一体、この写真がUPできる(動画も音もできそう)ブログをどなたが訪れるのか?その追跡もできそうだが、面倒である。ただフェミニズム関連にはみなさん斜めに構えているという事が分かる。でも、旧盆に実家に戻った時母の書棚になんとあの高里鈴与さんの「『沖縄の女たち』~女性の人権と基地・軍隊」を見つけて読んでいた。1996年の発行である。気がつくとその同じ本が二冊も書棚にあった。母が読んだかどうか、わからない。以前手にして読んだのは確かで女性への「米軍人犯罪・戦後のリスト」は眼を叛けたくなる事例が詳しく掲載されている。参照にした覚えがある。1949年9月、終戦から4年目の沖縄、混血児人口450人など、数字はあからさまである。それさえも氷山の一角ではなかったのか?生まれなかった子供たちもいたに違いないーーー。
「XXXXXXXXX--表象した/表象された女性たちを中心に」をテーマに据えたいと決意して先行研究などを抜き出そうとしている現在、なぜか、女、女、女たちのことが頭を占めてきて、またうんざりとする思いもやってくる。されど女たちである。高里さんの本は戦後沖縄がたどった女性の負の歴史を鮮やかに写し取っている。戦後の占領軍によるむごたらしい殺人・レイプ事件がこれでもか、とリストにのっているばかりではなく、構造的暴力システムの最たるものとしての米軍基地が捉え返され、その本の中心は売買春である。
(でもなぜ高里さんや宮城晴美さんらが辻の『ジュリ馬祭祀』を阻止したのか理解に苦しむ。自らのSEXを売って生きざるを得な(かった)い女性たちの思いを理解していたはずの彼女たちである。歴史の推移として考えた時のいきさつは多様でいまから詳細を見据えるつもりだが、不可解である。女性の性の収奪・隔離・間扱いの人類の歴史は今に至るがそれでもその中で培われた文化の総体をそのまま無化し末梢することはできない)。
性的収奪の対象としての女の性があり、自由意志でSEXを売買する人間模様をこれでもかと実際婦人相談員として多くの性を売る女性たちとかかわってきた高里さんの経験からの生の声があり、女性たちの実態が感じられ、また世界のネットワークの中で海外でのSEX産業に従事する女性たちの声も聞えてきた。管理売春制度の中に封じ込められた透明な奴隷制度がこの地球では横行している。かつて人身売買について医学部の学生が多くの資料を提出しながら授業でPPを使って報告したことも思いだした。また最近満島ひかり出演のDVDと共に以前見るのを逸した映画「闇の子供たち」も見たその印象も同時に念頭に浮かんでくる。それらについて書いてみたいと思った。(続く)
奴隷制の問題も含め、現在に続く形を変えたその制度があるという事が、問題ではないのだろうか?有史以前(BC)も含め人間の2000年以上にわたる歴史を見通すというのは大変な作業で、表層をかすめることしかできない。ゆえに印象批評になる。歴史や社会学の専門書をひも解いてじっくりというわけにはいかないので、この間読んだ書物などを含めた経験の範囲での知見ということになる。奴隷を存続させてきた人類の歴史があり、奴隷以下の存在、つまり種豚の対象の雌豚と同じく、子孫繁栄させるための雌としての女性の存在があり、性の快楽のための快楽女体としての女の存在を創ってきた人間の歴史がある。
また女体なり女性は宗教と複雑(単純)にからみ、命を産み育む性は畏敬の対象でもあり、また恐れの対象、侮蔑の対象でもあった。豊饒なセクシュアリティーと産む性(母性)が分離するようになったのが、社会の構成単位が形をなし、より複雑になるにしたがってその分離が確立していったと考えると、皮肉ながら、(人間が個として、また集団の一員として、岸田秀の心理学の書や吉本隆明の『共同幻想論』などを読むと)共同体としての幻想の中で、個人がすでに本能を逸脱された存在を生きざるを得なくなった、という点に収斂するのだろうか、などと考えてしまう。
