冒頭の「アメリカは、ひとつの国家であると同時にひとつの巨大なプロブレマティックス(問題群)であり続けている。それはアメリカが非アメリカ世界に向けて放出し続けるイメージと、アメリカを受け止める非アメリカ側のイメージとの複合から生まれる問題粋としてアメリカをめぐるイデオロギーの産出基盤となっており、またアメリカ内部においても同様のプロブレマティクスが程度の差はあれ共有されているものと考えられる」の言説はいいと感じた。
「地名の詩学」は興味深かった。地名の上書き行為はなるほどと思えた。1853年にペリーが琉球王国に勝手にやってきて勝手に測量をして勝手に地名を付けたことが、コロンブスの行為、ユーロ・アメリカンの行為に重なった(命名=所有行為)。ペリー提督の部下が残したマップも実証的でいい。トランスナショナル、ポストナショナルな志向性がどの分野でも視座に置かれているという事などは納得がいく。しかし、惑星思考の鍛造が昨今の未来主義にも呼応するのかどうか?よく知らないが、惑星思考がこの地球を一つの貴重な★惑星として見据える志向性のことだと理解してもそれが地球や世界やグローバル(化)の言語とどう異なるのか?よく見えてこない。惑星ということばはまた宇宙時代の到来を意識させるが、なんとなく馴染めない語・概念である。
( 実はこの惑星思考がよく分からなくて、調べてみたら、どうもアメリカ文学の批評理論の一つらしくて、ネットで巽孝之氏の「アメリカ文学研究の現状と課題ーー脱構築から惑星思考へ」の論文を読んで概要がつかめた。このアメリカ文化学シリーズでは盛んに惑星思考や惑星的という言語が登場するが、不親切である。仲間内の了解で一般読者を惑わしているのらしい。
さてその論は21世紀の比較文学理論で、例の沖縄で旅の途中倒れて講演が中止になったインド系アメリカ人批評家・コロンビア大学教授ガヤトリ・スピヴァクが提唱する【惑星思考】Planetarityなのらしい。巽氏の論によると、【惑星というのは、集合的責任=応答可能性を権利として記銘するための灌喩なのである。~一言でいえばそれは不可能なものの経験なのだ】と説明し、惑星思考の根本に「まったく異なる文化同士の対話と責任=応答可能性が前提されている」とある。
理解できたのは地球総体に対する責務であり係わりをもつことだという事だが、別に新しい論というイメージがわかない。アメリカ軍事帝国が非アメリカ圏に対する傲岸さがあり、文芸批評もその後追いでそうした政治・経済システムへの逆反射なのか、と感じる。さらに検索をしてみるとスピヴァクの著書【ある学問の死 惑星的思考と新しい比較文学】に行きついた。その本に対するコメントが以下である。)
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【ある学問の死 惑星的思考と新しい比較文学】 (みすず書房、2004年)
この本は一言で言うと「カルチュラル・スタディーの教祖」による自己批判の書だと思う。
要するに彼女はこの本の中でこう語っているのだ。われわれはこれまで「サバルタンの立場で語ることは可能か」とかいろいろ言ってきたけど、結局は英米の大都市のサロン的な雰囲気のもとでの高尚な文学談義の域を一歩も出ていなくて、第三世界の言語を習得してそのテクストを発掘しようとしたり、そのフィールドに足を踏み入れて人々の「語り」にじかに耳を傾けたり、といったことをほとんどしてきてこなかった。だから結局のところこれまで自分たちの仲間うち以外では通じないような小難しい議論を展開することしかできなかったんじゃないか。そういう意味では、アメリカの覇権主義と資本主義の尖兵でしかなかったかもしれないけど、しっかり現地言語を学んでフィールドに足を運び、せっせと「厳密な」学問的成果を発表してきた地域研究の「勤勉さ」を見習うべきなんじゃないか、と。いわば頭でっかちで汗をかくのが嫌いだったカルスタの人が、頭悪そうだけど勤勉で実直な地域研究者の仕事振りをみて、自分達は結局キリギリスにしかすぎないんじゃないか、冬が来たら飢え死にしちゃうんじゃないか、ということにようやく気が付いた、という構図である。
スピヴァク自身はそれほどたいした思想家でもないと思うけど、自分たちの立ち位置が危機的状況にあるということを正確に認識しているだけ、ノー天気な彼女の取り巻き連中よりは数倍マシだと思う。
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本論に戻る。
比喩としての詩学、地理表象としての地名の詩学である。場所と空間の定義などもあり、興味を惹いた。地名の成り立ちがどこに由来するのか、見えてくる。
土地(シニフィアン)風景(シニフィェ)などもなるほどである。必要に応じて丁寧に読みたい。
Sue-Ellen Caseの【 Feminism and Theatre】という本がある。日本語に翻訳されていない。【フェミニズムと演劇】である。
