志情(しなさき)の海へ

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組踊の冊封使歓待上演は1719年→37年後の1756年→44年後の1800年→8年後の1808年→30年後の1838年→28年後の1866年!

2019-11-01 11:06:50 | 琉球・沖縄芸能:組踊・沖縄芝居、他

 【龍潭池でも冊封使歓待の催しがなされ、舞台の上演もあったのですね。龍潭池は歴史の推移を静かに受容してきたのです。龍潭池の横の芸大の場所に本式の組踊劇場が建立されてもいいですね。オープンステージで観客に近い三間四方はどうでしょう?芸大はかつては琉球大の男子寮でしたね。この場所は歴史の経緯が興味深いです。首里に「本式の組踊劇場」をぜひです。客席は300人以内で決して大きな劇場は必要ありませんね。浦添の現在の「国立劇場おきなわ」の大劇場は琉球史劇や琉球歌劇にとても似つかわしい劇場です。組踊のための劇場ではないですね!】

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1719年から1866年まで6回の冊封使歓待【組踊初演1719年→37年後の1756年→44年後の1800年→8年後の1808年→30年後の1838年→28年後の1866年!】の国劇ですが、その気の遠くなるようなスパンの上演にいったいどう技量が維持されたのか、気になりますね。時代相の違いは言うまでもないのでしょうがー。士族層の間で上演されたのでしょうね。そして地域(間切)へと伝播していったのでしょうがー。

1719年に15歳の若衆が1756年には52歳になって、その次の舞台公演です。その間の37年間の空白が気になるのですが、薩摩や江戸へも芸能をもって外交していますね。両者の関係性はもっと吟味すべきでしょう。

1866年から13年後に廃藩置県で琉球王国は明治政府に併合されます。その時の技芸を保持していた方々が那覇の街におりて宮廷芸能を披露し、身銭を得ていくのですね。その間、公には1672年に公営化された遊里は健在でそこで、芸能は盛んに繰り広げられていたのですね。士族層の社交場です。もちろん薩摩の在番や役人、商人、船乗りたちが出入りしています。異文化交流が盛んになされたのです。清からやってくる冊封使一行だけではなく、中国人の商人や漁師も訪れたのでしょうね。南蛮人もー。

組踊はテキストが健在したことが、継承するに当たっては有益だったのですね。独自の演劇形態と物語(詞章)、歌、器楽がどんなに時間のスパンが長くても、古典音楽がしっかりしていれば、大丈夫だったのでしょう。

 


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