今回は静岡県の西部にある政令指定都市・浜松市にある浜松城を紹介します。
浜松市は前述の通り政令指定都市で、その市役所のすぐ隣に浜松城があります。そのため、浜松城は市街地の真っただ中にあると言えます。それだけに駐車場は有料であることを覚悟したのですが…なんと無料でした。市街地の活性化のためでしょうか?
浜松城の前身である曳馬城が1467(応仁元)年ごろ築かれました。その位置は今の浜松城から少し北東に位置するところで、現在では東照宮があります。築城者は不明ですが、その後今川家臣の飯尾氏が城主となっています。
そして、1570(元亀元)年に徳川家康が現在の場所に浜松城が築城したといわれますその徳川家康も1590(天正18)年に天下を統一した豊臣秀吉によって関東移封を命じられ江戸時に向かうと、浜松城には豊臣家臣の堀尾吉晴が入城し、天守閣や今に残る石垣を築いたと言われます。その後、浜松城は家康が居住したという歴史的背景から徳川譜代の家臣の城となります。そのため、領主は点々としています。有名な城主に天保の改革を進めた老中となった水野忠邦がいます。
浜松市の中心市街地にもかからわず、この辺は小中学校(しかも小学校の名前は元城小学校!)、市役所、美術館などなど多くの公共地があり結構緑が残っています。
やはり城だったという事情で官有地だったことが影響しているのでしょう。「安政年間古図」によるとこのあたり一帯がほとんど城だったようです。
浜松城公園の園路は「家康の散歩道」という名称で売り出し中(笑)浜松城は家康が天下を取ったし、江戸時代は譜代の大名が次々と出世したことから出世城と呼ばれています。中でもやはり天下人の家康を売り出したいのでしょうね。
浜松城公園は本当に緑豊かです。しかしそのせいで石垣の外観などを見ることができず景観を損ねているという論もあります。
現在は浜松市役所と浜松市中区役所がある建物のあたりが、浜松城二の丸でした。
二の丸には「表御殿」と「奥御殿」があり、特に表御殿では年寄り詰所や勘定所など浜松藩の藩政の中枢となる場所でした。
ここでちょっと不思議に思いませんか?なぜ「二の丸」に御殿があるのか…と。その理由は浜松城で購入した資料を読むことで理由がわかりました。本丸には「御成御殿」(おなりごてん)という将軍家専用の御殿があったようです。江戸幕府の初代将軍が一時期居城とした城ですし、2代目の堀尾吉晴が豊臣系の大名であったため、江戸時代になって徳川家康を神格化するために、あくまで「浜松城は徳川家康のもの」というのを表したのかもしれませんね。この御成御殿は江戸初期しか使われなかったようで、本丸は象徴的な意味しかなさなくなり、二の丸の御殿が浜松藩の政治の中枢となったようです。その二の丸があった場所が現在は浜松市役所となり、70万人政令指定都市浜松市の行政の中心というのもなんかちょっといいですね…(まあ遺構がなくなった残念ですが…)。
二の丸御殿の説明板から80mほど行った市役所別館の端に「鎧掛松」があります。1572(元亀3)年の三方原の合戦で武田信玄軍に敗れ命からがら浜松城に帰ってきた徳川家康が鎧を脱いで掛けたことからこうよばれたらしいです。しかし、400万年前の松ならもっと大きいはず…。と思っていたところ、これは3代目の鎧掛松とのこと。しかも当時の位置とはだいぶ離れているようで、浜松城の整備と共に移転するようです。
鎧掛松から二の丸に戻って、そこから登って本丸に行きます。現代の石垣風コンクリートと傾斜スロープでちょっと雰囲気がでていませんね。
ここが本丸の曲輪です…といっても広いと思えないほど木が繁殖しています。
本丸部から天守曲輪にかけては往時の石垣が残されています…がここも木が邪魔してなかなか見えません。この本丸も周囲は石垣で囲まれ、北に大手門である「鉄門」、南に富士見櫓、南東の隅に二重の菱櫓があったといわれますが、詳しい本丸内部の様子は発掘調査が行われていないようで不明のようです。