そして一夫一婦制度なり、一夫多妻制なり、それぞれの風土や民族宗教や習俗、制度に則した社会を築き上げてきたのだが、その中心は男=人間であり、女は常に他者=人間以下の存在としてみなされてきた(?)。母系制などの例外もある。そして軍隊とは?共同体(社会)が領土拡張の欲望を限りなく追求する中で次第に人を殺すための技術が磨かれ洗練され、ついに核兵器まで創りだした。さらにプラズマ兵器である。根源的な暴力のシステムの究極が軍事力であり、収奪であり、形を変えた奴隷化であり、経済の競争と搾取とサバイバル競争の激烈なる現在=グローバル地球村か?と書くと、いか様にも拡散していく。ともかく沖縄の米軍基地の存在がアメリカの世界戦略の要として君臨することは、軍事と世界の経済支配が並行していることも確かである。日米安保の基盤としての基地の存在は、それで世界第2位の経済力を持つにいたった日本を支えてきたのである。(その地位は中国に奪われたが、それは好ましい現実かもしれない。)
つまり高里さんの本の中の女性たちの犠牲は彼女たちの犠牲の上に今日に至る日米の経済的繁栄の歴史があったという構図にもなる。その点で軍隊の構造的暴力という指摘はその通りだろう。そして問題は経済のグローバルな推進と軍事力は重なるということである。そして人間は社会制度なり共同体の存続のために弱者を生贄(犠牲・スケープゴート)にしてきた(いる)。
世界規模では富める国々と発展途上国、貧困国家との格差は常に遍在し、(異なる通貨による格差があり)、EUのような国を越えた共同体の地域コミュニティーが遂行されさらにその方向性への試みがある中でまだアジアもアフリカも北・南アメリカもその方向性への途上にある。経済は為替は格差の上に君臨し、絶えず超資本の保持者が弱者を飲み込む構造の中にある。ゆえに人間も地球のどの地域・共同体で生存しているか、によってすでに大きな格差の構造に中に位置づけられる。そこで人間の売買も成り立っている。より強い資本(国)がより弱い資本(人間・国・民族)を収奪・奴隷化し従来のセカンド市民である女性の性をまたさらに収奪していく構図が成り立つ。その場合、すでに共同体なり制度としての国家システムの中にある限り、人間の本能はすでに破壊されているゆえに、つまり制度を維持する上で人間のセクシュアリイティーはすでに幻想(虚構)の中にしか実在しえない、ということになるのではないだろうか?
婚姻(家族)が国の最小単位のようにシステムが成り立っている以上、(個人ではない)人間は生存するや否や矛盾(幻想共同体)にはめ込まれる。そして全きイドやエゴーを逸脱された状態で、限りある生を生かされるのである。その点、人間=男はまだ人間以下の客体=他者としての女性以上に同じように幻想共同体を生きる上でもまだエゴーの充足は得やすい位置にあるように見えるが、その疎外は変わらない。それゆえにたとえば高里さんが執拗に無力感を覚えながらも追求せざるをえない売買春の問題において、男性は、主に買う性としての優位性を持ちながらも、実はまた性を買う事によって自らのセクシュアリティーを満足させなければならないという(金を介在しないと欲望を充足させることができない不幸をまた抱えもつ)存在のリミット(限界・不幸)を生きている。
買われる性(女)は不幸であり、また必ずしも不幸ではない? SEX産業(風俗業)はすでに本能を阻害された人間社会にとって必要(悪)なものである。ポルノを含め女性がその表象のためにまた抑圧され収奪され奴隷化されている、というフェミニズムの理論がある。それはまた一面的だと考える。バーチャルな幻想や想像の世界も含め、性のダイナミズムやそのコンテンツとしての多様なビジネスは、男女の幻想の中で成り立っている。性ビジネスは人間社会で必要(悪)なものなのである。そしてそのビジネスに従事する人々をなぜ国家権力は介入するのだろうか?それは国の最小単位の家族を壊す要因になりえるからである。アナーキーな性を国家が管理するゆえに、地下組織のような黒い集団が暗躍するのだろう。おそらくこの家族制度を中心に据えたシステムが世界のすう勢であるかぎり、売買春や人間の奴隷制(売買)はこの世界から消えないのではなかろうか?家族制度そのものが、制度の縛りの中にあり、例えば古代アテネの直接民主主義制度も奴隷の存在の上に成り立ち、かつ女性たちはポリスに参加できず(人間以下の存在)、妻と快楽の対象に二分化された。気が遠くなるような時間を経た今日、女性は男性と同じように教育を受け、自立した主体として職業を持ち、自由に表現できるようになった。しかし、未だ、主体=男性、客体=女性のゆるやかな構図は変わらない。なぜ?
