志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいてもつながりあう21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

ハイサイせば~Hellow-Goodby~

2018-02-13 01:12:07 | 沖縄演劇

印象批評をただ書きました。推敲はしていません。後で訂正などありえますね。調べて書いてないところがあります!レスよろしく!) 

こんにちは、さようならの題名だと、ウチナーグチと青森の津軽弁を聞いて納得しました。ローカルな言語、其々の地域で培ってきたことばの色合いが懐かしく肝心を打ちましたね。戦争の惨さが「ことばと絡んで」そのことばが取り込まれていくその劇的展開に驚くが、劇的逆転の展開は意外とオーソドックスに見えた。

 暗号としてのことば、戦時中、アメリカではインディオの言葉が暗号通信のために利用されたと、読んだ覚えがある。敵に発見されないための暗号・ことば、が薩摩弁で解読されたという事実があるのか、その辺は良く知らない。舞台の設定は海軍省の一室、1944年10月初旬、二人の比嘉姓の生粋のウチナーンチュと津軽弁が堪能な二人の青森県人の男女が招聘される。どうも最初から情報将校のターゲットが元牧師で赤と呼ばれた同志の検挙をするために仕組まれた暗号の読み取りである。意外性に緊張感がピーンと張り詰める。なるほどの構造(構成)。 

 反戦活動のために特高から拷問を受けてきた比嘉を落とす作戦に加担したのも同じ浦添出身の比嘉である。津軽弁の相撲取りもまた、何かと引き換えに仕組まれたシナリオの当事者になる。刑務所から開放され故郷に帰るための甘い罠に加担したのである。メタシアターの構図でもある。フィクションのドラマの中でさらに仕組まれたシナリオの設定。知らないのはターゲットの比嘉幸信と海軍省の掃除婦シズという企みだ。

スパイだと怪しまれ、中にはウチナーグチで話していたゆえに、銃殺されたウチナーンチュがいた。近代沖縄の悲哀、戦時中の差別や悲劇が背後でエコーしている。糸満売りされ、聴覚障害になり、徴兵を免れたものの、さらなる徴兵を逃れるため東京に出稼ぎにきた盛昌である。沖縄人というだけで差別されてきた素顔が表にでる。一方、津軽弁のたたみ掛ける速さに驚く。意味が巧く分らないのでもなく所々は共通語に似通って聞こえてくる。土着の言語の多様性を認めざるを得ない。二人の比嘉の宿命は分かれる。ウチナーグチのなまりの強い比嘉が同じ比嘉を売る。ポストコロニアルの構図の縮図でもある。同胞が同胞を収奪し、自己保身を勝ち取る。現在に続く構図だ。

反戦のために特高の虐待(拷問)を耐える幸信と自己保身のために同胞を犠牲にする盛信。オスプレイに反対し、高江のヘリパッドに反対し、辺野古の新基地に反対し、戦争に繋がる米軍基地そのものを拒絶する反戦・平和を求める人々と、経済的利害(生活の豊かさ)、日々の目先の幸せのために、高邁な運動をする人々をあざ笑い、足蹴りにする人々。しかし単に一般庶民の生活、惰性、俗物根性ゆえと批判できるだろうか。

「人間は生まれながらに皆平等であり、幸せを追求する権利がある」と比嘉幸信が語る理念がある。その理念を追求すれば戦争は起こりえないはずなのだ。しかし、他者を収奪し(犠牲を押し付け)、自らの安寧を追及することが戦争であったのだ。今もー。

大和魂への批判がある。「小さな子供や、年寄りや若い娘達をあんな目に遭わせるのが大和魂なんですか」と幸信は言う。戦争が本質的に持つ弱肉強食の残虐さを肯定するか否かが問われる。人類史のパラダイムをそのまま踏襲し、それを本質的行動原理と見るか否か。しかしヒットラーの全体主義は駆逐されたはずだ。戦前・戦時中の日本の天皇(現人神)を頂点に据えた全体主義もまた崩壊したはずだった。ドイツが今目指している政治姿勢の中には軍隊は国民に奉仕する組織としての条文があるという。国家のためではなく国民に依拠する制度、国家意思ではなく国民、市民の立場に立つ軍隊の存在がありえる。地球上に100以上の基地を持つアメリカは、文字通り世界支配を目論んできた。太平洋戦争後も繰り返されてきた戦争がある。今多極化に突き進んでいるように見えるこの世界。対立する国家利害や理念、国家形態が対峙しあっているのも事実だ。もはや、一国で国が成り立たないリアリティー(世界の仕組み)の中で資本主義経済(金融・マーケット主義グローバリズム)が凌ぎを削っている。残虐な世界規模の、壊滅的な戦争を避ける智恵、対話を目指しながら現況があると信じたい。しかし、いつ、何時?の不安が伴っているこの地球社会で生きている私たちは変わらない。

その中で常に理想を消してはならない。比嘉幸信の立場は、理想主義に見える。美しい理念と現実(悪)の対立構図にも見える。特高や情報部将校は、国に追随する下僕の立場だ。教授もまた智識を国家に奉仕する下僕の立場である。その中で、生活の中で、何かおかしいと感じつつ自然の感情を大事に抱いているのが、津軽弁でまくし立てる掃除婦のシズである。

情報部の作戦はシンボリズムに満ちている。暗号じみたウチナーグチや津軽弁での電話への応答が、結果的に比嘉幸信を落とすための作戦だったという表象の裏を劇は暴いて見せる。アカバナー(ぐそうばな)は落ちた。大物共産スパイを掴まえることが情報部の任務である。

土着の言語まで駆使して、反戦運動の志を高く闘っている幸信を崩すために、海軍省情報部が取った戦術は、一方で多言語社会形成をめざす、土着言語の琉球諸語(しまくとぅば)推進の現状を鑑みるに、土着の言語保存・継承・推進の運動そのものも言語帝国主義や言語ポストコロニアルな影が付きまとっているのではないか、と穿った考えが浮かんできたりする。

今回、津軽弁の勢いのよさに圧倒された。地域の多様性、固有性は文化多様性の良さだと考えるが、独自カラーの良さがどう継承されバトンが渡されているのか、気になる。方言札がなかった津軽弁は現在どう継承されているのか、よく知らない。自ら方言札を作り出し、共通日本語の習得に邁進してきた近代沖縄とは異なる津軽の歴史があるに違いない。

同化と異化のリズム、振り子が今に続く。

比嘉幸信を特高に売った比嘉盛昌だが、弁解は、自己保身のいい直りに聞こえてきた。命までは取るなとお願いー、と言葉にする。しかし、軍事権力(システム)から逃れるために同胞の人間を生贄にしたことは事実だ。他者の痛みを自らの痛みとして共有できるか。個人は決して強くはなく弱い。しかし弱くて強いのも事実。常に「弱きもの汝の名は女なり」でもない。弱さを身体と精神に抱えつつ生きている老若男女。一方で「弱いは強い、強いは弱い」も現象としては見聞き(実在)する。有限の無限性もまたー。

演技は工藤シズ(三上晴佳)、工藤佐吉(工藤良平)、比嘉幸信(当山彰一)、比嘉盛昌(安和学治)のやり取りが良かった。ウチナーグチのリズムがひきつけたし、津軽弁には圧倒された。

作品の形態は古典劇のスタイルで、一幕物の小作品である。言葉の多様性とその中に秘められた暗号(シンボル)と、情報将校のひねり出す策謀(ターゲットは誰だ)が最後まで引っ張っていった。地域言語と軍隊(政)のつながりがスケッチのように描かれた一演劇だ。                                                                              


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。