The orthodox civilization is the festival politics of Japan

「安藤真の『世界文明の正統は』」の続き、祭政は人間中心を超え物質文明を越える、これを受け継いでいるのが日本の伝統と文化

地方の博物館の問題点

2009-01-31 06:15:27 | Weblog
 
今はどうなっているのか分からないが、以前は、土器や深鉢の説明に、
 「これは新嘗際に使われたものです」
 さらに、月夜見尊(つきよみのみこと)が使用したとかどうとかと明記されていた、月夜見尊は記紀神話に登場する神のひとりで、天照大神の弟である。
 私は、その説明を見てびっくりしてしまった、ちょっと考古学をやったものなら、そんなことは書けないはずだ。
 その後、2、3年して、再び訪れたら、やはり同じ説明、だから、若い館員に、
 「中学生に笑われるよ」
 どうして、こんなことになっているのであろうか、かつて縄文中期に農耕が行われたことを発表して学会に叩かれたことがある、それにしてもである、新嘗祭を持ってこられては開いた口が塞がらない。
 今はどうなっているのだろう、まさか…
 時々、こういうことがある、お分かりになるでしょう。

井戸尻考古館の名品

2009-01-30 03:46:18 | Weblog

 この考古館は駅から近く、縄文中期の名品を鑑賞できる。
 水の渦を、こんなにも見事に創作できるとは、実に不思議ではないか。
 この発想はどこから来たものか、そう、モダーンなのだ、新鮮なのだ。
 やはり、稲作農耕民では、こういった作品は無理かもしれない、それは、こころが自由ではないから。
 じかに見ると、結構、大きい、明るい印象で大らかでダイナミック、どんな人びとが創作したのであろうか。
 あるいは、あの青い瞳の人びとではあるまいか、と空想してしまう。
 そう、縄文の中期、BC3000~2000年にかけての1000年間にヒントがあるのかもしれない。
 「なにか」があったのだろう、日本の歴史はそんなに単純ではなさそうだ。
 いろいろな問題があるのだが、この考古館は訪れてみる価値がある、ようだ。

八ヶ岳山麓の縄文文化

2009-01-28 06:15:26 | Weblog

 縄文中期の26万人、この辺にヒントがありそうだ。
 八ヶ岳山麓に花開いた縄文人の生活、ここには、あの尖石遺跡がある。
 そして、JR信濃境駅を下りたところに井戸尻考古館があった、ここは駅から近いので比較的便利、「比較的」といったのは坂の下にあるので、行くとき以上の時間がかかる、そして、この駅に止まる列車は一時間に一本とか一時間半に一本、それを逃したら大変なことになる。
 思いリュックを背負って死ぬような思いをしたことがある。
 井戸尻考古館には渦巻文把手付き土器の名品がある、この考古館では「水煙渦巻文深鉢」としている、曽利遺跡・高さ43cm。
 これは渦をテーマにしたもの、明るく大らかでダイナミック、大変な逸品である、私は縄文火焔土器と双璧をなすもので東西の横綱だとおもっている。
 上の土器は、画像処理したもので、私のイメージである。、

稲を最上とする

2009-01-18 05:37:36 | Weblog

 薩摩藩主島津重豪の命令で和漢洋の資料を駆使して集大成された『成形図説』では、
 「皇国にては稲を最上とし、他穀は俗にこれを雑穀と云ふ」
 コメには特別な霊力があると信じられ、他の穀物とは区別されていた。
 ともあれ、小山修三の研究によると、縄文の早期から前期にかけて人口が五倍になり、中期の二十六万二五〇〇人がピークとなる。
 これは、狩猟採集の社会では大変に多い人口らしい。
 だが、どんどん減少していき、晩期には七万六〇〇〇人を推計していた。
 そして、弥生時代になると、六〇万人程になる、これは、渡来人の到来と水田稲作システムによる生産力の増大のためと考えられている、まさに革命的な出来事ということになる。
 この日本列島で自然の恵みだけで生活できる人口は二十六万人程度ということになる、このなかにあの「青い瞳の人びと」がいるのであろうか、興味は尽きない。

縄文から弥生へ

2009-01-17 07:16:59 | Weblog

 細かな数字には問題があるようだが、全体的傾向は摑めるのかもしれない。
 縄文の後期から晩期にかけて、列島の人口が激減していたということになるようだが、それが、弥生時代になると増加する。
 その原因は「水稲稲作システム」の導入、単位面積当たりの収穫量が多く、しかも高カロリーのこの植物は多くの人びとを養うことを可能にし、瞬く間に、列島に伝播していく。
       晩期      弥生時代
  近畿  2100   10万8300
  中国  2000    5万8800
  四国   500    3万 100
  九州  6300   10万5100

 この人口増加の原因は農業生産の確立、その根本は「水田稲作システム」ということになる。
 数世紀、大和に成立した政権は「コメ」の精霊を祭り、「コメ」に最高の神格を付与している。

縄文時代の人口推計

2009-01-16 05:57:52 | Weblog

 縄文時代は、土器が使用されるようになった紀元前1万年ごろから、水田稲作システムがスタートした紀元前数百年までの、およそ1万年間を指している。
 この期間は、便宜上、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6つの時代に区分されることが多い。
 国立民族学博物館の小山修三は、かつて遺跡の数から縄文時代の人口を推計したことがある、当時はしきりに引用されたが、最近はお目にかかれない、どうなったのであろうか。
  縄文早期    2万 100人
  縄文前期   10万5500
  縄文中期   26万1300
  縄文後期   16万 300
  縄文晩期    7万5800

  弥生     55万4900
  土師    539万9800
         ― 『縄文時代』 ―
 これによると、縄文の中期が26万人ほどで、縄文時代では一番栄えた時期、これは狩猟採集の社会では多いらしい。
 中期に最高となり、後期・晩期に激減しているのは、気候の寒冷化が進み、動植物が減少したのが原因と考えているようだ。

縄文の本来的生活

2009-01-14 07:00:04 | Weblog
 ウィルタの老人の言葉は、根本的な疑問を投げかけていた。
 我々の正義や価値は、土地に密着した農耕社会から成立したものではなかろうか。
 ウィルタの老人の提言は、狩猟採集社会からの意見であり、これは、最近の人類学の主張とも一致している、一部の学者は、これまでの未開で野蛮という解釈ではなく、人間の本来的社会とまで言い切っていた、
 「ヒトは、なぜ、狩猟採集を捨て農業をやるのだろう。民族誌を調べてみると、狩猟採集の生活は、労働時間が短く、人びとが集まって物語や歌や踊りに興ずる時間が多く、食糧もけっこう豊富である」
 それに比べて、
 「農耕社会は、労働時間が長く、貧富の差がはげしく、人間関係の摩擦が多くて争いがたえず、ついに戦争までおこす。
  現代は、その悪い点がいっそう増幅されているのではないか」
                      ― 小山修三著 『縄文時代』 ―
 さらに、一言、
 「狩猟採集民の方が、自由で気楽でもっと人間らしい生活をおくっていたのではないか」
 「自由で気楽で人間らしい生活」、なかなか高い評価になっている。
 だが、やはり、人口が増えなかったのではあるまいか、これが、大変な欠陥であった、だから、後発の農業社会に席捲されてしまう。
 食糧が確保され保障される農耕社会では、人口の爆発的上昇が可能となる、数十倍・数百倍それどころか数千倍の人数では、これは勝負にはならない。
 ともあれ、列島に展開した縄文の内容をもっと調べる必要があるかもしれない。
                            ― 縄文火焔土器 ―

縄文人の生活

2009-01-13 11:24:46 | Weblog
 縄文人の生活は、ほぼ、狩猟採集の生活であるが、現在でも狩猟採集生活をしている人々がいる。
 北海道の北端でウィルタの老人と話す機会があった、「ウィルタ」はツングース系の北方民族で、アイヌ語ではオロッコ。
 彼らは、ちょっと前まで、トナカイを走らせて一年中、移動していた。
 夏の草原、秋の樹林、冬の山腹、そして、春の原野。
 彼らの一族は、大きな山脈の周囲を移動して生活をしていた、という。
 ウィルタの老人は、
 「この大地はだれのものでもない」
 「土地に定住し、土地を所有するから、あらゆる問題が発生するのだ」
 ぼそぼそと語る、
 「土地に穀物を植える、それを収穫する、収穫の多い者と少ない者ができる。
  富の差ができ、富者と貧者、主人と従者、支配者と家来さらに奴隷…
  それどころか、その土地を取り合い、殺し合いまでが発生するではないか。
  それらは、我々の社会、我々の時代には無かったことだ 」
 バブルの原因のひとつは、土地問題であり、列島の戦国時代では、土地の奪い合いが戦争の原因であった。
 ヒトは狩猟採集の生活を止めて土地に定着する、ヒトは幸福になるために土地に定住したのだが、その「土地」が人々を苦しめている。
 ウィルタの老人は、その矛盾を指摘したかったのだろう。

縄文の社会

2009-01-10 04:09:25 | Weblog

 縄文時代の調査がすすみ、様々のことが明らかにされてきた。
 日本文化のルーツを縄文にまで遡らせようとする学者さえいる。
 この列島に、1万年の歳月、生活してきた彼らの文化と伝統は、どんなものであったのか。
 彼らの情報や血統がどの程度伝達されているのであろう、詳細は不明だが、彼らが日本列島の先輩であることは確かであろう。
 あるいは、温帯モンスーンの島国にあって、狩猟採集の獲得経済によって生活してきた縄文人は、この風土をこよなく理解し、バランスのとれた自然交流を実行していたのかもしれない。
 そう、この自然と風土が、彼らの畑であり田んぼであり、そして、工場であった。

縄文人と青い瞳の日本人

2009-01-09 05:07:02 | Weblog

 縄文人の遺骨は数千体が出土しており、古いタイプのモンゴロイドということになっている。
 彼らの大半は貝塚等から発見されている、というのは、日本列島の土壌は酸性なので、他の地域で生活していた人々の骨組織が残存しない。
 だから、海岸付近の縄文人ばかりが調査され、こういう結果になるのではあるまいか。
 ならば、高原地帯の人々はどうであったのだろう。
 日本アルプスに雷鳥がいるのだが、これは氷河時代に繁栄した鳥で、氷河時代が終わると高山地帯に避難して現在に至っている。 
 北方系の白人タイプについても、同じことが無かったであろうか。
 あるいは、青い瞳の日本人のルーツは縄文にまで遡るかもしれない。
 これは微妙なトコロである、だが、興味が尽きない。
 思い切って、縄文の時代にjumpしてみようか。