『オリエンタリズムとジェンダー「蝶々夫人」の系譜』は示唆的だった!「八月十五夜の茶屋」との関係で読んだが、以前「沖縄の蝶々夫人」の題で研究発表したことがあり、蝶々夫人のオペラから「ミス・サイゴン」のDVDやCDまで観たり聞いたりしたのだが、この間...
懐かしい!ですね。先日A先生が沖縄の人間は議論になじまないと話された。相手の論文の批判もしないとのことだった。許し合うが、しかし徹底的に学問上は無視するのだという。なるほどですね。なぁなぁですますのですか?玉石混交で学生たちにはどの文献を使い、どの文献を無視するか教えるとのことだった。ハードカバーのとある研究書を取り出し、これはまったくだめで、この本はいいよ、と3冊ほど見せてくださった。なるほどです。批判もしないでいい。ただ認めないだけのことのようだ。なるほどです。後は無視ですか?京都大学から賞を得た謀先生については、一部かすめたところがあるが、しかしいいですよ、との事だった。なるほどです。新しい学問的解釈がある。それをどを実証的に組み込むか、常に問われるね。批判すると批判する方が悪い人物に見られるのが沖縄とのことだった。人の論考を批判するのも勇気や覚悟が必要とのことだ。論争があまり成り立たない沖縄とのことです!それでいいのだろうか?批評の中で鍛えられていく論理がある。もったいないね。組踊りや沖縄芝居でも論争がある。ことばのレトリックを用いた問答がある。けっこう魅力的だ。それを取り入れないのは、知的怠慢かもしれない。ただ論文の上では先行研究を取り上げないといけないので、その辺で淘汰されるね。肩書に弱い男性研究者の世界で、彼ら男性が絶対的マジョリティーだが、マイノリティーの女性たちは緻密に肩書を意識している者たちと、まったく無私に研究している方々がいると書いていいのかな?というか、圧倒的な女性研究者たちは疎外されている中で頑張っているね。優遇された男性に性転換したような女たちもいるが、この世は家父長制度で成り立っている。北欧並みに、フランス並みになるのはいつの日かな?男性性と女性性の真の自律的社会?
婚姻しない個人と個人の共同生活がまだいいのかもしれない。家族制度の変革は常に求められている。人間が個として幸せな関係を維持できる家族制度?の有り様とは?徐葆光 の話をしていて、妻と遊女の関係が出て面白かった。真面目なお顔で妻には求められないものを、才知や愛情、悦楽を遊女のような存在に求める話しが進んでいた。妻は家政婦で子供を産む役割でそれ以上でも以下でもないような、ニュアンスで、なるほど、でした。才知ある妻たちは?夫を超えていくのだろうか?そういえば知人たちでいいキャリアをもっている女たちは離婚している!医者同志のカップルもジャーナリストのカップルも、教員のカップルもー。離婚してキャリア満開は女たちかな?なぜ?