In addition to considering each individual experiences important ,Zen stresses the limitation of language and writing . This is called furyu-monji(不立文字)or direct teaching without dependence on words or writig .
「各人の体験が重んじられる禅では、言葉や文字の限界が強調される、これが不立文字(ふりゅうもんじ)、語や書物にたよることなく、直接に教える」
インドから来た男
接心の5日目、ようやく盛り上がってきた、今朝の坐禅では皆の息がひとつになり、
「し~ん」
だれもいないと思った山の小鳥が、エントツに巣を作り始めた、
「かさっ かさっ」
これと正反対のエピソードは、数十名が坐禅している最中に、その坐禅ホールの屋根の修理にやって来たオトコ、下からものすごいパワーが突き上げて来た、
「ひゃあー」
ころげ落ちそうになった、という。
その日の夕暮れ、ひとりの外国人がやって来た、むんむんとした空気、
「これじゃあー せっかくの接心をぶちこわしてしまうな」
この男を連れて禅堂に向かう、
「ムンムン ギトギト ギラリギラリ」
「まるで Walking Penis こまったなあー」
ところが、僧堂に、一歩、その瞬間、
「すうっー」
空気に溶ける、静けさそのもの、あっ気にとられた、
「こいつは なにものなんだ」
物質的にはインド人の神父、だが、
「これが これこそが インドの魔法なのか」
さてさて、ニッポンの仏教寺院のレポートのつづき、タヌキの子供たちは、まだ寝ている、ところで、その寺の庭は荒れほうだいで、この数週間掃除されていないもよう、
「これは タイヘンだなあー」
その時、
「あっ そうか」
おくればせに気がついた、この坐禅会の目的は、動く坐禅・作務、無料の労働力をゲットすること、タヌキのくせに人間さまをこき使おうってこと、
「タヌキの術だな」
しかし、なんて、まあー、こすっからいんだろうね。
桜の木の下を通ったら、
「ビリッ」
イタミが走る、ケムシだ、何週間も放っておかれたのでケムシがワンサカワンサカ、見ただけでかゆくなる、どのくらい働かされたか、一時間半ぐらい、
「坐禅が20分で 作務が90分」
タヌキが、
「さあーさあー みなしゃーん お茶にしてくだしゃあーい お菓子はひとつづつでしゅ あっ そこのひと ふたつとったでしょー」
中村屋の月餅だった、きっと供物の山から、古いモノを引っ張り出してきたんだろう、ところが、集まった連中は、
「これ 高いんだよ」
「1個 350円ぐらいかな」
「おれ やっぱり 持ってかえろう」
「ぐふぐふ しぶーいお茶で食べるんだ」
「わあーわあー きゃあーきゃあー」
「ぐふぐふ また こよーかな こんどはニョボーもつれてこよう そしたら 2コだな ぐふぐぐふのぐ」
これが、ニッポンの大衆なのかな、そう、どっちもどっちなんだ、とても無我の当体を味得なんてもんじゃあないよ、やる気がなくなっちまったね。