北関東一人旅。腹ごしらえも済んで時間はちょうど12時近く。次の目的地、茨城県古河市に向かいますか。ん?茨城県?
最初が群馬県太田市の金山城。次が栃木県足利市の足利学校。最後が茨城県古河市の古河城…。北関東三県制覇しちゃいますね…(^^)。
それでも合計の移動距離は、群馬県太田市→栃木県足利市が10km弱。足利市から茨城県古河市が35km程とそんなに遠くないのに3県周れました。地図とみると、北関東の南部はそれぞれみんな寄っていますね。
古河市へは高速だと、北関東自動車道の太田桐生ICから岩舟JCTで東北道を南下し館林ICを降り東へ一般道で…という感じですが、足利市から古河市へは一般道で行きました。まだ時間が12時ちかくなので時間があること。お金の節約も考えて…ということです。
道は広くありませんが、平日の正午くらいなので結構空いていて1時間かからずに到着できました。
最後は茨城県古河市の古河歴史博物館です。この博物館は1999(平成11)年、私がネット上で初めて知り合った能登畠山氏ファンの遊佐きむち氏と訪れたところです。あの頃はデジカメもなく、私自身知識も薄かったので、リベンジしようと思っていました。
古河歴史博物館の駐車場に到着です。結構近くまで来たのに道が入り組んでおり、カーナビも右往左往していました。
博物館の入口です。結構階段が続いており入口は2階です。
その階段手前にこんな石碑が「古河城出城諏訪曲輪跡」。そうここが古河城だったんです。これは1999年の訪問時にも聞いていました。この博物館自体が城だと。ただ城らしいものはほとんど残っていません。その理由は河川改修と護岸工事のためです。
明治時代になって近世古河城の建物などは破却を命じられ櫓や城門、石垣などが撤去されてしまいます。それでも土塁や水堀などは依然残されていました。しかし、大正時代初期の渡良瀬川改修工事によって、本丸を始め二の丸などの曲輪が次々と切り取られ、現在では河川敷となってしまいました。そこで今や古河城の出城的位置にあった諏訪曲輪など周辺しか遺構もないというわけです。
まあ逆に言うと古河城は渡良瀬川をうまく利用した城づくりをしていたわけで、その豊富な水を利用して城内の堀はすべて水掘だったといわれているようです。
まあ、ともかく博物館に入りますか。
歴史博物館が400円。三館共通券(歴史博物館・文学館・彫刻美術館)が600円。文学も彫刻もそれほど興味がないので400円コースで…(^^;)。残念ながら館内写真撮影不可で、写真をお見せできません。常設展示は古河なので古河公方の展示を期待したのですが、ほんの一角しかありませんでした。あとは古河藩家老で洋学を研究し、数々の地図を残した鷹見泉石関係の展示が多かったです。
古河に来ようと思った目的の1つに、『水底に沈んだ名城 古河城』の図録が再販されたことがきっけでもあります。もちろん購入しました。以前はここでこんなものも売っていました。
1997(平成9)年に「古河公方展」という企画展をやっており1999年当時衝撃を受けたのを覚えています。残部僅少ということで迷わず購入しましたが、その後再販なし…。もう一度古河公方展やってほしいな…。
さて、この博物館の隣にある坂…これも古河城諏訪曲輪の土塁跡なんだそうです。
歴史博物館前にある庭園にある坂も土塁だそうです。そういえば、博物館が2階にあるのも土塁を越えて作られたから階段が必要だったんですね。
駐車場から博物館まではこのように畑と斜面の森が広がっていましたが、これも土塁だそうです。土塁などがあり土地が平坦ではなかったから開発を免れたのですね。さらに森になっている理由も開発を免れたからということでしょう。ただ、これが土塁だ…と言われても、う~ん…としかいいようがないですわ。
さぁそれでは本日最後の目的地へ。
古河総合公園です。ここにはちょっと苦い思い出があり、ぜひリベンジしようと決めていました。それは後程。この公園…すごく名前がすごいんです。まずはこちら。
はい。その名も「古河公方広場」!スゴイ!というのもこの公園。1455(享徳4)年、初代古河公方の足利成氏が築いたとされる古河城別館と言われています。古河歴史博物館より700m離れたところにあり城本丸から南東へ1km程度離れたところにあります。