つまり家族の枠組みで人間のセクシュアリティーが維持・管理されるわけで、そこからあふれる感性や欲望を満たすためにSEX産業(風俗業)が成り立つのである。それは産業として成り立つ。そこで働く女性や男性が、お互いの人権を尊重する上で成り立たせることができるなら、それに権力が立ちいる事はできないと思うが実際はどうなのだろう?
かつ、人間の自由や平等、真理(真実)、正義を求める崇高な精神は消えない。
高里さんの本を読むと、そうした売買春の産業の中に入っていく女性たちの残酷な現実がしかしとことん表示されている。ヒモや組織の存在がある。本能から逸脱された人間社会の制度の陥穽に成り立つビジネスをまた女性の身体(SEX)をうまく利用して利潤を得ようとする魔の手だ。その手が女性の身体を物として売買することなく、正当にその労働にみなう報酬をもたらす契約を実施すること、それを国家権力は監視すべきなのである。つまりもっとも痛みを得やすい立場にある女性を常にサポートすべきである。一方で制度内の男女のセクシュアリティーが必ずしも性を自由に生き生かされる関係ではない不幸が漂っている。
昨日大学教員として優遇された位置にある友人と話していたら、「最近沖縄タイムスは戦後の米兵による沖縄人や沖縄人女性への差別やレイプ、殺害などの証言を記事にし始めていて気になる」と言った。つまりアメリカ軍(人)を攻撃することによる日本への同化の推進の仕組みを創っているのではないか、との危惧である。敵と敵が戦争をしている状態では敵国への女性の殺害やレイプも含めて、それは当然ありえるでしょう。でも日本兵による沖縄人の差別や殺戮は同じ国民同士の残虐さで許せないが、敵を殺すという点ではね、何でもありだったのよ」と、まさにシェイクスピアの「へンリー五世」の台詞のような発言をした。
つまり戦争を宣言する前に王は言い放つのである。「戦争になると、お前たちの家が焼かれ妻や娘たちがレイプされ殺されるかもしれない。それでもフランスと闘うか」と。そこには戦争は残酷で無残で屍の山ができ、女子供は凌辱を受けるという認識がある。つまりそれは戦争で当然という認識である。だから沖縄の女性たちが支配者の米軍人にレイプされ殺されてもそれは必然悪だとの認識にも通じる考えで、「少し待てよ」と思った。沖縄タイムスの意向は彼女の危惧に反して、日本全体の沖縄化の現象があり、もはやアメリカの属国日本・沖縄の構図を壊したい意図があるのではないかと、ワタシは逆に考えて話したのだが、彼女のような大学知識人の中にすら、戦時中や占領時に女性たちが支配者の性の欲望の犠牲になるのは当然ありえるし、それがいかにも妥当だったと考える思考もある。それは必要悪だったのか?
軍備した強者による性の収奪を自然とみなす所に嘘はないのか?終戦後、一夜にしてテント小屋の売春小屋が立った沖縄の戦後の姿が目に浮かぶ。性欲を満たすために男も女も疎外された性関係を一方は疎外された欲望の充足、一方はサバイバルをかけた性のビジネスとしてかかわった。その傍らで米軍事権力は性欲のターゲットとして沖縄女性・子供を犠牲にした。そして多くの混血児が産まれた。中には生まれた黒い肌の赤子をすぐさま殺した親がいたり、あるいは黒人の子を産んで自殺した女子教員もいる。あるいはレイプした米兵を村人が共同で殺して闇に葬った話もまことしやかに伝えられる。、戦争は異文化接触だった。そしてそれが性・セクシュアリティーまで及んだのである。生身の人間たちが殺しあうという残虐な究極的なむきだしの本能があり、数字の裏に秘められたさまざまな物語が潜んでいる。
そして、軍事基地沖縄の実存は、常に人を殺すための基地であり、戦争や絶えることのないテロ対策という名の多様な軍事戦略が常時基地内外で施行されつづけられる場であり空間である。平和の抑止力だという詭弁もある。あくまで米軍事産業とそれにより利益を享受する者たち(国家権力・大企業・金融)のためのアメリカ的自由・平等・正義の御旗の上に成り立つシステムではなかろうか?それに追従するのが日本国家であり同じく莫大な利益を得ている大企業・金融・メディアの存在がある。
それゆえに高里さんの『沖縄の女たち』はこれら米日の権力の最下層で隷属的に収奪されている者たちの素顔をあぶりだす。
主体としての男性=人間に対して、客体=他者=女性の構造は、総体としてその構図は変わらない。その中でもさらに南北関係の構図があり、さらに同じ共同社会(国家)内での差別構図もまたある。日本国内の南北関係が内国植民地的沖縄の位置ならば、限りなく沖縄(沖縄の女性のSEX)は、より収奪される位置にありえる。性産業(風俗業)が制度の陥穽の中にあるという構造を認識した上でかつ、収奪として見た時、その下部構造に吸収される者たちがどこに顕れるか、は明らかである。
例えば映画「闇の子供たち」は、貧困ゆえにミャンマーから売られてくる多くの子供たちやタイの山奥の村の子供たちなどが、性の餌食にされ臓器移植の媒体として生きながらに殺されるという実態を伝えている。AIDsに侵されごみ袋に入れられて処分される命の存在がある。少年たちもまたSEXの犠牲になる。貧困は人間を奴隷にする。(日本では様々な形でこのシステムで生き残れない絶望を感じた者たちが次々自殺を余儀なくされる。)性の奴隷として物化される子供たちの存在は、彼らのSEXを買う存在を問題にしなければならないだろう。人間の果てしない欲望の存在を否定できないが、それでも個人の意志を越えた強制されたSEXを余儀なくされる構造の残酷さをこの社会(世界)は阻止できないーー!なぜ?