2012(平成24)年度から始まる「浜松市制100周年記念事業 浜松城公園歴史ゾーン整備」で本格的に天守門とその塀が2015(平成26)年度までに復元予定。さらに2016(平成27)年度から本丸の一部の2020(平成31)年度までに富士見櫓と塀が復元される予定だと言います。そのために石垣の崩壊を促している大きな根を張る木や、石垣の景観を損なっている木を伐採する予定のようです。(浜松市のサイトより)この計画を見ると、このあたりの木はバッサバッサ切られるようですね。http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/lifeindex/enjoy/park/zone/index.htm)いいなあ政令指定都市や県庁所在地は…復元工事がバンバン進んで…七尾城も早く復元工事せんかい!一応能登地方の中心都市なんだから…。
本丸跡には浜松城イチオシの徳川家康の像があります。
いよいよ天守曲輪に登ります。この石垣は往時のものです。この石垣は「野面積み」と呼ばれる戦国期の積み方です。浜松城の天守台石垣は安土桃山時代に築かれたため、江戸時代のような大柄なものでなく、このようなちょっと粗い積み方になるんです。
天守曲輪に上がると復興天守閣が見えてきました。こちらはまったくの模擬天守閣で復元ではありません。
天守曲輪の入口には天守門がありました。石垣の形でそれがわかります。ここが今年度から3年間かけて復元される予定の場所です。今年度基礎工事を行っているのか、一部立ち入り禁止になっています。
では天守台に上がり復興天守閣に入ります。
天守閣の入口はグッズショップになっています。「出世大名家康くん」のマスコットのグッズがいっぱいありました(笑)
本もそこそこありました。安いので買った『浜松城と城下をめぐる』(300円)という本は、意外にも2009(平成21)年の発掘調査の内容など詳しく載っており結構楽しめました。お買い得かも。息子は最近、「今夜はヒストリー」(メイン司会関口宏)という番組のおかげで、めきめきと戦国好きに(笑)織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人を取り上げた回の中でどうも徳川家康が好きらしい。地味な私の息子らしい人選で、親子共通です(笑)息子のために戦国武将のクリアファイル(250円)を購入。娘もせがむので家康くんのキーホルダー
(530円)も購入。
左側の具足は「金蛇美具足」と言われ、桶狭間の戦い(1560年)で松平元康(後の徳川家康)が着けていたという伝承がある具足です。ですが、説明板にも書いてありましたが、あくまで伝承であり具足としては後世の作と考えられているようです。
おお!赤備えが!これは家康の家臣井伊直政のものですね。2010(平成22)年に「井の国千年祭」に家康くんも出陣したらしく「ひこにゃん」とのツーショットも(笑)
はんせい
浜松城下の模型がありました。これを見ると二の丸の御殿がよくわかりますが…本丸に天守閣がない!なぜ??……と思っていましたが、後で購入した資料を読むと理由がわかりました。江戸初期の絵図ではもうすでに天守閣は描かれておらず、天守台しかないようで、ここから江戸初期にはもう天守閣はなかったという見解のようです。その後結局江戸時代を通じて天守閣が再建されることはなかったようで、絵図などの資料がまったくないからこそ天守閣は復元できず、模擬天守閣しか作れないと言えます。浜松藩は天守閣がない浜松城の代わりに天守門が象徴的な建物になっていたようです。
復興天守閣最上階からの景色です。金網で景観が悪いのが残念です。この点は浜松市の浜松城公園整備計画でも問題点として挙げられていたので、今後改善する可能性があります。
天守台には西部分に張り出しが見られます。またこの部分はなんなんでしょうね?説明がないからよくわからないなぁ。あるいは天守閣が続いていたのかな?復興天守閣はこれ以上あまり手を加えないみたいで…無念。ん?張り出し部分に何か木碑が!ズームしてみると…「大切にしましょう三角点」……。なんだこれ…(笑)
浜松城天守閣から見る浜松市街の景色です。大きなビルがいっぱい。肌色の大きなビルは浜松駅前の超高層ビルアクトタワーです。こんな都心にある公園は緑豊かでいいですねぇ!
