ぬえの能楽通信blog

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巡りめぐりて輪廻を離れぬ~悩む『山姥』(その13)

2007-12-04 01:42:28 | 能楽
「年頃色には出ださせ給ふ、言の葉草の露ほども、御心には掛け給はぬ、恨み申しに来りたり」この文句の最後のところ「恨み申しに来りたり」には、謡本にもわざわざ「手強ク」と注記がされていますが、ぬえが内弟子時代に『山姥』の謡の稽古を受けたときには「そんなに強く謡っちゃいけない。。(シテは)怒っているわけではないんだから」と師匠に言われたのをよく覚えています。

当時の ぬえはまだ文意を推し量りながら謡うことなど不可能な時期でしたし、ましてや行間を読むなどは思いも寄らぬ事でした。その後は、『山姥』はよく出る曲ですし、地謡に座りながらシテの謡をよく聞いているうちに、段々とわかってきた事もあります。彼女。。と言えるのかどうかわかりませんが、山姥は悩んでいるのですね。。

まず「年頃色には出ださせ給ふ」とシテに言われるように、ツレ百万山姥は都で高名をはせていたようで、山姥はその様子を遠くの山から望み見ていたのでしょう。ところがツレは自分が謡う言の葉の、それを実在する植物とたとえてみても、その先から垂れる露ほどにも「まことの山姥」の事を考えたことはなかった。これをもってツレは山姥が実在せず、想像の産物だと思っていたのかどうかはわかりませんが、現代人とは違うのだから、山姥の存在は信じていても、実際に会う事は難しいから想像に任せて作詞した、というあたりなのではないかとは思います。

そうだとするならば、山姥の存在を信じるツレは、それなのに想像を勝手に巡らして山姥を脚色した事を、まことの山姥は怒ったのでしょうか。いやそうではなくて、シテはツレが山姥の供養をしなかった事を恨みに思っているのです。

シテ「しからばわらはが身をも弔ひ、舞歌音楽の妙音の、声仏事をもなし給はば、などかわらはも輪廻を免れ、帰性の善所に至らざらんと、恨みを夕山の。。」

山姥が口惜しく思っているのは、みずからは省みられずにツレ百万山姥ばかりが賞賛を浴びる事への嫉妬ではないでしょう。山奥に住んで誰からも供養されない山姥の身が、たまたま自分の事を曲舞に作って売り出した芸能者が出現した事を知って喜び、しかし彼女は自分への賞賛は欲しいままにしながら、まことの山姥のことはやはり一顧だにせず、「弔ひ」や「仏事」をしない。。山姥が自分の肖像権の利用に対する対価としてツレに期待していたのは、ツレと同等の名誉でもなければ、みずからの実像を取材もせずに脚色した慰謝でもなくて、自分を「弔ひ」、「仏事」を行ってもらうことによって「輪廻を免れ」て成仏する事だったのです。う~~ん、いかにも中世の色が濃い能です。

ところで話はそれますが、このシテの言葉の中では、やはり「道を極め名を立てて、世上万徳の妙花を開く事、この一曲の故ならずや」という文句が、いやでも目につきますですね。。

この言葉は言わずと知れた世阿弥の用語ですが、それが世阿弥が残した膨大な伝書の中で特段に目を引き、世阿弥の用語とまで言い得るのは、この言葉が『風姿花伝』の「奥義云」の中で、跋文を除いた本文の結論として用いられているからです。

「正直円明にして世上万徳の妙花を開く因縁なりとたしなむべし」(『風姿花伝』「奥義云」)

試みに訳してみれば「(芸道に対して)正直公正であるこ事こそが、貴賤を問わず世上のすべての人々の感銘を得る芸に至る根本的な条件となると心得よ」といったところでしょうか。けだし名文の誉れ高い一文で、この語が使われている『山姥』が世阿弥の作と考える根拠になると思います。『風姿花伝』自体は世阿弥が系統立てて著述したものではなく長い年月に書き記した伝書をまとめたもののようですが、「奥義云」は執筆年代こそ特定できないものの内容の上でもほかの伝書よりも比較的後に書かれた公算が大きいようで、そうなると、やはり『山姥』は、世阿弥の作品としては成立が遅いのではないか、と ぬえが考えるのもあながち間違いではないかも。

ちなみに『山姥』の中には ほかにも世阿弥が伝書で用いた印象的な用語が現れます。それは「クセ」の中なのですが。。それはまたその解説の時に。。