世界が格差で成り立つ現実がある。経済も政治も文化も格差で成り立つ世界の歪み・矛盾・残酷さがあり、それは相も変わらず貫かれている。しかし、構造の中の弱者はモノ化された存在の循環を永遠に生きたいとは思わない。
弱者は物申さなければならない。絶えず声を上げ、行動し、どこに是非があるのか示さなければならない。人間としての権利を主張しなければならない。世界に!女は主体として生きる権利を主張しつづけなければならない。女は男の慰安としての性のオブジェクトではない。所有物でもない。自らの欲望を主張し主体として主体の男とかかわることが要求されよう。疎外され続けるセクシュアリティーの本来の愛を男女共に求めることが求められているのだろう。(ひとまずここで終了だが、ただことばを書きならべてきたようだ。吟味はこれからーー!)参考文献を読むわけでもなく、この論調に問題はあろうかと思うがーーここで止めたい。辻遊郭と表象などをこれからじっくり見据えていく上で、もう少し検証することになると思う。認識不足の点など、ご指摘をいただけたらと思う。
<写真はアジアのシェイクスピア『リア王』>
*******追記*******
上記の文を書きながら、以前やはり医学部の学生が発表資料として配布していたThe Geneva
Conventionのことが気になっていた。第二次世界大戦後に戦時中の人権侵害を鑑みて、国際的な取り決めをさらに付け加えた条項である。1949年に発令されている。下の条項によると、第二次世界大戦に起こったいかなる女性・子供を含む一般市民、犠牲(弱)者に対するこの間戦争だから当然人間の究極的本能の悪と想像できる(現に人間が行ってきた恐ろしい)行為を是とせず、戦争中、敵国の人間であっても、一般住民や捕虜に対して彼らの人権や名誉を保護することが掲げられている。具体的には女性に対するレイプや強制売春など、どんな形であれ、女性の名誉を汚す行為を禁止している。日本軍の悪名高い従軍慰安婦制度(強制的管理売春)を教訓としている条項に見える。しかし、その後の数々の戦争や民族紛争をふり返ると、このThe Geneva Conventionが必ずしも生かされていないことが明らかである。ユーゴ紛争やカンボジアやアフリカでの虐殺や民族戦争・内乱など、従来の慣例(非道さ)がこれでもかとニュースは伝えてきた!しかし、この条文(第27章)の存在は、人間が変わりえることを示していると考えたい!