アリストテレスの【詩学】Poeticsに挑んでいる演劇論である。つまり新しいフェミニズム詩学(a new poetics)を展開している。A Feminist Poetics of Theatreである。それからすると山里勝己さんのこの【地名の詩学】は、ユーロ・アメリカンたちが介入した地名の発端(あるいは地名の上書き)への眼差しは面白いが、従来のアリストテレスの視点、つまり男の視点である。もっともロゴスは男が支配してきたものであり、女は常に他者であったわけで、土地はまた女性(性)として横たわっていて征服される存在でもあったと言える。その辺のジェンダー的視点は展開されない。地名の復権がなされる。深い時間へと侵入していきそこからまた現・表象の形や名称を捉え直す(ゲーリー・スナイダーなどの試みを紹介する)。しかしどれだけの地名に女の感性や思考が入っているのだろうか?地名は常に権力を有する存在か、新しくフロンティアを開拓していったヒーローたちの物だったのか?(女たちは権力の主体から疎外され続けた。ビクトリア女王はどれだけ地名を命名したのだろうか。脱線)
いろいろと考えさせられる。誰が地名を付けたの?誰が命名したの?は再考する予知のある領域である。発見!はいい。
そういえば「地名辞典」がある。いつ誰がどのように地名を付けたのか?月には、月着陸したと言われる(それとも嘘?)アメリカの宇宙飛行士の名前がついている「地名」があるのだろうか?
さらにネット逍遥をするとスピヴァクとゲーリー・スナイダーの接点が分かった。山里勝己さんが惑星思考に言及する根拠が、彼が研究するスナイダーの思考の中に惑星思考がすでに萌芽としてあったという事なのだろう。なるほど!でもはやり馴染めないことばですね。距離感と違和感はなぜだろう?この麗しき地球惑星!(以下は引用だが、サイトのURLもUPした!)
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「惑星的思考」が一国文化主義批判であり、世界文学の視点に連なるものであることは疑い得ない。実際、国境や文化圏の境界を越えてアメリカ文学・文化等を研究することの必要性(例えば環太平洋、環大西洋アメリカ研究)は昨今さまざまなところで叫ばれている。しかし、そのような構想はしばしば、アメリカ文化の画一的世界化と見なせなくもない「グローバル化」を連想させる類の、つまり、複数地域、文化圏等の均質化とそれに伴う異質なる者の忘却や無視をもたらす世界観と結びつけられる危険性がある。(この点で、例えばメルヴィルの『白鯨』のジョン・ヒューストンによる映画化において [脚本レイ・ブラッドベリー]、ペルシャを追われてインドに住むことになった拝火教徒の末裔フェダラーの存在が消し去られているという事態は示唆的である。)そこで、異文化・異質なものを射程に収める新しい比較文学・文化研究においては、「グローバル」という言葉を避けて、「惑星的」という言葉を用い、国籍・文化等を異にする他者の存在に注目し、また、地球という惑星に住まう動物その他の生物の存在にも着目しつつ、研究対象(テクスト)に向かうことが求められる。
「惑星的」という言葉を著書で用いたスピヴァクは、講師の巽さんによれば、スナイダーに教えを受けていたそうだが、この言葉がスナイダーの思考を踏まえたものであるのなら、例えば、アメリカ大陸を「亀の島」と呼んで、かつての先住民の視点からこれを眺めたり、地球を人のみならず種々の生物の住む household とみなしたりする彼の見解が、この「惑星的」という言葉のうちにエコーとして響いているのだと思う。ワイチー・ディモックがエコクリティシズムの大家ロレンス・ビュエルと共著を出していることも、こうした言葉の成り立ちをよく物語るものであろうし、ソローの『ウォールデン』に出てくるカエルの鳴き声への着目も、この文脈に置かれると意義深い。また、地球をこのように「惑星」という視点で眺めることは、現時点での国境や文化の境界線にとらわれず、1000年、2000年、さらにはもっともっと長い時間(ディモックの言う deep time)を経てきたこの惑星の様々な姿を想像させることになるだろう。現在の姿とは異なる姿を示していた世界を想像することによって、現在の世界では見逃されがちな様々な他者の存在に思いをいたすという、「惑星的思考」の通時的側面の意義は案外忘れられがちであるように思う。
「惑星的」というと、どうしてもポストコロニアリズム的思考と連結される傾向が強いように感じるが、巽さんも指摘されたように、「惑星的思考」には様々な発展形が考えられるわけであり、今後それが様々な形の批評的実践として実を結んでいくのだろう。
≪firecats & dogs≫
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ということのようです。つまり、やはり大きな地球総体を見据えた思考という事には変りないようですが、惑星的思考!?
