存在の全てが政治そのものであるならば、琉球・沖縄の風土・気質もすべて政治そのものに取り込まれるのは必然ということになるが、坂手洋二が『普天間』で切開してみせた名文句がある。
チュニクルサッティン、ニンダリーシガ、チュークルチェ、ニンダラン。(他人に痛めつけられても眠ることはできるが、他人を傷めつけては眠ることができない)
これは極端に訳すると、人にどんなに虐待されても(殺されても)寝ることができるが、人を虐待したら(殺したら)寝ることができない、でもありえるのかな?
人を殺さば穴二つで、自らが苦しんで死んでも他者にそれを手渡すまいとする琉球人の倫理観がある。ただし、琉球王府の先島政策は差別政策でもあった。その痕跡は今に続く。傷は精神にも残るのである。差別社会沖縄の内部の構造はまた炙り出されているが、廃藩置県以降の同化の過程のプラス面も無視はできない。王府時代の差別構造が脱化されてきたところもあるね。言葉の問題=政治がしまくとぅばに集約されるのは、琉球諸語の中央語と宮古や八重山語との葛藤がそこにあることは無視できない。闇と光は、燦々と照りつける亜熱帯の島々にも見え隠れしている。