オリンピックのエンブレム騒動ですね
先日の天声人語にありました
「模倣小僧」という芳(かんば)しからぬ呼ばれ方をしたのは、若き十代の寺山修司だった。
みずみずしい感性でうたった短歌の数々が脚光を浴びた。
多くの目に触れるうちに盗作を非難する声があがった「事件」は、文学史上よく知られる
▼〈向日葵(ひまわり)の下に饒舌(じょうぜつ)高きかな人を訪(と)わずば自己なき男〉。
これには俳人の中村草田男に〈ひとを訪はずば自己なき男月見草〉の先行作があった。
ほかにも多々指摘された。たとえば〈わが天使なるやも知れぬ小雀(こすずめ)を撃ちて硝煙嗅ぎつつ帰る〉
▼これは西東三鬼(さいとうさんき)の〈わが天使なりやおののく寒雀(かんすずめ)〉に
似ていると。批判を浴びて歌人寺山は消えてもおかしくなかったが、
そうはならず、歌は今も愛誦(あいしょう)されている。
この種の騒ぎの収まり方には実に微妙なものがある
▼東京五輪のエンブレム問題はどう収まるのか。
盗用との指摘に対してデザイナーの佐野研二郎氏は「事実無根」だと反論する。
騒ぎの中で、佐野氏が監修した景品用のバッグにも指摘があり、
スタッフが他者の作品を写したことを認めた
▼大切なのは、今後エンブレムに「国民の愛着」という生命が吹き込まれるかどうかだろう。
著作権などの専門的な判断はともかく、国民が興ざめしてしまっては存在感は薄くなる
▼ついでながら、子規の名高い〈柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺〉は、
親友の漱石が先に作っていた〈鐘つけば銀杏(いちょう)ちるなり建長寺〉を
発展させて詠まれたという。
触発し、触発される。人が行う創作行為には当然そうした面がある。
これは天声人語氏は肯定しているのかしら?
微妙な表現ですね
26日のヤホオニュースで選考委員のじじいが
「模倣ではない」とか
火消しにやっきですが
もういったんついた、手垢は取れないですね
わたしも気に入りません
なにが気に入らないか?
デザインの良し悪しなんかわかりませんが
佐野研二郎っていう人間の顔が嫌い
目つきが悪い
生理的に無理
あんな目つきをした人間は、信用が置けない。
ただそれだけ。
あのエンブレム見るたびに
あいつの顔が浮かんでくるとは
トラウマですね