From Wikipedia, the free encyclopedia
The 1864 treaty of the First Geneva Convention comprise four treaties and three additional protocols that set the standards in international law for humanitarian treatment of the victims of war. The singular term Geneva Convention refers to the agreements of 1949, negotiated in the aftermath of World War II, updating the terms of the first three treaties and adding a fourth treaty. The language is extensive, with articles defining the basic rights of those captured during a military conflict, establishing protections for the wounded, and addressing protections for civilians in and around a war zone. The treaties of 1949 have been ratified, in whole or with reservations, by 194 countries.[1]
“ Protected persons are entitled, in all circumstances, to respect for their persons, their honour, their family rights, their religious convictions and practices, and their manners and customs. They shall at all times be humanely treated, and shall be protected especially against all acts of violence or threats thereof and against insults and public curiosity. Women shall be especially protected against any attack on their honour, in particular against rape, enforced prostitution, or any form of indecent assault. Without prejudice to the provisions relating to their state of health, age and sex, all protected persons shall be treated with the same consideration by the Party to the conflict in whose power they are, without any adverse distinction based, in particular, on race, religion or political opinion. However, the Parties to the conflict may take such measures of control and security in regard to protected persons as may be necessary as a result of the war. ”
—- Article 27, Fourth Geneva Convention
「XXXXXXXXX--表象した/表象された女性たちを中心に」をテーマに据えたいと決意して先行研究などを抜き出そうとしている現在、なぜか、女、女、女たちのことが頭を占めてきて、またうんざりとする思いもやってくる。されど女たちである。高里さんの本は戦後沖縄がたどった女性の負の歴史を鮮やかに写し取っている。戦後の占領軍によるむごたらしい殺人・レイプ事件がこれでもか、とリストにのっているばかりではなく、構造的暴力システムの最たるものとしての米軍基地が捉え返され、その本の中心は売買春である。
(でもなぜ高里さんや宮城晴美さんらが辻の『ジュリ馬祭祀』を阻止したのか理解に苦しむ。自らのSEXを売って生きざるを得な(かった)い女性たちの思いを理解していたはずの彼女たちである。歴史の推移として考えた時のいきさつは多様でいまから詳細を見据えるつもりだが、不可解である。女性の性の収奪・隔離・間扱いの人類の歴史は今に至るがそれでもその中で培われた文化の総体をそのまま無化し末梢することはできない)。
性的収奪の対象としての女の性があり、自由意志でSEXを売買する人間模様をこれでもかと実際婦人相談員として多くの性を売る女性たちとかかわってきた高里さんの経験からの生の声があり、女性たちの実態が感じられ、また世界のネットワークの中で海外でのSEX産業に従事する女性たちの声も聞えてきた。管理売春制度の中に封じ込められた透明な奴隷制度がこの地球では横行している。かつて人身売買について医学部の学生が多くの資料を提出しながら授業でPPを使って報告したことも思いだした。また最近満島ひかり出演のDVDと共に以前見るのを逸した映画「闇の子供たち」も見たその印象も同時に念頭に浮かんでくる。それらについて書いてみたいと思った。(続く)
