ワキ「これは思ひも寄らぬ事を承り候ものかな、さて誰とご覧ぜられて、山姥の歌の一節とはご所望候ぞ
シテの不思議な所望を聞いて、早速ワキは不審をします。それはそうでしょう。いかに都で高名な百万山姥といえど、彼女はこの山のふもとで乗物を捨てて、自らの足でこの山を登って来たのです。しかも上道・下道とある迂回路をあえて避け、最も厳しい登山を強いられる上路越の道を選んで登ってきた彼女は、随行員や道案内まで連れた物々しい大所帯の一行ではあるけれども、まさか都の芸能者とは想像がつかない方が普通でしょう。ところがシテは、まるで旧知ででもあるかのようにツレの名前を名指しし、それどころか彼女の謡う「山姥の歌」の一節まで諳んじているのです。。
シテ「いや何をか包み給ふらん、あれにまします御ことは、百萬山姥とて隠れなき遊女にてはましまさずや、まづこの歌の次第とやらんに、よしあしびきの山姥が、山廻りすると作られたり、あら面白や候
それに続けてシテが言うこの言葉がまた不思議。
シテ「これは曲舞によりての異名。さてまことの山姥をばいかなる者とか知ろしめされて候ぞ
ワキ「まことの山姥は山に住む鬼女とこそ、曲舞には見えて候へ
このところ、上記は下掛り宝生流のおワキの言葉なのですが、福王流のおワキでは微妙に言い回しが異なっていて、「曲舞にも見えて候へ」と謡われますね。「曲舞には」と謡う宝生流と「曲舞にも」と謡う福王流。ちょっとした事なのですが、ワキの答えのニュアンスはかなり異なります。
前者では「それは誰でも知っている定義で、現に百万山姥の曲舞でも同じように描かれている(あなたも聞き知っているらしいが、その通りなのだろう)」、後者では「自分もよく正体が分かっていないのだが、百万山姥が謡うこの慣れ親しんだ曲舞にはこのように謡われている(だから自分もそうなのかと思っている)」という感じで、前者には断言に近いニュアンスがあり、次のシテの言葉はワキにとって意外なものであるはずで、後者ではワキの山姥の実像の理解にはなお曖昧な点があって、これ以後ワキは説得力のあるシテの応対に次第に引き込まれてゆく事になります。
じつは、このあたりが前シテの登場の半分あたりにあたり、そして面白い事には、おワキは前場ではこの言葉を最後にして発言を控えるのです。この次にワキが言葉を発するのは前シテが中入した後。だからこそその沈黙の前の最後の言葉は『山姥』のワキという役のアイデンティティに関わるひと言なのです。つまりこれ以後シテが謡う長文の内容を注意深く聞くおワキの姿がそこにはあるわけで、その姿勢を表すのがこのひと言とも言える。ちょっとした ひと事ですけれども、お流儀によって よく文章が練られていると思います。
シテ「鬼女とは女の鬼とや、よし鬼なりとも人なりとも、山に住む女ならば、わらはが身の上にてはさむらはずや、年頃色には出ださせ給ふ、言の葉草の露ほども、御心には掛け給はぬ、恨み申しに来りたり、道を極め名を立てて、世上万徳の妙花を開く事、この一曲の故ならずや、しからばわらはが身をも弔ひ、舞歌音楽の妙音の、声仏事をもなし給はば、などかわらはも輪廻を免れ、帰性の善所に至らざらんと
シテ「恨みを夕山の、鳥獣も鳴き添へて、声を上路の山姥が、霊鬼これまで来りたり。
「よし鬼なりとも人なりとも」という文句には、ちょっと論理のすり替えがあるような気もしますが。。
ともあれ、この長文の謡の中でシテは自分が山姥の化身である事を名乗ります。これまた問題の多い文章ではありますが。。
シテの不思議な所望を聞いて、早速ワキは不審をします。それはそうでしょう。いかに都で高名な百万山姥といえど、彼女はこの山のふもとで乗物を捨てて、自らの足でこの山を登って来たのです。しかも上道・下道とある迂回路をあえて避け、最も厳しい登山を強いられる上路越の道を選んで登ってきた彼女は、随行員や道案内まで連れた物々しい大所帯の一行ではあるけれども、まさか都の芸能者とは想像がつかない方が普通でしょう。ところがシテは、まるで旧知ででもあるかのようにツレの名前を名指しし、それどころか彼女の謡う「山姥の歌」の一節まで諳んじているのです。。
シテ「いや何をか包み給ふらん、あれにまします御ことは、百萬山姥とて隠れなき遊女にてはましまさずや、まづこの歌の次第とやらんに、よしあしびきの山姥が、山廻りすると作られたり、あら面白や候
それに続けてシテが言うこの言葉がまた不思議。
シテ「これは曲舞によりての異名。さてまことの山姥をばいかなる者とか知ろしめされて候ぞ
ワキ「まことの山姥は山に住む鬼女とこそ、曲舞には見えて候へ
このところ、上記は下掛り宝生流のおワキの言葉なのですが、福王流のおワキでは微妙に言い回しが異なっていて、「曲舞にも見えて候へ」と謡われますね。「曲舞には」と謡う宝生流と「曲舞にも」と謡う福王流。ちょっとした事なのですが、ワキの答えのニュアンスはかなり異なります。
前者では「それは誰でも知っている定義で、現に百万山姥の曲舞でも同じように描かれている(あなたも聞き知っているらしいが、その通りなのだろう)」、後者では「自分もよく正体が分かっていないのだが、百万山姥が謡うこの慣れ親しんだ曲舞にはこのように謡われている(だから自分もそうなのかと思っている)」という感じで、前者には断言に近いニュアンスがあり、次のシテの言葉はワキにとって意外なものであるはずで、後者ではワキの山姥の実像の理解にはなお曖昧な点があって、これ以後ワキは説得力のあるシテの応対に次第に引き込まれてゆく事になります。
じつは、このあたりが前シテの登場の半分あたりにあたり、そして面白い事には、おワキは前場ではこの言葉を最後にして発言を控えるのです。この次にワキが言葉を発するのは前シテが中入した後。だからこそその沈黙の前の最後の言葉は『山姥』のワキという役のアイデンティティに関わるひと言なのです。つまりこれ以後シテが謡う長文の内容を注意深く聞くおワキの姿がそこにはあるわけで、その姿勢を表すのがこのひと言とも言える。ちょっとした ひと事ですけれども、お流儀によって よく文章が練られていると思います。
シテ「鬼女とは女の鬼とや、よし鬼なりとも人なりとも、山に住む女ならば、わらはが身の上にてはさむらはずや、年頃色には出ださせ給ふ、言の葉草の露ほども、御心には掛け給はぬ、恨み申しに来りたり、道を極め名を立てて、世上万徳の妙花を開く事、この一曲の故ならずや、しからばわらはが身をも弔ひ、舞歌音楽の妙音の、声仏事をもなし給はば、などかわらはも輪廻を免れ、帰性の善所に至らざらんと
シテ「恨みを夕山の、鳥獣も鳴き添へて、声を上路の山姥が、霊鬼これまで来りたり。
「よし鬼なりとも人なりとも」という文句には、ちょっと論理のすり替えがあるような気もしますが。。
ともあれ、この長文の謡の中でシテは自分が山姥の化身である事を名乗ります。これまた問題の多い文章ではありますが。。