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坂手洋二の『普天間』(戯曲)はいいね!12月21日、那覇市民会館で青年劇場が公演!

2012-12-06 23:23:15 | 沖縄演劇

学生たちに鑑賞をすすめ、戯曲を取り寄せ、今一挙に読んでみた。坂手作品は意外とディテールが細かい、それでいてそこに根にある何かが流れ、沖縄独特の詩情があふれている。『普天間』をめぐる多様な顔が浮かび上がる。沖縄国際大学に落ちたヘリCH53が物理的に迫ってくる。戦後沖縄の姿が切開されている、アメリカの世界戦略(戦争)の悪夢と寝床をいっしょにしてきた沖縄、思いやり予算で憲法9条を維持する日本の姿、日本の中の踏み台の沖縄の素顔が浮かび上がる。そして状況や現象を超えてこれらの構造を、構図を、カラクリを、成り立たせている世界の闇や矛盾や光が見えてくる。その中で生きている人々の生の姿が見えてくる。想像した以上に読ませる、胸にジーンと響いてくる戯曲だと納得がいく。

ウチナーグチもかなり散りばめられている。鍵になる「思い」はウチナーグチだと言える。青年劇場のみなさんのウチナーグチの鍛錬がどれほど舞台で反映されるか興味がわく。

チュニクルサッティン、ニンダリーシガ、チュークルチェ、ニンダラン。(他人に痛めつけられても眠ることはできるが、他人を傷めつけては眠ることができない)

これは極端に訳すると、人にどんなに虐待されても(殺されても)寝ることができるが、人を虐待したら(殺したら)寝ることができない、でもありえるのかな?

大和の劇団が沖縄を主題にした舞台を演じる時、いつも距離感を持たざるをえないのは、彼らの綺麗な日本語である。耳に懐かしいウチナー色の言語が発話されないもどかしさ、失望がいつも大きい。木下順二の『沖縄』もそうだった。綺麗な日本語でウチナーンチュを演じることばに疎外感を覚え、ああこれは沖縄ではない。あくまで木下順二の觀念の中の沖縄にすぎない、などと思っていた。そのことばの色合いの落差は小さいようで大きいと考えている。

最も『沖縄』は戯曲の中身にも違和感が起こる作品ではある。ああこんな事ありえないことが物語の中で展開されていると思っている。復讐であり自分を殺す行為、戦争の個人の決着の付け方はどうも違うと思えるのである。それはあくまで日本の知識人の良識の範囲にあるのだと思えた。しかし坂手洋二の作品はウチナーンチュの根っこの部分に刺さってくる。琴線を揺さぶる力がそこにあるのだと、感じている。坂手の現代の日本を切る作品群は、決して沖縄を見逃さないところに凄さがあると考えている。日本という国を対象化する時、坂手さんはその中で踏付けられながらも亜熱帯の光の中で呻吟しつつ歌い踊る沖縄を無視しない。つまり国の骨格を見据えている作家である。

すなわち、沖縄をスルーしないということは世界軍事帝国アメリカを見据えているということになる。「だるまさんがころんだ」にしても、『天皇と接吻』にしても、日本という国を見据えながら世界の覇者アメリカを見据えている。国ーグローバルの世界の構造を鷲掴みにする目線があるということである。この『普天間』もたんに普天間基地を扱っているわけではない。戦後日本、戦後沖縄、イラク戦争、オスプレイ、アメリカの戦略、原発も含め視野に入ってくる。かつ普天間である。民家にガマの入り口がある沖縄である。今だに毎年戦時中の白骨が一〇〇体以上も出てくる沖縄である。

現実の日常がもろに世界とつながる戯曲である。沖縄への大きなエールであり、日本全国での公演は現実認識への啓蒙活動になるのだろうね!総合芸術の演劇は物理的なパワーを持っている!

でも大学でも総合芸術・演劇のものすごいパワーは片隅に追いやられている。演劇のもつ集合的意識の力は過小評価され、小説などが表にくるのが日本や沖縄の過疎化(遅れ)だが、カリキュラムを見てご覧!いかに時代遅れかが、沖縄内の大学でもよくわかる。やれやれ!大学の講座の洗煉されない従来の認識はどうも、で、後50年経っても変わらないのかもしれない。何しろあまり総合的認識のない彼らの陥穽(感性)でシステム化されているのだからね!ヤレヤレ!最も形骸化したシステムは無視していいのかもですね。

多くの若者たちに是非見てもらいたい舞台だ!2000円と安め!


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