写真が古河総合公園内にある御所沼です。1996(平成8)年に一部復元が完了したそうです。この御所沼に囲まれた半島状台地に築かれたのが古河公方館です。写真左に見えるのがそうです。この館は1590(天正18)年には、最後の古河公方足利義氏の娘である氏姫(氏女)の居館であったとされています。
この御所沼に囲まれたところに「旧中山家住宅」がありました。江戸時代の農家の移築だそうです。逆井城の時もそうでしたが、公的な公園なので有形文化財などを移築する例が多いみたいですね。時代考証とはあっていないのですが、こういうのが好きな方にはいいのかもしれません。
そしていよいよリベンジの時。ここが「史跡古河公方館址」です。1999(平成11)年当時は訪れたのがもう夕方5時以降になってしまい写真をとってもほとんど何も映らない状況でした。記録に残せないのがすごく悔しかったです。訪れた時間は違えど景色は10年ほどまえとおんなじ。ここが…と思ってしまうほど狭いし石碑や説明板のみ…。まあまったく石碑もないよりいいですよね。そもそも中世ファンにはこういう史跡に慣れっこになっている自分がいます。
説明板にも書いてありましたが、この石碑の東西には公方館の空堀あとがあるとありました。おそらくこの写真のものだと思います。うっかりしていると単なる通路だと思ってしまいますが、よくみると土塁に挟まれたような形状になっていますね。もちろんだいぶ埋め戻されてしまったとは思いますが…発掘調査はしないんでしょうかね…。
せっかくなので、半島の先っぽに行って御所沼の方に出たいと思います。この半島状の土地はもう森になっています。そこにはこんな看板が!
「公方様の森」そういう歴史的な名前ってなんか素敵です。ただ森になり過ぎてスズメバチが出没するようで、一部立ち入り禁止になっていました。くわばらくわばら。
よぉし…これで半島の先端だぁ…と思ったら…。
どぉ~ん!橋の登場!まあ今や公園ですから回遊性を高めないとね…。でもなんか納得いかないな(笑)橋に左側に見える階段を下りて帰りは御所沼のほとりを通って帰ります。
公方様の気分で沼のほとりを歩いて、公園を後にしました。
これで、北関東三県制覇の旅終了!長らくのご拝読ありがとうございました!
最初が群馬県太田市の金山城。次が栃木県足利市の足利学校。最後が茨城県古河市の古河城…。北関東三県制覇しちゃいますね…(^^)。
それでも合計の移動距離は、群馬県太田市→栃木県足利市が10km弱。足利市から茨城県古河市が35km程とそんなに遠くないのに3県周れました。地図とみると、北関東の南部はそれぞれみんな寄っていますね。
古河市へは高速だと、北関東自動車道の太田桐生ICから岩舟JCTで東北道を南下し館林ICを降り東へ一般道で…という感じですが、足利市から古河市へは一般道で行きました。まだ時間が12時ちかくなので時間があること。お金の節約も考えて…ということです。
道は広くありませんが、平日の正午くらいなので結構空いていて1時間かからずに到着できました。
最後は茨城県古河市の古河歴史博物館です。この博物館は1999(平成11)年、私がネット上で初めて知り合った能登畠山氏ファンの遊佐きむち氏と訪れたところです。あの頃はデジカメもなく、私自身知識も薄かったので、リベンジしようと思っていました。
古河歴史博物館の駐車場に到着です。結構近くまで来たのに道が入り組んでおり、カーナビも右往左往していました。
博物館の入口です。結構階段が続いており入口は2階です。
その階段手前にこんな石碑が「古河城出城諏訪曲輪跡」。そうここが古河城だったんです。これは1999年の訪問時にも聞いていました。この博物館自体が城だと。ただ城らしいものはほとんど残っていません。その理由は河川改修と護岸工事のためです。
明治時代になって近世古河城の建物などは破却を命じられ櫓や城門、石垣などが撤去されてしまいます。それでも土塁や水堀などは依然残されていました。しかし、大正時代初期の渡良瀬川改修工事によって、本丸を始め二の丸などの曲輪が次々と切り取られ、現在では河川敷となってしまいました。そこで今や古河城の出城的位置にあった諏訪曲輪など周辺しか遺構もないというわけです。
まあ逆に言うと古河城は渡良瀬川をうまく利用した城づくりをしていたわけで、その豊富な水を利用して城内の堀はすべて水掘だったといわれているようです。