奴隷制の問題も含め、現在に続く形を変えたその制度があるという事が、問題ではないのだろうか?有史以前(BC)も含め人間の2000年以上にわたる歴史を見通すというのは大変な作業で、表層をかすめることしかできない。ゆえに印象批評になる。歴史や社会学の専門書をひも解いてじっくりというわけにはいかないので、この間読んだ書物などを含めた経験の範囲での知見ということになる。奴隷を存続させてきた人類の歴史があり、奴隷以下の存在、つまり種豚の対象の雌豚と同じく、子孫繁栄させるための雌としての女性の存在があり、性の快楽のための快楽女体としての女の存在を創ってきた人間の歴史がある。
また女体なり女性は宗教と複雑(単純)にからみ、命を産み育む性は畏敬の対象でもあり、また恐れの対象、侮蔑の対象でもあった。豊饒なセクシュアリティーと産む性(母性)が分離するようになったのが、社会の構成単位が形をなし、より複雑になるにしたがってその分離が確立していったと考えると、皮肉ながら、(人間が個として、また集団の一員として、岸田秀の心理学の書や吉本隆明の『共同幻想論』などを読むと)共同体としての幻想の中で、個人がすでに本能を逸脱された存在を生きざるを得なくなった、という点に収斂するのだろうか、などと考えてしまう。
そして一夫一婦制度なり、一夫多妻制なり、それぞれの風土や民族宗教や習俗、制度に則した社会を築き上げてきたのだが、その中心は男=人間であり、女は常に他者=人間以下の存在としてみなされてきた(?)。母系制などの例外もある。そして軍隊とは?共同体(社会)が領土拡張の欲望を限りなく追求する中で次第に人を殺すための技術が磨かれ洗練され、ついに核兵器まで創りだした。さらにプラズマ兵器である。根源的な暴力のシステムの究極が軍事力であり、収奪であり、形を変えた奴隷化であり、経済の競争と搾取とサバイバル競争の激烈なる現在=グローバル地球村か?と書くと、いか様にも拡散していく。ともかく沖縄の米軍基地の存在がアメリカの世界戦略の要として君臨することは、軍事と世界の経済支配が並行していることも確かである。日米安保の基盤としての基地の存在は、それで世界第2位の経済力を持つにいたった日本を支えてきたのである。(その地位は中国に奪われたが、それは好ましい現実かもしれない。)
つまり高里さんの本の中の女性たちの犠牲は彼女たちの犠牲の上に今日に至る日米の経済的繁栄の歴史があったという構図にもなる。その点で軍隊の構造的暴力という指摘はその通りだろう。そして問題は経済のグローバルな推進と軍事力は重なるということである。そして人間は社会制度なり共同体の存続のために弱者を生贄(犠牲・スケープゴート)にしてきた(いる)。
世界規模では富める国々と発展途上国、貧困国家との格差は常に遍在し、(異なる通貨による格差があり)、EUのような国を越えた共同体の地域コミュニティーが遂行されさらにその方向性への試みがある中でまだアジアもアフリカも北・南アメリカもその方向性への途上にある。経済は為替は格差の上に君臨し、絶えず超資本の保持者が弱者を飲み込む構造の中にある。ゆえに人間も地球のどの地域・共同体で生存しているか、によってすでに大きな格差の構造に中に位置づけられる。そこで人間の売買も成り立っている。より強い資本(国)がより弱い資本(人間・国・民族)を収奪・奴隷化し従来のセカンド市民である女性の性をまたさらに収奪していく構図が成り立つ。その場合、すでに共同体なり制度としての国家システムの中にある限り、人間の本能はすでに破壊されているゆえに、つまり制度を維持する上で人間のセクシュアリイティーはすでに幻想(虚構)の中にしか実在しえない、ということになるのではないだろうか?
婚姻(家族)が国の最小単位のようにシステムが成り立っている以上、(個人ではない)人間は生存するや否や矛盾(幻想共同体)にはめ込まれる。そして全きイドやエゴーを逸脱された状態で、限りある生を生かされるのである。その点、人間=男はまだ人間以下の客体=他者としての女性以上に同じように幻想共同体を生きる上でもまだエゴーの充足は得やすい位置にあるように見えるが、その疎外は変わらない。それゆえにたとえば高里さんが執拗に無力感を覚えながらも追求せざるをえない売買春の問題において、男性は、主に買う性としての優位性を持ちながらも、実はまた性を買う事によって自らのセクシュアリティーを満足させなければならないという(金を介在しないと欲望を充足させることができない不幸をまた抱えもつ)存在のリミット(限界・不幸)を生きている。
買われる性(女)は不幸であり、また必ずしも不幸ではない? SEX産業(風俗業)はすでに本能を阻害された人間社会にとって必要(悪)なものである。ポルノを含め女性がその表象のためにまた抑圧され収奪され奴隷化されている、というフェミニズムの理論がある。それはまた一面的だと考える。バーチャルな幻想や想像の世界も含め、性のダイナミズムやそのコンテンツとしての多様なビジネスは、男女の幻想の中で成り立っている。性ビジネスは人間社会で必要(悪)なものなのである。そしてそのビジネスに従事する人々をなぜ国家権力は介入するのだろうか?それは国の最小単位の家族を壊す要因になりえるからである。アナーキーな性を国家が管理するゆえに、地下組織のような黒い集団が暗躍するのだろう。おそらくこの家族制度を中心に据えたシステムが世界のすう勢であるかぎり、売買春や人間の奴隷制(売買)はこの世界から消えないのではなかろうか?家族制度そのものが、制度の縛りの中にあり、例えば古代アテネの直接民主主義制度も奴隷の存在の上に成り立ち、かつ女性たちはポリスに参加できず(人間以下の存在)、妻と快楽の対象に二分化された。気が遠くなるような時間を経た今日、女性は男性と同じように教育を受け、自立した主体として職業を持ち、自由に表現できるようになった。しかし、未だ、主体=男性、客体=女性のゆるやかな構図は変わらない。なぜ?
つまり家族の枠組みで人間のセクシュアリティーが維持・管理されるわけで、そこからあふれる感性や欲望を満たすためにSEX産業(風俗業)が成り立つのである。それは産業として成り立つ。そこで働く女性や男性が、お互いの人権を尊重する上で成り立たせることができるなら、それに権力が立ちいる事はできないと思うが実際はどうなのだろう?