ところでゲーリー・スナイダーの著書のタイトルが【惑星の未来を想像する者たちへ】(山の渓谷社、2000年)である。その一部を紹介したい。
「わたしたちの希望は相互に浸透し合う領域を理解し、わたしたちがどこにいるかを学び、そうすることによって地球全体を視野に入れたエコロジカルなコスモポリタニズムの生き方を確立することにある。そのためには、身軽に、慈悲深く、高潔さを保ちながら心は激しく、「野生の精神」の自らを律するエレガンスをもって生きていきたまえ」(ゲーリー・スナイダー『惑星の未来を想像する者たちへ』)
「エコロジカルなコスモポリタニズム」の響きは惑星的思考よりはるかにいいと思う。
同じ流れでとてもいい総論が目に入ってきた。2008年に「日本アメリカ文学会」で開催されたシンポジウムの概要がとてもいい解説になっている。<惑星思考のアメリカ文学>九州支部発題である。サイトは日本アメリカ文学会
例えばあらゆる事象を地球総体の中で見据える視点と理解した。アメリカの奴隷制度が地球全体をカバーするシステムの一部でしかないということなど総体的、相対的に見据える視点が問われているということになるのだろう。しかし惑星という語にやはり馴染めないのはなぜだろうか?国の境界を超えるという思考はしかしスナイダーに限ったものではない。越境、トランスナショナルやポストナショナル、マルチカルチャリズム、クロスカルチャりズムなど、全体を見据えた個々の係わりが模索されていると実際に感じる昨今である。地球=惑星=人類の未来=宇宙空間への挑戦?地球内部の矛盾・問題の解決へとひたすら向かう。そして止揚していくものーーー?場所の感覚?、どの場も地球の中心、誰でも住んでいるところが中心である。この地球の天体の中ではーー。
何となく惑星思考、惑星的のニュアンスは分かってきた。しかしやはり今あるこの場で何を成すかが問われているのだろう。そしてこの場から究極的真実の追求、究極的良識の在り方を問うことが大切という事に尽きる。
「地名の詩学」は興味深かった。地名の上書き行為はなるほどと思えた。1853年にペリーが琉球王国に勝手にやってきて勝手に測量をして勝手に地名を付けたことが、コロンブスの行為、ユーロ・アメリカンの行為に重なった(命名=所有行為)。ペリー提督の部下が残したマップも実証的でいい。トランスナショナル、ポストナショナルな志向性がどの分野でも視座に置かれているという事などは納得がいく。しかし、惑星思考の鍛造が昨今の未来主義にも呼応するのかどうか?よく知らないが、惑星思考がこの地球を一つの貴重な★惑星として見据える志向性のことだと理解してもそれが地球や世界やグローバル(化)の言語とどう異なるのか?よく見えてこない。惑星ということばはまた宇宙時代の到来を意識させるが、なんとなく馴染めない語・概念である。
( 実はこの惑星思考がよく分からなくて、調べてみたら、どうもアメリカ文学の批評理論の一つらしくて、ネットで巽孝之氏の「アメリカ文学研究の現状と課題ーー脱構築から惑星思考へ」の論文を読んで概要がつかめた。このアメリカ文化学シリーズでは盛んに惑星思考や惑星的という言語が登場するが、不親切である。仲間内の了解で一般読者を惑わしているのらしい。
さてその論は21世紀の比較文学理論で、例の沖縄で旅の途中倒れて講演が中止になったインド系アメリカ人批評家・コロンビア大学教授ガヤトリ・スピヴァクが提唱する【惑星思考】Planetarityなのらしい。巽氏の論によると、【惑星というのは、集合的責任=応答可能性を権利として記銘するための灌喩なのである。~一言でいえばそれは不可能なものの経験なのだ】と説明し、惑星思考の根本に「まったく異なる文化同士の対話と責任=応答可能性が前提されている」とある。
理解できたのは地球総体に対する責務であり係わりをもつことだという事だが、別に新しい論というイメージがわかない。アメリカ軍事帝国が非アメリカ圏に対する傲岸さがあり、文芸批評もその後追いでそうした政治・経済システムへの逆反射なのか、と感じる。さらに検索をしてみるとスピヴァクの著書【ある学問の死 惑星的思考と新しい比較文学】に行きついた。その本に対するコメントが以下である。)