浜松城天守閣地下には井戸があります。飲料水の確保としてよく見れらる例です。その一角に「センゴク」の原画が飾ってありました。ここに飾る??もっと目立つところに飾れば…。
さて、復興天守閣を降りて美術館側へとなっている埋門があった方面へ
こちらも天守台の石垣がよくわかる部分です。
説明板で浜松城の野面積みについて詳しく説明してありました。
「八幡台 ここは天守台の北西にあたり、五段の石垣により天守台より高い。(中略)浜松城のなかで最も高い所(411.9m)である。城を守る神社(たぶん八幡大菩薩)をおまつりした所だといわれる。(後略)」と説明板にある。なるほどあの天守台の西にあり三角点があった場所は天守閣が連続した場所ではなく、神社があった場所なのですね。八幡宮が城を守るために天守閣の上位に位置づけられるって面白いですね。確かに日本人の思想の中に神社や仏閣が上位に位置づけられていたということを表している好例でだと思います。
これは本丸曲輪の埋門跡ですね。かなりくっきりと残っていますが、こちらは大手門ではないので残念ながら今回の復元計画から漏れています…無念。
本丸曲輪というか天守台の北の斜面です。かなりの高低差があります。
この北側は主要な発掘調査なども進んでいないようで、回遊式の庭園になっています。
ここに池があるのは偶然でもわざわざ作ったものでも無いようです。庭園の説明文によるとこうあります。「この庭園は、浜松城天守閣と作左山の谷間を利用し深山渓谷を表現した廻遊式の庭園です。」天守閣の北に作左曲輪とありましたが、表記が大まか過ぎてよくわかりませんでしたが、こちらは天守より低い山なんですね。なるほど。そしてこの池。おそらく浜松城の空堀と思われます。山と山の谷間を利用して空堀にしたんですね。さすが徳川家康。そんなことを考えながらめぐると、歴史的遺構ではない庭園もなんとなく趣が出てきます(笑)
浜松市は私が6年間住んだ第二の故郷です。だから近くでもありなかなか行かなかったところですが、改めてみるとなかなか見どころがあるような気がしました。
そして、2020(平成31)年度には天守門と富士見櫓が復元され新たな浜松城に生まれ変わります。その前に現在の浜松城を見ておきたいと思い訪城しました。今度はすべての復元整備が終わった8年後にまた来たいと思います。浜松は私の大好きな街ですから年に何回か必ず訪れる街です、だから訪問チャンスはいくらでもあります。8年後の整備を楽しみに…。
<浜松城天守閣>(情報はすべて2012年8月現在)
◇開館時間 午前8時半~午後4時半
◇休館日 年末(12月29日~12月31日)
◇入館料 一般150円、中学生以下無料
浜松市は前述の通り政令指定都市で、その市役所のすぐ隣に浜松城があります。そのため、浜松城は市街地の真っただ中にあると言えます。それだけに駐車場は有料であることを覚悟したのですが…なんと無料でした。市街地の活性化のためでしょうか?
浜松城の前身である曳馬城が1467(応仁元)年ごろ築かれました。その位置は今の浜松城から少し北東に位置するところで、現在では東照宮があります。築城者は不明ですが、その後今川家臣の飯尾氏が城主となっています。
そして、1570(元亀元)年に徳川家康が現在の場所に浜松城が築城したといわれますその徳川家康も1590(天正18)年に天下を統一した豊臣秀吉によって関東移封を命じられ江戸時に向かうと、浜松城には豊臣家臣の堀尾吉晴が入城し、天守閣や今に残る石垣を築いたと言われます。その後、浜松城は家康が居住したという歴史的背景から徳川譜代の家臣の城となります。そのため、領主は点々としています。有名な城主に天保の改革を進めた老中となった水野忠邦がいます。
浜松市の中心市街地にもかからわず、この辺は小中学校(しかも小学校の名前は元城小学校!)、市役所、美術館などなど多くの公共地があり結構緑が残っています。
やはり城だったという事情で官有地だったことが影響しているのでしょう。「安政年間古図」によるとこのあたり一帯がほとんど城だったようです。
浜松城公園の園路は「家康の散歩道」という名称で売り出し中(笑)浜松城は家康が天下を取ったし、江戸時代は譜代の大名が次々と出世したことから出世城と呼ばれています。中でもやはり天下人の家康を売り出したいのでしょうね。
浜松城公園は本当に緑豊かです。しかしそのせいで石垣の外観などを見ることができず景観を損ねているという論もあります。
現在は浜松市役所と浜松市中区役所がある建物のあたりが、浜松城二の丸でした。
