大城先生の一言は重みがあると感じている。シンポジウム「琉球と東アジアを文化圏をつなぐものー「自治」と民際学」の長丁場のシンポジウムに参加された氏は今年9月19日には87歳になられる。70代半ばから新作組踊に挑戦されたのである。その情念の底を流れているもの、実は彼こそが誰よりもウチナーンチュとしての誇りを秘めている方だということは紛れもない事実である。小説家・劇作家・評論家のお顔、それらは沖縄で生まれた者、沖縄に生まれた先祖の血と魂を引き継いできた者の沖縄を愛してやまない心の震えが感じられる。そして氏はとても率直な方である。
「正直になりましょう」という一言で十分だと思った。そして民際学はなじみがないね、ともーー。会場で氏は具体的にご自分の体験をお話になった。小説家や作家の魅力はその辺にある。知識人や評論家は論や説を語るが、実体験のことばは薄い、ゆえに造花のことばの羅列になってしまう。しかし直に創作する方々のことばは異なる。
米軍占領時代の琉球民政府の役人だった頃の体験を話したのである。そして日本政府との関係における琉球・沖縄への縛り・締め付けの法的制約、そして復帰運動の最中の「同化と異化のはざまで」を率直に書いたことに関して氏の自宅に現場の教員が押し掛けてきたことなどーー。興味深かったのは琉球処分の頃から沖縄は文部省によって大きな影響力を受けているという一言である。ひょっとしたら復帰運動を先導した沖縄の教員は文部省の指導要綱がほしかったではないか、という指摘はあながち間違ってもないのかもしれないと思った。強制的あるいは自発的に明治の近代国会に併合されていった琉球王府である。その後の過程は恩師の米須興文氏も自発的に同化していった。日本語(標準語)を学んでいったと去年講演の中で語った。(もちろん異論もあった。強制があったではないかと)
その結果としての沖縄戦の犠牲があった。日本の近代化の波の中で日本の縁(周縁)を自ら選択した琉球・沖縄の歴史、多くの犠牲を経た米軍占領の27年間、そのアメリカより日本がいいと復帰を選んだ。そして今、安易に中国への声もあると、氏は語った。自分は久米出身だと中国の出自を語る人が出てきたとの発言は、昨今の尖閣諸島問題ともからみ、また中国のGNPが世界NO2に踊り出た背景とも無縁ではないだろう。それはそれで新しい方向性も模索の中での兆候で興味深い。(中国待望論をこのブログで書いたら反応があった。王さんは擁護しているように感じられたが、表現の自由を現中国はもっと全国民に保障すべきなのでは?民と民の自由な交流も積極的に押しすすめるべきで、沖縄は歴史の経緯からしてその可能性をもっと求めるべきではないだろうか?)
つまり時代の波、時勢に常に揺り動かされてきた琉球・沖縄であり、取り巻く世界の状況の変革によってまた変わりうるということを示している。インターネット/ウィキリークスの登場など情報が即座に開示され、権力を行使し管理する側の本音のことばも漏れ出るようになったネットの力は大きい。そこから真に一般の人々が求めるありうべき民主主義なりより公平な人類の未来への可能性は大きくなったと信じたいが、まだまだそれぞれの陣営の壁も露骨であることも確かだ、開かれる民主主義は透明性の中の暴力性もあり、常に試されている。しかし王さんが東京で受けた以前の差別に対して現在日本は金を持っている中国人を大歓迎という雰囲気だとの発言は皮肉にも思えた。功利主義的、utilitarianism,あるいはopportunisticな日本人の性向を感じさせた。
国が軟体動物のように身の保全のためにすりよる相手がいる。それぞれの囲みの中で縛られる。もはやどの国も単独では存在できないこの地球でどう国を超え「第三のわれわれ」として共生しえるか?汎アジアが可能か?
しかし今朝の辺見庸の【水の透視画法】の最後は「差し色は戦場にも美しくにじむ。戦争はまたいつかはじまるだろう」である。
尖閣諸島の問題も含まれた【一瞬の差し色】夜の虹・戦争ーはペシミスティックである。
<冬の国会図書館から国会議事堂を見る3月2日11年>
【同化志向を脱けられるか】の大城先生の論稿の中で氏の言葉は率直すぎるほど率直だと感じた。作家の良心のようなものを感じた。
「琉球・沖縄のスタンスは、1879年を境にして180度の転換を遂げたと解します。独立王国が日本に併合されて、その属性が大きな変化をとげました。併合の合理性も非合理性も、ともに琉球と日本との文化同一性と非同一性によるものと思われます。私は日本復帰のころに、沖縄の民衆は本土との同化と異化のはざまにゆれている、と発言して、復帰一辺倒の人や復帰反対の人たちに嫌われましたが、このヌエ的な性格は1879年の琉球処分の最中に、すでに日本政府と琉球政府の双方に理解されていたようで、当時の議論のなかにはっきり記録されています。1970年代の日本復帰のころそうだったのみならず、今日なお厳然と息づいています」と始まる。氏は作家としてことばと格闘したことや、ヤマトゥウチナーグチのことや【日本の近代とはウチナーグチがヤマトゥウチナーグチに浸食される過程」など、またウチナーグチをいかに日本語の文体として生かすか、目取真俊は、なお飛躍した達成を見せているとの評価もーー。新作組踊が新しいウチナーグチだと半田一郎先生が話したことなど。最後に「大かたのウチナーンチュが独立を夢見ていますが、その理念を立てる上で、どの程度に日本の文化的な、つまりよろずの生活方法において、自立し得るか、十分に問題を意識してかかる必要があると思います」と結んでいる。
できれば地元の新聞社が氏の了承を得て全文を掲載してほしいと思う。大城氏の慧眼・率直さはいつでも得るところが大きい。
「正直になりましょう」という一言で十分だと思った。そして民際学はなじみがないね、ともーー。会場で氏は具体的にご自分の体験をお話になった。小説家や作家の魅力はその辺にある。知識人や評論家は論や説を語るが、実体験のことばは薄い、ゆえに造花のことばの羅列になってしまう。しかし直に創作する方々のことばは異なる。
米軍占領時代の琉球民政府の役人だった頃の体験を話したのである。そして日本政府との関係における琉球・沖縄への縛り・締め付けの法的制約、そして復帰運動の最中の「同化と異化のはざまで」を率直に書いたことに関して氏の自宅に現場の教員が押し掛けてきたことなどーー。興味深かったのは琉球処分の頃から沖縄は文部省によって大きな影響力を受けているという一言である。ひょっとしたら復帰運動を先導した沖縄の教員は文部省の指導要綱がほしかったではないか、という指摘はあながち間違ってもないのかもしれないと思った。強制的あるいは自発的に明治の近代国会に併合されていった琉球王府である。その後の過程は恩師の米須興文氏も自発的に同化していった。日本語(標準語)を学んでいったと去年講演の中で語った。(もちろん異論もあった。強制があったではないかと)
その結果としての沖縄戦の犠牲があった。日本の近代化の波の中で日本の縁(周縁)を自ら選択した琉球・沖縄の歴史、多くの犠牲を経た米軍占領の27年間、そのアメリカより日本がいいと復帰を選んだ。そして今、安易に中国への声もあると、氏は語った。自分は久米出身だと中国の出自を語る人が出てきたとの発言は、昨今の尖閣諸島問題ともからみ、また中国のGNPが世界NO2に踊り出た背景とも無縁ではないだろう。それはそれで新しい方向性も模索の中での兆候で興味深い。(中国待望論をこのブログで書いたら反応があった。王さんは擁護しているように感じられたが、表現の自由を現中国はもっと全国民に保障すべきなのでは?民と民の自由な交流も積極的に押しすすめるべきで、沖縄は歴史の経緯からしてその可能性をもっと求めるべきではないだろうか?)
つまり時代の波、時勢に常に揺り動かされてきた琉球・沖縄であり、取り巻く世界の状況の変革によってまた変わりうるということを示している。インターネット/ウィキリークスの登場など情報が即座に開示され、権力を行使し管理する側の本音のことばも漏れ出るようになったネットの力は大きい。そこから真に一般の人々が求めるありうべき民主主義なりより公平な人類の未来への可能性は大きくなったと信じたいが、まだまだそれぞれの陣営の壁も露骨であることも確かだ、開かれる民主主義は透明性の中の暴力性もあり、常に試されている。しかし王さんが東京で受けた以前の差別に対して現在日本は金を持っている中国人を大歓迎という雰囲気だとの発言は皮肉にも思えた。功利主義的、utilitarianism,あるいはopportunisticな日本人の性向を感じさせた。
国が軟体動物のように身の保全のためにすりよる相手がいる。それぞれの囲みの中で縛られる。もはやどの国も単独では存在できないこの地球でどう国を超え「第三のわれわれ」として共生しえるか?汎アジアが可能か?
しかし今朝の辺見庸の【水の透視画法】の最後は「差し色は戦場にも美しくにじむ。戦争はまたいつかはじまるだろう」である。
尖閣諸島の問題も含まれた【一瞬の差し色】夜の虹・戦争ーはペシミスティックである。
<冬の国会図書館から国会議事堂を見る3月2日11年>
【同化志向を脱けられるか】の大城先生の論稿の中で氏の言葉は率直すぎるほど率直だと感じた。作家の良心のようなものを感じた。
「琉球・沖縄のスタンスは、1879年を境にして180度の転換を遂げたと解します。独立王国が日本に併合されて、その属性が大きな変化をとげました。併合の合理性も非合理性も、ともに琉球と日本との文化同一性と非同一性によるものと思われます。私は日本復帰のころに、沖縄の民衆は本土との同化と異化のはざまにゆれている、と発言して、復帰一辺倒の人や復帰反対の人たちに嫌われましたが、このヌエ的な性格は1879年の琉球処分の最中に、すでに日本政府と琉球政府の双方に理解されていたようで、当時の議論のなかにはっきり記録されています。1970年代の日本復帰のころそうだったのみならず、今日なお厳然と息づいています」と始まる。氏は作家としてことばと格闘したことや、ヤマトゥウチナーグチのことや【日本の近代とはウチナーグチがヤマトゥウチナーグチに浸食される過程」など、またウチナーグチをいかに日本語の文体として生かすか、目取真俊は、なお飛躍した達成を見せているとの評価もーー。新作組踊が新しいウチナーグチだと半田一郎先生が話したことなど。最後に「大かたのウチナーンチュが独立を夢見ていますが、その理念を立てる上で、どの程度に日本の文化的な、つまりよろずの生活方法において、自立し得るか、十分に問題を意識してかかる必要があると思います」と結んでいる。
できれば地元の新聞社が氏の了承を得て全文を掲載してほしいと思う。大城氏の慧眼・率直さはいつでも得るところが大きい。