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【ある学問の死 惑星的思考と新しい比較文学】 (みすず書房、2004年)
この本は一言で言うと「カルチュラル・スタディーの教祖」による自己批判の書だと思う。
要するに彼女はこの本の中でこう語っているのだ。われわれはこれまで「サバルタンの立場で語ることは可能か」とかいろいろ言ってきたけど、結局は英米の大都市のサロン的な雰囲気のもとでの高尚な文学談義の域を一歩も出ていなくて、第三世界の言語を習得してそのテクストを発掘しようとしたり、そのフィールドに足を踏み入れて人々の「語り」にじかに耳を傾けたり、といったことをほとんどしてきてこなかった。だから結局のところこれまで自分たちの仲間うち以外では通じないような小難しい議論を展開することしかできなかったんじゃないか。そういう意味では、アメリカの覇権主義と資本主義の尖兵でしかなかったかもしれないけど、しっかり現地言語を学んでフィールドに足を運び、せっせと「厳密な」学問的成果を発表してきた地域研究の「勤勉さ」を見習うべきなんじゃないか、と。いわば頭でっかちで汗をかくのが嫌いだったカルスタの人が、頭悪そうだけど勤勉で実直な地域研究者の仕事振りをみて、自分達は結局キリギリスにしかすぎないんじゃないか、冬が来たら飢え死にしちゃうんじゃないか、ということにようやく気が付いた、という構図である。
スピヴァク自身はそれほどたいした思想家でもないと思うけど、自分たちの立ち位置が危機的状況にあるということを正確に認識しているだけ、ノー天気な彼女の取り巻き連中よりは数倍マシだと思う。
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本論に戻る。
比喩としての詩学、地理表象としての地名の詩学である。場所と空間の定義などもあり、興味を惹いた。地名の成り立ちがどこに由来するのか、見えてくる。
土地(シニフィアン)風景(シニフィェ)などもなるほどである。必要に応じて丁寧に読みたい。
Sue-Ellen Caseの【 Feminism and Theatre】という本がある。日本語に翻訳されていない。【フェミニズムと演劇】である。
アリストテレスの【詩学】Poeticsに挑んでいる演劇論である。つまり新しいフェミニズム詩学(a new poetics)を展開している。A Feminist Poetics of Theatreである。それからすると山里勝己さんのこの【地名の詩学】は、ユーロ・アメリカンたちが介入した地名の発端(あるいは地名の上書き)への眼差しは面白いが、従来のアリストテレスの視点、つまり男の視点である。もっともロゴスは男が支配してきたものであり、女は常に他者であったわけで、土地はまた女性(性)として横たわっていて征服される存在でもあったと言える。その辺のジェンダー的視点は展開されない。地名の復権がなされる。深い時間へと侵入していきそこからまた現・表象の形や名称を捉え直す(ゲーリー・スナイダーなどの試みを紹介する)。しかしどれだけの地名に女の感性や思考が入っているのだろうか?地名は常に権力を有する存在か、新しくフロンティアを開拓していったヒーローたちの物だったのか?(女たちは権力の主体から疎外され続けた。ビクトリア女王はどれだけ地名を命名したのだろうか。脱線)
いろいろと考えさせられる。誰が地名を付けたの?誰が命名したの?は再考する予知のある領域である。発見!はいい。
そういえば「地名辞典」がある。いつ誰がどのように地名を付けたのか?月には、月着陸したと言われる(それとも嘘?)アメリカの宇宙飛行士の名前がついている「地名」があるのだろうか?
さらにネット逍遥をするとスピヴァクとゲーリー・スナイダーの接点が分かった。山里勝己さんが惑星思考に言及する根拠が、彼が研究するスナイダーの思考の中に惑星思考がすでに萌芽としてあったという事なのだろう。なるほど!でもはやり馴染めないことばですね。距離感と違和感はなぜだろう?この麗しき地球惑星!(以下は引用だが、サイトのURLもUPした!)
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「惑星的思考」が一国文化主義批判であり、世界文学の視点に連なるものであることは疑い得ない。実際、国境や文化圏の境界を越えてアメリカ文学・文化等を研究することの必要性(例えば環太平洋、環大西洋アメリカ研究)は昨今さまざまなところで叫ばれている。しかし、そのような構想はしばしば、アメリカ文化の画一的世界化と見なせなくもない「グローバル化」を連想させる類の、つまり、複数地域、文化圏等の均質化とそれに伴う異質なる者の忘却や無視をもたらす世界観と結びつけられる危険性がある。(この点で、例えばメルヴィルの『白鯨』のジョン・ヒューストンによる映画化において [脚本レイ・ブラッドベリー]、ペルシャを追われてインドに住むことになった拝火教徒の末裔フェダラーの存在が消し去られているという事態は示唆的である。)そこで、異文化・異質なものを射程に収める新しい比較文学・文化研究においては、「グローバル」という言葉を避けて、「惑星的」という言葉を用い、国籍・文化等を異にする他者の存在に注目し、また、地球という惑星に住まう動物その他の生物の存在にも着目しつつ、研究対象(テクスト)に向かうことが求められる。
「惑星的」という言葉を著書で用いたスピヴァクは、講師の巽さんによれば、スナイダーに教えを受けていたそうだが、この言葉がスナイダーの思考を踏まえたものであるのなら、例えば、アメリカ大陸を「亀の島」と呼んで、かつての先住民の視点からこれを眺めたり、地球を人のみならず種々の生物の住む household とみなしたりする彼の見解が、この「惑星的」という言葉のうちにエコーとして響いているのだと思う。ワイチー・ディモックがエコクリティシズムの大家ロレンス・ビュエルと共著を出していることも、こうした言葉の成り立ちをよく物語るものであろうし、ソローの『ウォールデン』に出てくるカエルの鳴き声への着目も、この文脈に置かれると意義深い。また、地球をこのように「惑星」という視点で眺めることは、現時点での国境や文化の境界線にとらわれず、1000年、2000年、さらにはもっともっと長い時間(ディモックの言う deep time)を経てきたこの惑星の様々な姿を想像させることになるだろう。現在の姿とは異なる姿を示していた世界を想像することによって、現在の世界では見逃されがちな様々な他者の存在に思いをいたすという、「惑星的思考」の通時的側面の意義は案外忘れられがちであるように思う。
「惑星的」というと、どうしてもポストコロニアリズム的思考と連結される傾向が強いように感じるが、巽さんも指摘されたように、「惑星的思考」には様々な発展形が考えられるわけであり、今後それが様々な形の批評的実践として実を結んでいくのだろう。
≪firecats & dogs≫
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ということのようです。つまり、やはり大きな地球総体を見据えた思考という事には変りないようですが、惑星的思考!?
ところでゲーリー・スナイダーの著書のタイトルが【惑星の未来を想像する者たちへ】(山の渓谷社、2000年)である。その一部を紹介したい。
「わたしたちの希望は相互に浸透し合う領域を理解し、わたしたちがどこにいるかを学び、そうすることによって地球全体を視野に入れたエコロジカルなコスモポリタニズムの生き方を確立することにある。そのためには、身軽に、慈悲深く、高潔さを保ちながら心は激しく、「野生の精神」の自らを律するエレガンスをもって生きていきたまえ」(ゲーリー・スナイダー『惑星の未来を想像する者たちへ』)
「エコロジカルなコスモポリタニズム」の響きは惑星的思考よりはるかにいいと思う。
同じ流れでとてもいい総論が目に入ってきた。2008年に「日本アメリカ文学会」で開催されたシンポジウムの概要がとてもいい解説になっている。<惑星思考のアメリカ文学>九州支部発題である。サイトは日本アメリカ文学会
例えばあらゆる事象を地球総体の中で見据える視点と理解した。アメリカの奴隷制度が地球全体をカバーするシステムの一部でしかないということなど総体的、相対的に見据える視点が問われているということになるのだろう。しかし惑星という語にやはり馴染めないのはなぜだろうか?国の境界を超えるという思考はしかしスナイダーに限ったものではない。越境、トランスナショナルやポストナショナル、マルチカルチャリズム、クロスカルチャりズムなど、全体を見据えた個々の係わりが模索されていると実際に感じる昨今である。地球=惑星=人類の未来=宇宙空間への挑戦?地球内部の矛盾・問題の解決へとひたすら向かう。そして止揚していくものーーー?場所の感覚?、どの場も地球の中心、誰でも住んでいるところが中心である。この地球の天体の中ではーー。
何となく惑星思考、惑星的のニュアンスは分かってきた。しかしやはり今あるこの場で何を成すかが問われているのだろう。そしてこの場から究極的真実の追求、究極的良識の在り方を問うことが大切という事に尽きる。