二の丸には「表御殿」と「奥御殿」があり、特に表御殿では年寄り詰所や勘定所など浜松藩の藩政の中枢となる場所でした。
ここでちょっと不思議に思いませんか?なぜ「二の丸」に御殿があるのか…と。その理由は浜松城で購入した資料を読むことで理由がわかりました。本丸には「御成御殿」(おなりごてん)という将軍家専用の御殿があったようです。江戸幕府の初代将軍が一時期居城とした城ですし、2代目の堀尾吉晴が豊臣系の大名であったため、江戸時代になって徳川家康を神格化するために、あくまで「浜松城は徳川家康のもの」というのを表したのかもしれませんね。この御成御殿は江戸初期しか使われなかったようで、本丸は象徴的な意味しかなさなくなり、二の丸の御殿が浜松藩の政治の中枢となったようです。その二の丸があった場所が現在は浜松市役所となり、70万人政令指定都市浜松市の行政の中心というのもなんかちょっといいですね…(まあ遺構がなくなった残念ですが…)。
二の丸御殿の説明板から80mほど行った市役所別館の端に「鎧掛松」があります。1572(元亀3)年の三方原の合戦で武田信玄軍に敗れ命からがら浜松城に帰ってきた徳川家康が鎧を脱いで掛けたことからこうよばれたらしいです。しかし、400万年前の松ならもっと大きいはず…。と思っていたところ、これは3代目の鎧掛松とのこと。しかも当時の位置とはだいぶ離れているようで、浜松城の整備と共に移転するようです。
鎧掛松から二の丸に戻って、そこから登って本丸に行きます。現代の石垣風コンクリートと傾斜スロープでちょっと雰囲気がでていませんね。
ここが本丸の曲輪です…といっても広いと思えないほど木が繁殖しています。
本丸部から天守曲輪にかけては往時の石垣が残されています…がここも木が邪魔してなかなか見えません。この本丸も周囲は石垣で囲まれ、北に大手門である「鉄門」、南に富士見櫓、南東の隅に二重の菱櫓があったといわれますが、詳しい本丸内部の様子は発掘調査が行われていないようで不明のようです。
2012(平成24)年度から始まる「浜松市制100周年記念事業 浜松城公園歴史ゾーン整備」で本格的に天守門とその塀が2015(平成26)年度までに復元予定。さらに2016(平成27)年度から本丸の一部の2020(平成31)年度までに富士見櫓と塀が復元される予定だと言います。そのために石垣の崩壊を促している大きな根を張る木や、石垣の景観を損なっている木を伐採する予定のようです。(浜松市のサイトより)この計画を見ると、このあたりの木はバッサバッサ切られるようですね。http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/lifeindex/enjoy/park/zone/index.htm)いいなあ政令指定都市や県庁所在地は…復元工事がバンバン進んで…七尾城も早く復元工事せんかい!一応能登地方の中心都市なんだから…。
本丸跡には浜松城イチオシの徳川家康の像があります。
いよいよ天守曲輪に登ります。この石垣は往時のものです。この石垣は「野面積み」と呼ばれる戦国期の積み方です。浜松城の天守台石垣は安土桃山時代に築かれたため、江戸時代のような大柄なものでなく、このようなちょっと粗い積み方になるんです。
天守曲輪に上がると復興天守閣が見えてきました。こちらはまったくの模擬天守閣で復元ではありません。
天守曲輪の入口には天守門がありました。石垣の形でそれがわかります。ここが今年度から3年間かけて復元される予定の場所です。今年度基礎工事を行っているのか、一部立ち入り禁止になっています。
では天守台に上がり復興天守閣に入ります。
天守閣の入口はグッズショップになっています。「出世大名家康くん」のマスコットのグッズがいっぱいありました(笑)
本もそこそこありました。安いので買った『浜松城と城下をめぐる』(300円)という本は、意外にも2009(平成21)年の発掘調査の内容など詳しく載っており結構楽しめました。お買い得かも。息子は最近、「今夜はヒストリー」(メイン司会関口宏)という番組のおかげで、めきめきと戦国好きに(笑)織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人を取り上げた回の中でどうも徳川家康が好きらしい。地味な私の息子らしい人選で、親子共通です(笑)息子のために戦国武将のクリアファイル(250円)を購入。娘もせがむので家康くんのキーホルダー
(530円)も購入。
