その年の冬を越せなかった者も多かったのではなかろうか、北朝鮮の冬は厳しい、上野で、あちらの女性を見ることがあるが、丸々として骨が太い、あの身体でなければ零下何十度を凌げないのではあるまいか。
現在、どのくらいの人々が生き残っているのであろうか。
この帰還事業、確か、2百数十回行われたと思う、最後に近くなると、こちらにいる時に取り決めをしておく、向こうからの手紙で、名前がカタカナであれば、その手紙の内容は「ウソ」、というのは、友人・知人を北に呼び寄せるために手紙を書くことを強制され、その文面は検閲されたからだ。
到着すると、最初は、「文化住宅」のような家に入れられ、「こちらの生活は快適です」、そういう手紙を書かせられる、そのため、続々と渡ってしまったのだ。
決められた数週間が過ぎると、そこから追い出され、半島の各地に分散されていった。
現在、どのくらいの人々が生き残っているのであろうか。
この帰還事業、確か、2百数十回行われたと思う、最後に近くなると、こちらにいる時に取り決めをしておく、向こうからの手紙で、名前がカタカナであれば、その手紙の内容は「ウソ」、というのは、友人・知人を北に呼び寄せるために手紙を書くことを強制され、その文面は検閲されたからだ。
到着すると、最初は、「文化住宅」のような家に入れられ、「こちらの生活は快適です」、そういう手紙を書かせられる、そのため、続々と渡ってしまったのだ。
決められた数週間が過ぎると、そこから追い出され、半島の各地に分散されていった。