かつ、人間の自由や平等、真理(真実)、正義を求める崇高な精神は消えない。
高里さんの本を読むと、そうした売買春の産業の中に入っていく女性たちの残酷な現実がしかしとことん表示されている。ヒモや組織の存在がある。本能から逸脱された人間社会の制度の陥穽に成り立つビジネスをまた女性の身体(SEX)をうまく利用して利潤を得ようとする魔の手だ。その手が女性の身体を物として売買することなく、正当にその労働にみなう報酬をもたらす契約を実施すること、それを国家権力は監視すべきなのである。つまりもっとも痛みを得やすい立場にある女性を常にサポートすべきである。一方で制度内の男女のセクシュアリティーが必ずしも性を自由に生き生かされる関係ではない不幸が漂っている。
昨日大学教員として優遇された位置にある友人と話していたら、「最近沖縄タイムスは戦後の米兵による沖縄人や沖縄人女性への差別やレイプ、殺害などの証言を記事にし始めていて気になる」と言った。つまりアメリカ軍(人)を攻撃することによる日本への同化の推進の仕組みを創っているのではないか、との危惧である。敵と敵が戦争をしている状態では敵国への女性の殺害やレイプも含めて、それは当然ありえるでしょう。でも日本兵による沖縄人の差別や殺戮は同じ国民同士の残虐さで許せないが、敵を殺すという点ではね、何でもありだったのよ」と、まさにシェイクスピアの「へンリー五世」の台詞のような発言をした。
つまり戦争を宣言する前に王は言い放つのである。「戦争になると、お前たちの家が焼かれ妻や娘たちがレイプされ殺されるかもしれない。それでもフランスと闘うか」と。そこには戦争は残酷で無残で屍の山ができ、女子供は凌辱を受けるという認識がある。つまりそれは戦争で当然という認識である。だから沖縄の女性たちが支配者の米軍人にレイプされ殺されてもそれは必然悪だとの認識にも通じる考えで、「少し待てよ」と思った。沖縄タイムスの意向は彼女の危惧に反して、日本全体の沖縄化の現象があり、もはやアメリカの属国日本・沖縄の構図を壊したい意図があるのではないかと、ワタシは逆に考えて話したのだが、彼女のような大学知識人の中にすら、戦時中や占領時に女性たちが支配者の性の欲望の犠牲になるのは当然ありえるし、それがいかにも妥当だったと考える思考もある。それは必要悪だったのか?
軍備した強者による性の収奪を自然とみなす所に嘘はないのか?終戦後、一夜にしてテント小屋の売春小屋が立った沖縄の戦後の姿が目に浮かぶ。性欲を満たすために男も女も疎外された性関係を一方は疎外された欲望の充足、一方はサバイバルをかけた性のビジネスとしてかかわった。その傍らで米軍事権力は性欲のターゲットとして沖縄女性・子供を犠牲にした。そして多くの混血児が産まれた。中には生まれた黒い肌の赤子をすぐさま殺した親がいたり、あるいは黒人の子を産んで自殺した女子教員もいる。あるいはレイプした米兵を村人が共同で殺して闇に葬った話もまことしやかに伝えられる。、戦争は異文化接触だった。そしてそれが性・セクシュアリティーまで及んだのである。生身の人間たちが殺しあうという残虐な究極的なむきだしの本能があり、数字の裏に秘められたさまざまな物語が潜んでいる。
そして、軍事基地沖縄の実存は、常に人を殺すための基地であり、戦争や絶えることのないテロ対策という名の多様な軍事戦略が常時基地内外で施行されつづけられる場であり空間である。平和の抑止力だという詭弁もある。あくまで米軍事産業とそれにより利益を享受する者たち(国家権力・大企業・金融)のためのアメリカ的自由・平等・正義の御旗の上に成り立つシステムではなかろうか?それに追従するのが日本国家であり同じく莫大な利益を得ている大企業・金融・メディアの存在がある。
それゆえに高里さんの『沖縄の女たち』はこれら米日の権力の最下層で隷属的に収奪されている者たちの素顔をあぶりだす。
主体としての男性=人間に対して、客体=他者=女性の構造は、総体としてその構図は変わらない。その中でもさらに南北関係の構図があり、さらに同じ共同社会(国家)内での差別構図もまたある。日本国内の南北関係が内国植民地的沖縄の位置ならば、限りなく沖縄(沖縄の女性のSEX)は、より収奪される位置にありえる。性産業(風俗業)が制度の陥穽の中にあるという構造を認識した上でかつ、収奪として見た時、その下部構造に吸収される者たちがどこに顕れるか、は明らかである。
例えば映画「闇の子供たち」は、貧困ゆえにミャンマーから売られてくる多くの子供たちやタイの山奥の村の子供たちなどが、性の餌食にされ臓器移植の媒体として生きながらに殺されるという実態を伝えている。AIDsに侵されごみ袋に入れられて処分される命の存在がある。少年たちもまたSEXの犠牲になる。貧困は人間を奴隷にする。(日本では様々な形でこのシステムで生き残れない絶望を感じた者たちが次々自殺を余儀なくされる。)性の奴隷として物化される子供たちの存在は、彼らのSEXを買う存在を問題にしなければならないだろう。人間の果てしない欲望の存在を否定できないが、それでも個人の意志を越えた強制されたSEXを余儀なくされる構造の残酷さをこの社会(世界)は阻止できないーー!なぜ?
