The orthodox civilization is the festival politics of Japan

「安藤真の『世界文明の正統は』」の続き、祭政は人間中心を超え物質文明を越える、これを受け継いでいるのが日本の伝統と文化

列島の山人伝説 5

2010-10-28 16:07:00 | Weblog


 明治の30年ごろまでは、山人の報告がある。

 山人の特質のひとつは身体が大きいことだが、これは、やはり寒地に適応した北方系ということだろう、生物学の法則では、同じ種のケースでは、北に行くにつれ大型化する傾向がある、例えば「クマ」、南方のマレー熊は数十キロだがヒグマやグリズリーは数百キロになり、抜群の体力を誇る、あの大きな牛を襲うのである。

 これは、トラのケースも同じで北に行くにつれ巨大化し、アムール・トラのオスは体長が3.7m・体重は300kgを越える、もう、ほとんど「神」に近く抜群の運動能力を誇る、バイコフの「偉大なるワン」には、それが詳述されていて、ほんのわずかに身を屈めるだけで10メートルをジャンプ、それは「飛ぶ」という方が適切で、人間は無力であった。

 この列島には大男の伝説があり、そして、山岳地帯に隣接したには、時折、大きな子供・鬼っ子が出現したという記録がある、あるいは、山男と関係があるのかもしれない、彼らは、戦国時代、その怪力を活かして一国一城の主になる者もあった、だが江戸に幕府が開かれてからは、どうしたのであろう。

 彼らの中には、相撲取になったものがいたのではなかろうか、5尺の身長が平均であった時代に、6尺7尺という力士がいた、そして、彼らの出自には、不明な点が多い。

列島の山人伝説 4

2010-10-22 06:25:56 | Weblog


 ヨーロッパ人タイプののクロマニオン人がシベリアを横断し、列島に到着し、南下して東北日本に定住したとすると、秋田・青森の色白の人々の説明がつく、ヨーロッパの白人の先祖と共通するという研究とも一致する。

 ところが、1万年前頃から暖かくなり、この時期から北方系の人は姿を消したらしい、
 「北方系の人は気候その他の生活環境の変化のため姿を消し、主として南方系の人が、縄文人として定住するようになった」  ― 「体から日本人の起源をさぐる」 ―

 北方系の人は姿を消し、南方系が定住するようになったという推理、確かに、ウルム氷期という地球の歴史において最も寒い気候に適した北方系の人々には、過酷な環境になった、だが、この問題を解決するためには、北方へ移住するだけではない、そう、この列島の山地や高地に移動すればいいのだ、それに、すでに海水面が上昇していた。

 だから、日本アルプスの雷鳥のように、大陸へは戻れなくなってしまった人々は山や高原地帯に移住したのではあるまいか。

列島の山人伝説 3

2010-10-18 07:02:34 | Weblog


 東北地方から、多くの旧石器時代の遺跡が発見されている、宮城県の座散乱木(ざざらぎ)遺跡は4万2000年前、多賀城市の志引遺跡は5万年前、だが、人骨が出土していないので、どんな人間であったかは、不明。

 この時代、大陸ではネアンデルタール人がマンモスや野牛を狩り、ヨーロッパから中央アジアまで進出していた、ネアンデルタール人の文化はムステリアン文化と呼ばれているが、北海道では、ムステリアン文化に属する石器は発見されていないと思う。

 だが、マンモス等の大型獣を追って南下してきたことは十分に考えられる、ところが、3万3000年前、気候が寒冷・乾燥化する、ヨーロッパでは、この気候変動を境に、旧人のネアンデルタールに変わって、新人のクロマニオンが登場する。

 この時期、日本列島と大陸とは地続きである、大陸から、馬・バイソン・ヘラジカがやって来ている、これらの動物を追い、鋭利な石器を持った連中が、続々と、渡ってきたようだ。

 すると、彼らはクロマニオンということになる、この時代、北アフリカにも分布し、世界各地で多くの化石が発見されているが、、彼らは、その地域の住民の先祖ということになり、ヨーロッパでは現在のコーカソイドに似ており、アフリカではニグロイド、アジアではモンゴロイドに似ていることになる。        ― ラスコーの壁画 ―

列島の山人伝説 2

2010-10-13 05:31:10 | Weblog


 列島の山間部に山男の伝説がある、いくつかのタイプがあるのだが、その中で特徴敵なのが、身体が大きいいうこと、これは、明らかに、平地の人々とは違っている。

 北陸地方の奇談集『北越奇談』には、人間と山男の交流のエピソードがあり、山の仕事をしている人々が、夜、山小屋で火を焚いていると、山男がやって来て、一緒に暖まったという、身長は6尺(約180センチ)・赤い髪と灰色の肌で、人間の言葉は理解できたらしい。

