神山里之子と対照的に見せることができなかったのか?←演出はもっと考慮してほしい。あまりに古典組踊を意識するあまり、地の魅力まで削除してしまった。面白みがないね。
主役の神谷武史の男の魅力がひきつけた。「つらね」も心に迫った。宮城茂雄の女方(形)もしっとりとして良かった。横顔にもっと女の美を感じたい。色艶とも違う抑えた女の心が静かな所作、動きのリズムで感じさせた。間の者たちはいつでも観衆の人気の的だね。拍手も出た!
「平敷屋朝敏」~哀・愛しや~は、率直に申し上げると配役はもっと美男美女を求めている目がある。横顔の美が感じられない点が残念だった。東江さん、和佳子さんの魅力もいいが、小渡さんや佐辺さんの朝敏と女性では「首里城物語」の神女を演じた花岡尚子やうないのウナジャラ役佐和田香織さんが気品があると思える。演出は目をひきつけた。全曲オリジナルの古典創作も勝連繁雄さんの野心作である。風の精の冒頭と最後のナレーターとしての物語効果は、詩人勝連さんの朝敏の魂へのオマージュ≪鎮魂≫のような役割で、現在の視点から見ても存在のすべてがまるで詩編のような朝敏の実存そのものを描いて見せた。現代詩を風の精に体現させる作品そのものは詩人の感性であり、詩人朝敏への愛と悼みがあふれていた。演出が冴えていた。従来の新作組踊の演出にさらに踏み込んだ抽象性は批判されやすい音響や照明効果をうまく取り入れていた、処刑の場面など、磔された朝敏が胸をえぐるような鮮烈さだった。槍の振り向け方それで表象するのは幸喜ならではの美意識だ。また国賊、世間を迷わす罪人として、いわれもない権力側の攻撃を稲光と短い詞章で表示するありようなど、驚く手法だった。死が舞台で表出されることがない古典組踊の約束事が逆照射された形で、背中を見せる朝敏の縄で縛られた白装束を二人の役人が槍でクロスさせ殺す場面、んん、鮮烈!そしてフィナーレ王妃と朝敏は踊って登場、愛は処刑を超えるのである。
そして大湾三瑠の風の精は、技を心得た彼ゆえに安心して日本語の詞章に引き込まれていた。間の者たち、石川直也(カミジャー)と阿嘉修(サンラー)は笑わせた。すでに「手水の縁」のパロディーは芝居には登場しているので、古典組踊との対照で楽しめた。
禁断の恋である。「思い思われる 志情の海や いつも波静か あらちたぼれ」は願望である。禁断の嵐を意識した歌だ。志情の露に対してここでは海である。≪このブログ「志情(しなさき)の海へ」もよろしく!そのまま編集して電子書籍にする予定≫
朝敏が処刑の場で歌ったとされる歌「赤木赤虫が 蝶なて飛ばは 平敷屋友寄の 遺念おもれ」創作曲が流れ、つらねが流れたかな?創作曲「風の詞」も日本語を古典音階の作曲で聞かせた。
この新作組踊と「手水の縁」が連続して上演される日は遠くないように思える。平敷屋朝敏の34年の生涯を見据えた新作組踊である。愛・美・勇気≪ヒロイズム≫・権力(体制)・残酷な死(犠牲)・悲劇・永遠の物語(詩劇)がエコーした。
眞境名正憲氏と勝連繁雄氏の情念(パッション)あふれる新作組踊の誕生は今年の大きな成果だね。舞踊劇の清涼さ、静謐さ、歌・三線の魅力があふれ、どうも「聞得大君誕生」からさらに影響を受けた現在の新作組踊だと言えよう。芸能は詩劇は変容しさらなる美を追求するものらしい。
新作組踊についての鈴木耕太のエッセイは読ませたが、異論も起こった。この間の新作組踊の概観は芸能年表も参照しながら、きちんとまとめているのはいいね。つらねに対しては「手水の縁」などの連ねが歌劇の「泊阿嘉」や「薬師堂」に影響を与えていることなどを含め、つらねが単に「音曲の中の唱え」ではなく西欧オペラにもある独唱のアリアのような絶唱=魂の叫びのような美を持つゆえに引き込まれるのである。真実の思いの吐露が高いピッチの声とリズムで唱えられる魅力は何とも言えない。琉球民族の魂の絶唱のような美である。それが「異質な物に聞こえる」という鈴木の感性はウチナーの感性だろうか、と一瞬疑ってしまった。つらねは組踊の中に内在していたのだ。地謡のアーキーが立ち役の主人公たちの生の絶唱になっていった推移が逆に興味深い。声、歌、絶唱のもつ美だね。
それから新たな台詞様式はすでに新作組踊の中で生み出されている。「海の天堺」の久高ノロたちの吟使いは独特なものだ。人間国宝の西江喜春さんがその創作に寄与されたとお聞きした。カリフォルニア公演をご一緒したが、地謡の方々の眼差し、耳の冴えはまた格別だね。伝統と現代は常に大きな課題だが、伝統をどう現代に引き継ぐか、底に流れる弁証法は無視できない。大城立裕さんも幸喜さんもそれをよく知悉している方々だ。
(余談だが、昨日のアクセスが350を超えたので言及したいが、沖縄県は一括交付金で新作組踊と古典組踊のセットで海外公演を企画する度胸が必要だね。ブレインの質が悪いのかな?観光客向けの軽さは似たり寄ったりでそれがいいかどうか、旅行代理店のセンスだけで見てほしくない。)
☆今回パンフレットには新作組踊の脚本が掲載されなかった。試演ゆえだったのか、しかし掲載すべきだった。読みたい!全体像をきちんと把握したいゆえだ。