世界が格差で成り立つ現実がある。経済も政治も文化も格差で成り立つ世界の歪み・矛盾・残酷さがあり、それは相も変わらず貫かれている。しかし、構造の中の弱者はモノ化された存在の循環を永遠に生きたいとは思わない。
弱者は物申さなければならない。絶えず声を上げ、行動し、どこに是非があるのか示さなければならない。人間としての権利を主張しなければならない。世界に!女は主体として生きる権利を主張しつづけなければならない。女は男の慰安としての性のオブジェクトではない。所有物でもない。自らの欲望を主張し主体として主体の男とかかわることが要求されよう。疎外され続けるセクシュアリティーの本来の愛を男女共に求めることが求められているのだろう。(ひとまずここで終了だが、ただことばを書きならべてきたようだ。吟味はこれからーー!)参考文献を読むわけでもなく、この論調に問題はあろうかと思うがーーここで止めたい。辻遊郭と表象などをこれからじっくり見据えていく上で、もう少し検証することになると思う。認識不足の点など、ご指摘をいただけたらと思う。
<写真はアジアのシェイクスピア『リア王』>
*******追記*******
上記の文を書きながら、以前やはり医学部の学生が発表資料として配布していたThe Geneva
Conventionのことが気になっていた。第二次世界大戦後に戦時中の人権侵害を鑑みて、国際的な取り決めをさらに付け加えた条項である。1949年に発令されている。下の条項によると、第二次世界大戦に起こったいかなる女性・子供を含む一般市民、犠牲(弱)者に対するこの間戦争だから当然人間の究極的本能の悪と想像できる(現に人間が行ってきた恐ろしい)行為を是とせず、戦争中、敵国の人間であっても、一般住民や捕虜に対して彼らの人権や名誉を保護することが掲げられている。具体的には女性に対するレイプや強制売春など、どんな形であれ、女性の名誉を汚す行為を禁止している。日本軍の悪名高い従軍慰安婦制度(強制的管理売春)を教訓としている条項に見える。しかし、その後の数々の戦争や民族紛争をふり返ると、このThe Geneva Conventionが必ずしも生かされていないことが明らかである。ユーゴ紛争やカンボジアやアフリカでの虐殺や民族戦争・内乱など、従来の慣例(非道さ)がこれでもかとニュースは伝えてきた!しかし、この条文(第27章)の存在は、人間が変わりえることを示していると考えたい!
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The 1864 treaty of the First Geneva Convention comprise four treaties and three additional protocols that set the standards in international law for humanitarian treatment of the victims of war. The singular term Geneva Convention refers to the agreements of 1949, negotiated in the aftermath of World War II, updating the terms of the first three treaties and adding a fourth treaty. The language is extensive, with articles defining the basic rights of those captured during a military conflict, establishing protections for the wounded, and addressing protections for civilians in and around a war zone. The treaties of 1949 have been ratified, in whole or with reservations, by 194 countries.[1]
“ Protected persons are entitled, in all circumstances, to respect for their persons, their honour, their family rights, their religious convictions and practices, and their manners and customs. They shall at all times be humanely treated, and shall be protected especially against all acts of violence or threats thereof and against insults and public curiosity. Women shall be especially protected against any attack on their honour, in particular against rape, enforced prostitution, or any form of indecent assault. Without prejudice to the provisions relating to their state of health, age and sex, all protected persons shall be treated with the same consideration by the Party to the conflict in whose power they are, without any adverse distinction based, in particular, on race, religion or political opinion. However, the Parties to the conflict may take such measures of control and security in regard to protected persons as may be necessary as a result of the war. ”
—- Article 27, Fourth Geneva Convention