まあ、ともかく博物館に入りますか。
歴史博物館が400円。三館共通券(歴史博物館・文学館・彫刻美術館)が600円。文学も彫刻もそれほど興味がないので400円コースで…(^^;)。残念ながら館内写真撮影不可で、写真をお見せできません。常設展示は古河なので古河公方の展示を期待したのですが、ほんの一角しかありませんでした。あとは古河藩家老で洋学を研究し、数々の地図を残した鷹見泉石関係の展示が多かったです。
古河に来ようと思った目的の1つに、『水底に沈んだ名城 古河城』の図録が再販されたことがきっけでもあります。もちろん購入しました。以前はここでこんなものも売っていました。
1997(平成9)年に「古河公方展」という企画展をやっており1999年当時衝撃を受けたのを覚えています。残部僅少ということで迷わず購入しましたが、その後再販なし…。もう一度古河公方展やってほしいな…。
さて、この博物館の隣にある坂…これも古河城諏訪曲輪の土塁跡なんだそうです。
歴史博物館前にある庭園にある坂も土塁だそうです。そういえば、博物館が2階にあるのも土塁を越えて作られたから階段が必要だったんですね。
駐車場から博物館まではこのように畑と斜面の森が広がっていましたが、これも土塁だそうです。土塁などがあり土地が平坦ではなかったから開発を免れたのですね。さらに森になっている理由も開発を免れたからということでしょう。ただ、これが土塁だ…と言われても、う~ん…としかいいようがないですわ。
さぁそれでは本日最後の目的地へ。
古河総合公園です。ここにはちょっと苦い思い出があり、ぜひリベンジしようと決めていました。それは後程。この公園…すごく名前がすごいんです。まずはこちら。
はい。その名も「古河公方広場」!スゴイ!というのもこの公園。1455(享徳4)年、初代古河公方の足利成氏が築いたとされる古河城別館と言われています。古河歴史博物館より700m離れたところにあり城本丸から南東へ1km程度離れたところにあります。
写真が古河総合公園内にある御所沼です。1996(平成8)年に一部復元が完了したそうです。この御所沼に囲まれた半島状台地に築かれたのが古河公方館です。写真左に見えるのがそうです。この館は1590(天正18)年には、最後の古河公方足利義氏の娘である氏姫(氏女)の居館であったとされています。
この御所沼に囲まれたところに「旧中山家住宅」がありました。江戸時代の農家の移築だそうです。逆井城の時もそうでしたが、公的な公園なので有形文化財などを移築する例が多いみたいですね。時代考証とはあっていないのですが、こういうのが好きな方にはいいのかもしれません。
そしていよいよリベンジの時。ここが「史跡古河公方館址」です。1999(平成11)年当時は訪れたのがもう夕方5時以降になってしまい写真をとってもほとんど何も映らない状況でした。記録に残せないのがすごく悔しかったです。訪れた時間は違えど景色は10年ほどまえとおんなじ。ここが…と思ってしまうほど狭いし石碑や説明板のみ…。まあまったく石碑もないよりいいですよね。そもそも中世ファンにはこういう史跡に慣れっこになっている自分がいます。
説明板にも書いてありましたが、この石碑の東西には公方館の空堀あとがあるとありました。おそらくこの写真のものだと思います。うっかりしていると単なる通路だと思ってしまいますが、よくみると土塁に挟まれたような形状になっていますね。もちろんだいぶ埋め戻されてしまったとは思いますが…発掘調査はしないんでしょうかね…。
せっかくなので、半島の先っぽに行って御所沼の方に出たいと思います。この半島状の土地はもう森になっています。そこにはこんな看板が!
「公方様の森」そういう歴史的な名前ってなんか素敵です。ただ森になり過ぎてスズメバチが出没するようで、一部立ち入り禁止になっていました。くわばらくわばら。
よぉし…これで半島の先端だぁ…と思ったら…。
どぉ~ん!橋の登場!まあ今や公園ですから回遊性を高めないとね…。でもなんか納得いかないな(笑)橋に左側に見える階段を下りて帰りは御所沼のほとりを通って帰ります。
公方様の気分で沼のほとりを歩いて、公園を後にしました。
これで、北関東三県制覇の旅終了!長らくのご拝読ありがとうございました!