後シテは鹿背杖を右につきながら登場します。。が、面白いのはその鹿背杖を、シテが右足を踏み出すときにつくよう型附に定められていました。これは突き杖~『藤戸』の後シテや、いくつかの尉姿の前シテなどが右手に持ち垂直についている細い竹杖~のつき方とは逆で、突き杖は左足を踏み出すときに右側に突くことになっているのです。もっとも、もとより ぬえは鹿背杖をついて出る役は初めてなので、ほかの曲も同じなのかはわからないのですが。。
後シテは一之松で正面を向き、二足ツメて謡い出します。これがまあ謡曲の中でも白眉の超名文です。
シテ「(面を伏せ気味に)あら物凄の深谷やな、あら物凄の深谷やな。(面を上げ)寒林に骨を打つ、霊鬼泣く泣く前生の業を恨む、深野に花を供ずる天人、返す返すも幾生の善を喜ぶ(と二足ツメる)、いや(と右へウケ)、善悪不二、何をか恨み、何をか喜ばんや(と正面へ向く)、万箇目前の境界、懸河渺々として、巌峨々たり(と前に鹿背杖を突いて左手を添え胸杖をする)、山また山、いづれの匠か青巌の形を削り成せる(と上を左右に見渡す)、水また水(と左にトリ)、誰が家にか碧潭の色を染め出だせる(と杖を突きながら舞台常座に正面向き入る)
「寒林に骨を打つ霊鬼、泣く泣く前生の業を恨む」「深野に花を供ずる天人、返す返すも幾生の善を喜ぶ」の「寒林」「深野」はともに墓場のことで(もっとも「深野」は正確には語義未詳で、『平治物語』にほぼ同文の例が見え、それには「温野」とあるので同意の語かあるいは誤写の可能性も考えられる)、文意は「死後に地獄に堕ちた鬼は自分の墓場に立ち戻ってみずからの死骸に鞭打ち、泣く泣く前世に犯した悪業を後悔する。また死後に天上界に昇った天人はみずからの死骸に花を供え、幾たびもの前世に善業を重ねた事を喜ぶ」というもの。なんとも凄まじい文章ですね。
輪廻の輪から抜け出せないで何度も何度も生まれ変わる我々は、たった一度の前世の悪業によって死後に鬼と変じ、一方 天人となるためには幾たびも幾たびも「幾生の善」を積み重ねなければならない。。「前生」「幾生」という、たった一字の違いがこれほどの含蓄を持つとは。は~~考えさせられる文章です。
続く「いや善悪不二、何をか恨み何をか喜ばんや」は言葉通りの意味で、仏教でいう悟りの境地のうえでは「善悪一如」ということなのですが、じつはこれも世阿弥が『風姿花伝』の中で引用している経文の句「善悪不二、邪正一如」の中にもに現れ、さらに『山姥』のクセの中では「邪正一如と見るときは。。」とあって、この句は分割されて『山姥』の曲の中にどちらも登場しています。
非常に哲学的で思索的な内容から、山姥の観察は目前の景色に移ります。「万箇目前の境界、」は「万物は目前に実存する」の意、「懸河渺々として」は急流が果てしもなく流れ去る様子、「巌峨々たり」は岩山が険しくそびえ立つさま。「山また山、いづれの匠か青巌の形を削り成せる、水また水、誰が家にか碧潭の色を染め出だせる」も詩的で大変すぐれた文章ですが、じつはこれも『和漢朗詠集』からの引用です。「碧潭」は「青々と澄んだ深い淵」の意。
この後シテが登場して謡う一連の文句は、経文や先行文学作品から あちこちと引用していながら、それが見事に統一感を持って共鳴し合っているのがすばらしいと思いますね。また「霊鬼」「天人」という想像の世界から「善悪不二」という思索におよび、さらに眼前の深山幽谷の場面に自然に目を移してゆく計算。この場面に漢文調の文章をたくみに組み合わせる事によって、お客さまの想像の中に自然に水墨画が浮かぶように設計さえ施されてありますね。。 ともかく凄い文章で、ぬえは初めてこの文を読んだときは鳥肌が立ちました。。
後シテは一之松で正面を向き、二足ツメて謡い出します。これがまあ謡曲の中でも白眉の超名文です。
シテ「(面を伏せ気味に)あら物凄の深谷やな、あら物凄の深谷やな。(面を上げ)寒林に骨を打つ、霊鬼泣く泣く前生の業を恨む、深野に花を供ずる天人、返す返すも幾生の善を喜ぶ(と二足ツメる)、いや(と右へウケ)、善悪不二、何をか恨み、何をか喜ばんや(と正面へ向く)、万箇目前の境界、懸河渺々として、巌峨々たり(と前に鹿背杖を突いて左手を添え胸杖をする)、山また山、いづれの匠か青巌の形を削り成せる(と上を左右に見渡す)、水また水(と左にトリ)、誰が家にか碧潭の色を染め出だせる(と杖を突きながら舞台常座に正面向き入る)
「寒林に骨を打つ霊鬼、泣く泣く前生の業を恨む」「深野に花を供ずる天人、返す返すも幾生の善を喜ぶ」の「寒林」「深野」はともに墓場のことで(もっとも「深野」は正確には語義未詳で、『平治物語』にほぼ同文の例が見え、それには「温野」とあるので同意の語かあるいは誤写の可能性も考えられる)、文意は「死後に地獄に堕ちた鬼は自分の墓場に立ち戻ってみずからの死骸に鞭打ち、泣く泣く前世に犯した悪業を後悔する。また死後に天上界に昇った天人はみずからの死骸に花を供え、幾たびもの前世に善業を重ねた事を喜ぶ」というもの。なんとも凄まじい文章ですね。
輪廻の輪から抜け出せないで何度も何度も生まれ変わる我々は、たった一度の前世の悪業によって死後に鬼と変じ、一方 天人となるためには幾たびも幾たびも「幾生の善」を積み重ねなければならない。。「前生」「幾生」という、たった一字の違いがこれほどの含蓄を持つとは。は~~考えさせられる文章です。
続く「いや善悪不二、何をか恨み何をか喜ばんや」は言葉通りの意味で、仏教でいう悟りの境地のうえでは「善悪一如」ということなのですが、じつはこれも世阿弥が『風姿花伝』の中で引用している経文の句「善悪不二、邪正一如」の中にもに現れ、さらに『山姥』のクセの中では「邪正一如と見るときは。。」とあって、この句は分割されて『山姥』の曲の中にどちらも登場しています。
非常に哲学的で思索的な内容から、山姥の観察は目前の景色に移ります。「万箇目前の境界、」は「万物は目前に実存する」の意、「懸河渺々として」は急流が果てしもなく流れ去る様子、「巌峨々たり」は岩山が険しくそびえ立つさま。「山また山、いづれの匠か青巌の形を削り成せる、水また水、誰が家にか碧潭の色を染め出だせる」も詩的で大変すぐれた文章ですが、じつはこれも『和漢朗詠集』からの引用です。「碧潭」は「青々と澄んだ深い淵」の意。
この後シテが登場して謡う一連の文句は、経文や先行文学作品から あちこちと引用していながら、それが見事に統一感を持って共鳴し合っているのがすばらしいと思いますね。また「霊鬼」「天人」という想像の世界から「善悪不二」という思索におよび、さらに眼前の深山幽谷の場面に自然に目を移してゆく計算。この場面に漢文調の文章をたくみに組み合わせる事によって、お客さまの想像の中に自然に水墨画が浮かぶように設計さえ施されてありますね。。 ともかく凄い文章で、ぬえは初めてこの文を読んだときは鳥肌が立ちました。。