左側の具足は「金蛇美具足」と言われ、桶狭間の戦い(1560年)で松平元康(後の徳川家康)が着けていたという伝承がある具足です。ですが、説明板にも書いてありましたが、あくまで伝承であり具足としては後世の作と考えられているようです。
おお!赤備えが!これは家康の家臣井伊直政のものですね。2010(平成22)年に「井の国千年祭」に家康くんも出陣したらしく「ひこにゃん」とのツーショットも(笑)
はんせい
浜松城下の模型がありました。これを見ると二の丸の御殿がよくわかりますが…本丸に天守閣がない!なぜ??……と思っていましたが、後で購入した資料を読むと理由がわかりました。江戸初期の絵図ではもうすでに天守閣は描かれておらず、天守台しかないようで、ここから江戸初期にはもう天守閣はなかったという見解のようです。その後結局江戸時代を通じて天守閣が再建されることはなかったようで、絵図などの資料がまったくないからこそ天守閣は復元できず、模擬天守閣しか作れないと言えます。浜松藩は天守閣がない浜松城の代わりに天守門が象徴的な建物になっていたようです。
復興天守閣最上階からの景色です。金網で景観が悪いのが残念です。この点は浜松市の浜松城公園整備計画でも問題点として挙げられていたので、今後改善する可能性があります。
天守台には西部分に張り出しが見られます。またこの部分はなんなんでしょうね?説明がないからよくわからないなぁ。あるいは天守閣が続いていたのかな?復興天守閣はこれ以上あまり手を加えないみたいで…無念。ん?張り出し部分に何か木碑が!ズームしてみると…「大切にしましょう三角点」……。なんだこれ…(笑)
浜松城天守閣から見る浜松市街の景色です。大きなビルがいっぱい。肌色の大きなビルは浜松駅前の超高層ビルアクトタワーです。こんな都心にある公園は緑豊かでいいですねぇ!
浜松城天守閣地下には井戸があります。飲料水の確保としてよく見れらる例です。その一角に「センゴク」の原画が飾ってありました。ここに飾る??もっと目立つところに飾れば…。
さて、復興天守閣を降りて美術館側へとなっている埋門があった方面へ
こちらも天守台の石垣がよくわかる部分です。
説明板で浜松城の野面積みについて詳しく説明してありました。
「八幡台 ここは天守台の北西にあたり、五段の石垣により天守台より高い。(中略)浜松城のなかで最も高い所(411.9m)である。城を守る神社(たぶん八幡大菩薩)をおまつりした所だといわれる。(後略)」と説明板にある。なるほどあの天守台の西にあり三角点があった場所は天守閣が連続した場所ではなく、神社があった場所なのですね。八幡宮が城を守るために天守閣の上位に位置づけられるって面白いですね。確かに日本人の思想の中に神社や仏閣が上位に位置づけられていたということを表している好例でだと思います。
これは本丸曲輪の埋門跡ですね。かなりくっきりと残っていますが、こちらは大手門ではないので残念ながら今回の復元計画から漏れています…無念。
本丸曲輪というか天守台の北の斜面です。かなりの高低差があります。
この北側は主要な発掘調査なども進んでいないようで、回遊式の庭園になっています。
ここに池があるのは偶然でもわざわざ作ったものでも無いようです。庭園の説明文によるとこうあります。「この庭園は、浜松城天守閣と作左山の谷間を利用し深山渓谷を表現した廻遊式の庭園です。」天守閣の北に作左曲輪とありましたが、表記が大まか過ぎてよくわかりませんでしたが、こちらは天守より低い山なんですね。なるほど。そしてこの池。おそらく浜松城の空堀と思われます。山と山の谷間を利用して空堀にしたんですね。さすが徳川家康。そんなことを考えながらめぐると、歴史的遺構ではない庭園もなんとなく趣が出てきます(笑)
浜松市は私が6年間住んだ第二の故郷です。だから近くでもありなかなか行かなかったところですが、改めてみるとなかなか見どころがあるような気がしました。
そして、2020(平成31)年度には天守門と富士見櫓が復元され新たな浜松城に生まれ変わります。その前に現在の浜松城を見ておきたいと思い訪城しました。今度はすべての復元整備が終わった8年後にまた来たいと思います。浜松は私の大好きな街ですから年に何回か必ず訪れる街です、だから訪問チャンスはいくらでもあります。8年後の整備を楽しみに…。
<浜松城天守閣>(情報はすべて2012年8月現在)
◇開館時間 午前8時半~午後4時半
◇休館日 年末(12月29日~12月31日)
◇入館料 一般150円、中学生以下無料