 青森県の赤倉岳には大人(おおひと)と呼ばれる山人がおり、相撲取りのような大男で、魚や酒をやると山仕事を手伝ってくれた、現地にある『鬼神社』は、村人が彼らの仕事ぶりに感謝して建てたもので、彼らが使用した大きな鍬(くわ)が御神体として祭られている。

 秋田県北部でも山男を山人・大人といい、タバコを与えると木の皮を集める仕事を手伝ってくれた、山人の伝説は、明治の30年台まであるのだが、それ以後はない、絶滅したのだろうか。

列島の山人伝説 

2010-10-10 22:00:50 | Weblog


 列島の山人を考えるとき、山岳部に棲息する雷鳥が思い浮かぶ、この二つには密接な関係があるようだ、雷鳥が、列島にやって来たのは、約2万年前の氷河期、その後、温暖な気候になったのだが、大半の雷鳥は、北に帰っていった、取り残されたものは、この列島の高山地帯に移住した。

 現在、雷鳥の生息地域は、北極の周辺で、日本の雷鳥は、一番、南の端にいることになる、日本国内では、全部で3000羽ほど、だから、もし、山人がいたとしても、その最盛期でも、これぐらいの人数だったかもしれない。

 寒さに適した雷鳥は、夏の暑さが苦手で、気温が26度C以上になると呼吸が苦しくなったという記録がある。

 面白い観察では、冬の雷鳥はめったに飛ぶことはなく、ゆっくり歩いて体力を温存し、夜は、雪の中に身体を沈め、首だけ出して休むという、面白いシーンだ。

 氷河時代を経験した人々は、雷鳥のように山岳部で生活したのではあるまいか、彼らの血脈は、山人伝説となって、わずかに、記録されたようだ。

三内丸山に行く 12

2010-10-06 05:07:15 | Weblog


 この遺跡から、漆器・琥珀・黒曜石・翡翠製の大珠は発見されている、翡翠は、新潟県の糸魚川でしか産出しないので、はるかに離れた新潟と交易があったことが推察されている。

 動物の骨の7割弱が野うさぎとムササビであるという。

 三内丸山の圧巻は、長さ32m・幅10mの大型住居、この大きさには圧倒される、まるで宮殿のようだ、もちろん金属がない時代なので釘はなく、蔓で固定してあった、これは、一見の価値がある。

 32mはすごい、奈良時代の東大寺はどれぐらいであろう、その3000年以上前ということになる、はるか縄文の時代に、一体、何があったのか、そして、これを建設した人々は、どんな人であったのか。

ここに立って思う事は、日本列島の歴史が、これまで考えられてきたものとは違い、はるかに規模が大きく複雑ではないか・・・まだまだ「なにか」があるのではあるまいか、私は、この時期、列島の山岳部には、白人タイプの人々がいたのではと推測している、そう、このブログのテーマである。

三内丸山に行く 11

2010-10-04 05:21:09 | Weblog


 三内丸山が本格的に調査されたのは1992年、その結果、ここに大規模な集落があったことが判明する。

 1994年、直径1メートルの栗の柱が6本も確認され、急遽、野球場の建設が中止、その後、竪穴住居・高床式倉庫そして大型竪穴住居が10棟以上、さらに780軒に及ぶ住居跡が発見された。

 クリ・トチ・クルミの殻、エゴマ・ゴボウ・ヒョータンが出土し、ここでは採集生活ではなく、これらを栽培していたのではという意見が出る、そして、ここの居住者は数百人ではあるまいか、だが、それは多すぎるという反対意見もあり、どちらが正しいのであろうか。

三内丸山に行く 10

2010-10-01 23:19:15 | Weblog


 何年か前、12chに「大使の国のおくりもの」という番組があり、アイルランドの大使が、我々の先祖と日本人の先祖は親しい関係にあり、中央アジアのどこかで、
 「東に向かったのが日本人、西に向かったのが我々の先祖」

 彼らの先祖とはケルト人、一国の大使とは思えぬコメントだった、相当な思い込み・思い入れ、アイルランドの人々の多くが、日本に好意を持ってくれている、ようだ。

 それは、あの戦争で、ともにイギリスと戦ったことがあるのだが、ラフカデオ・ハーン(小泉八雲)の作品に紹介されているように、東と西に遠く離れた両国の祭り・伝説・習慣・・・には共通するものが見られるからではあるまいか。