![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/ba/d834e4ab5618ad8856efbd5009143544.jpg)
6日目はバスで再びマチュピチュ遺跡に上がり、私たちは終日見学した。日本から来る観光客の多くは、朝クスコから鉄道で入り、バスでマチュピチュへ上がり、2時間だけ見学して、夕方マチュピチュの町で夕食を済ませ、鉄道でクスコに戻るというコースが多いときいた。そんな・・とてももったいない・・・
“マチュピチュの町は、インカの時代(15世紀)の代表的な建造物のなかでも、時の経過と自然現象による影響にも拘わらず、著しい破壊を免れた数少ない遺跡のひとつである”とにかく“一見に如かず”というのみである・・・と解説書にある。それを実感した一日であった。
マチュピチュの言葉の意味;
Machupiccyuとは「古い山」を意味するケチュア語の複合語であり、同じ名前の考古学的遺跡のある山の名前。上の写真の奥の山はワイナピチュWaynapicchuといい、その意味は「若い山」である。この遺跡はマチュピチュ・標高3,010mとワイナピチュ・2,650mの間の尾根につくられている。
そのワイナピチュの対面にある山、マチュピチュは↓
この二つの山にも登山道はつけられている。特にワイナピチュに登って、そこからマチュピチュを眺めて見たいと思った。しかし、それには何ヶ月も前に予約が必要で、一日午前200人、午後200人しか山に入れないということだった。両方の山に登りたい場合はもう一日必要なのだ。
マチュピチュにおける空間の配置;
“大きく2つの部分に分けられ、市街区と農業区に区別されている。それぞれの区域はまた二つずつの区域、上部と下部に分けられおり、貴族と専門家の住居、神殿、ワカス(聖域)、工房、貯蔵庫などの19の市街居住区と13の農業区域、一つの中央広場、二つの小さな広場ならびに8本の道路からなっている・・・”
まず、市街区から見学が始まった。5日目~7日目まで3日間お世話になったペルー人女性ガイド嬢〇〇さんは英語解説してくれ、それをツアリーダーのオン・ジ・アース社長が日本語にという具合・・。沢山のことをガイドしてもらったが、ここではそのごく一部のことしか書くことができない・・というか未消化なので書けないのである。
石釘の役割は石垣の外に出ている場合は屋根を支える材木を渡すこと、室内にある場合は宗教道具や家庭用品を吊るした。屋根は藁で葺かれているが、この藁屋根はせいぜい5年ほどしか持たなかっただろうと。
水道、下水設備
水はマチュピチュの山から導かれ、一年中不足することはなった。また、雨季の余分な水も排水設備が整っていた。何百もの下水路がはりめぐらされており、石垣が崩れることを防ぐことができたのだろうと。
石垣の構造; 今まで歩いて観てきたどの遺跡と同じように、ここの石垣の構造も非常に精緻にできていた。
しかし、尾根の上部にあった建造物だけは、このようにズレかかっていた。まだ、建築途上だったためか、尾根が動いたたなのか不明だという。
この建物は主神殿で、おそらく正座の観測場所であったと考えられている。この場所から天の川の大部分と南十字星が観察できる。
天文学的な標石のいくつか;インティワタナ
宗教的かつ天体観測の道具であり、太陽や月の光りで映し出される影は、暦の上で様々な意味をもつものとして解釈されるという。
垂直の突起部分は、太陽が頂点に来る瞬間には、投影する影がなくなるが、この現象は平均して2月14日と10月30日に起こる。
これは南十字星を模っていて・・・とガイド女史はコンパスを使って説明してくれた。
水鏡;石臼と見られていたが、天体鏡であろうと。
母なる大地の神殿・陵墓;太陽の神殿の下にあるという位置関係と階段状の標章が刻まれていることから、神のパチャママと万物の起源であるパカリナに捧げられた神殿であったと・・・。
リャマが放飼いされていた。
ワイナピチュへの入口;
またの機会に登ってみたいですね。
まだまだ沢山写真が残っており、書きたい材料はあります。後日、追記しますから、興味のある方はのぞいて見てくださいませ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます