6月23日の「日曜美術館」で、私は又々、それまで知らなかった、素晴らしい画家の存在を知った。
その名は、≪神田日勝(かんだ・にっしょう)≫
(上は、32歳の若さで逝った日勝の“未完の絶筆” 『馬』)
彼は、日中戦争が始まった1937年(昭12)、東京に生まれた。
「日勝」という名まえは、父親が、日本の勝利を祈って付けたものだという。
しかし戦況は悪化し、彼は8歳の時、家族とともに空襲を逃れ、「拓北農兵隊」として、北海道・十勝の鹿追町に入植する。
今でこそ、素晴らしい田園風景の広がる十勝だが、当時は一面の原生林で、開拓民はその原生林を、1本1本自らの手で切り拓いていかなければなら
なかった。
下の写真は、今の十勝地方と、日勝が入植した当時の十勝・鹿追。
北海道に入植した彼は、幼いながら開拓民の子として、厳しい労働を担っていく。
厳しい開拓の仕事の“相棒”として、開拓民を支えてくれたのは、北の大地に生きる、力持ちで優しい、働き者の「馬」だった。
日勝も、そんな馬をこよなく愛した。
下は、愛馬の手綱を引く若い日勝と、馬と共に農耕にいそしむ、これも若き日の日勝。
そんな彼が、のちに、愛情を込めて描いた、『開拓の馬』
なんて力強く優しい馬の姿だろう!
この絵は、一日の厳しい労働を終え、ホッと一息つく馬の様子を表しているのだそうだ。
(右の)後足をちょっと折り曲げているのは、馬が眠くなったときにするしぐさだとか。
そしてこの馬のお腹には、赤ちゃんがいる!
しかし馬との暮らしが、いつも順調だった訳ではない。
(上の写真の)日勝の愛馬は、ある時病気に罹ったが、日勝が診察を頼んだお医者さんが、彼がまだ少年だったことで診察を断ったため、終には死んで
しまう。
悲しみの中で、彼が何度も何度も描いた“死んだ馬のデッサン”と、それをもとに完成させた、『死馬』の絵。
馬は眠るときも立って眠るのだとか。
馬が横たわるのは、死ぬときだけ‥。
日勝の悲しみが、痛いほど伝わってくる。
話がさかのぼるが、小学2年で鹿追の小学校に転校してきた彼は、すぐに“絵の上手な少年”として、周囲から認められた。
近所で親しくしていた家のおじいさんが、日勝に頼んで描いてもらった、自分の“遺影”。
彼の描写力の素晴らしさが、うかがえる。
中学を卒業した後、彼は、開拓民として本格的に、一家の生活を支えていく。
同時に彼は、貧しい生活の中でも、絵を描くことを辞めなかった。
その彼の絵が、世間で初めて認められたのが、22歳のとき。
開拓の厳しさは、入植した多くの家族を十勝から去らせた。その家族たちが去ったあとの廃屋を描いた、『家』(下の写真、左)
北海道で名の知れた展覧会で、この『家』が入選する。
更に、翌年描いた(同じモチーフの)『ゴミ箱』(写真、右下)が、“道知事賞”を獲得して、彼は画家として認められた。
『家』 (22歳) 『ゴミ箱』(23歳)
道知事賞をもらった彼の喜びは大きく、なけなしのお金で袋いっぱいのリンゴを買ってきて、嬉しそうに友達にふるまったことを、当時の青年団の仲間の
一人が語っておられた。
その後彼は結婚し、子どもにも恵まれる。
次は、愛児を抱いた日勝と、妻・ミサ子さんの、幸せそうな写真。
その頃から、日勝は新しい試みを始め、彼の絵に、それまでには無かった鮮やかな色彩が現れてくる。
下は、死んでお腹を割かれた牛の姿を描いた絵。 お腹の赤とブリキの缶の青が、とても鮮やかだ。
『牛』 (1964年 27歳)
ようやく落ち着きを見せてきた日勝の生活を、1966年(昭41)、冷害が襲う。
冷害のまっただ中で日勝が描いた、『静物』。
『静物』の中には、いろんな食べ物も、色鮮やかに描かれている。
この絵を見ながら、妻ミサ子さんは当時を思い出して、笑いながら言われる。
「きっと、これだけあったらいいなあ!と思って描いたんでしょうね。あったのは、“ジャガイモ”だけだったけど…。」と。
現在の、妻・ミサ子さん
その後も彼は、新たな色彩の試みを続けていく。
彼の心の中の想いが、色彩として爆発したような、二つの絵。
『晴れた日の風景』 (1968年) 『人と牛A』 (同左)
しかし、彼の次の試みは、また全く別のものだった。
長い長い時間をかけて、緻密に描かれた、『室内風景』。
部屋の真ん中にうずくまった男(日勝自身と思われる)と、その男の後ろに貼られた、何枚もの当時の新聞。
その新聞も全部、日勝自身が描いたもの。
その根気のいる緻密な作業をしながら、彼はいったい何を考え、何を求めていたのだろう?
この絵について、この日の「日曜美術館」に、日勝ファンとして出演されていた窪島氏(「無言館」館長)は、次のように言われている。
「この絵の“室内”は、“時代”と言いかえることもできる。この絵で日勝は、“自分と時代”を見つめ、いかに生きるかを考えているのだ。」と。
私も、その考えに賛成だ。
日勝の言葉。
「結局 どういう作品が生まれるかは どういう生き方をするかに かかっている。
どう生きるかの指針を 描くことを通して 模索したい。
どう生きるかと どう描くかの 終わりの無いいたちごっこが 私の生活の骨組みなのだ。」
こう語り、『室内風景』でその試みを始めたばかりの、神田日勝。
その彼を、病が襲った。
『室内風景』を描きあげてしばらくの、1970年(昭45)8月25日、彼は、敗血症のため、32歳の若さで逝った。
過酷な開拓生活に臆することなく挑み、家族を養い幸せを築き、一方で、存在感のある絵を描き続けた、神田日勝。
いかに生きるべきか、いかに描くべきか、を真摯に問い続け、その模索の途中で逝ってしまった‥。
でも彼の人生は、絵を描くことも含めて、本当に充実したものだったと思う。
32年というあまりに短い人生だったが、彼には“夭折の画家”という言葉が持つ、悲愴な感じが全くない。
それほどに、彼の人生は、(生活者としても画家としても)まっとうで、中味の詰まったものだったと思う。
素朴で実直な生活者にして、才能あふれる画家。
それに、彼の画家としての挑戦は、なぜか今でも続いているような気がする。
それは、彼の“未完の絶筆”『馬』が、未来に向かって、勢いよく跳躍しようとしているのと同じように。
≪追記≫ 感慨深いのは、神田日勝氏がまだ生きておられれば、私とそう歳が違わないこと。
ということは、私が若さの至りでフラフラと遊んでいた頃、彼は既にあんなに地道に過酷な生活を自らの手で切り拓き、素晴らしい絵を描いて
おられたということなのだ。
そう思うと、彼の偉さ・素晴らしさが、本当に身近なものとして、私に迫ってくる。
また一人、素晴らしい人に出会えた!