ぬえの能楽通信blog

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巡りめぐりて輪廻を離れぬ~悩む『山姥』(その15)

2007-12-07 00:39:29 | 能楽
シテが中入りすると。。ふいに空が明るくなります。さてこそ山姥の霊術によって一時的に夜なっていたものが、彼女が去るにおよんで再びもとの時刻にふさわしい空の明るさに戻ったのです。このところ、お狂言方の最初のお言葉が光りますね。

「。。また夜が明けた」

何気ないひと言なのですが、「不思議。。」という感情がとってもよく表れていて、地謡に座っている事の多いぬえは感心するお舞台が多い場面です。。と言うか、このひと言が光るようにお狂言方も格別に工夫しておられるように感じるので、大切にされている言葉なのかもしれません。

以下、『山姥』の間狂言の本文を掲出しておきますが、間語りとしては珍しく滑稽な内容の文言ですね。アシライ間ならばともかく、語リ間でこれほどおかしみを狙った曲もちょっと他に例がないのではないでしょうか。だからこそ、最初の「また夜が明けた」が、お客さまの耳に利くように謡われるのかもしれません。

<注>以下間狂言の本文は小学館「日本古典文学全集」に拠ります。ただし底本(山本東本)には冒頭の「また夜が明けた」という文言はなく、また底本では間狂言が山姥の素性を一つ言う度にワキと短い問答が交わされる形になっていますが、現行の演出では山姥の素性についていちいちワキとの問答はなく、間狂言が次々に語る形式になっているので、今回はその問答の部分を省略しました。

アイ「やれやれ なかなかの事かな。最前は暮れまじき日の俄に暮れたると存じて候へば。また夜が明けて満足申して候。まづこの由を申さう
アイ「いかに申し候。最前は暮れまじき日の俄に暮れたると存じて候へば。夜が明けて満足申して候
ワキ「げにげにまた夜が明けて候。方々は山中近く渡り候ほどに御存じ候べき。山姥には何がなり候ぞ
アイ「これは思ひも寄らぬ事をお尋ね候ものかな。我等も山中近く住み候へども。さやうの事詳しくは存ぜず候さりながら。およそ承りたる通り御物語申さうずるにて候。
アイ「まづ山姥には山にある団栗(どんぐり)がなると申し候。まづかの団栗が熟致いて谷へひょこ転びに転び落ち、それへ木の葉が取り付き、性根が入り、もとより団栗が目となり、これがおそろしき山姥になると申す。さるによって人の目の大きなるを団栗目と申し候。まだ何やら山姥になると申したが。おおそれそれ、山姥には息する野老(ところ)がなると申し候。まづ四五月の頃には五日も十日も雨の降り続く事がござる。さやうの時分には、えて山の崩るる事があるものにて候。その崩れたる間より、野老がちよとあらはれ、それへ塵芥が取り付き、手足胴体が出来、目鼻が揃ひ、野老の髭が曝れて白髪となり、これがおそろしき山姥になると申し候。まだ何やら山姥になると申したが。おおそれそれ、山姥には山中に総構へに建てたる木戸がなると申し候。まづ山中にいつたん門を建てたれども。その後修復も致さねば、扉も屋根も腐り果て、柱ばかり残り、それへ蔦葛が這ひまとひ、もとより性根が入り、頭胴体手足が揃ひ、これこそおそろしき山姥になると申す。さあるによつて山姥は、山にある木戸、と承りて候
ワキ「いや、鬼女にて候べし。木戸にてはあるまじく候
アイ「木戸。鬼女。まことに我等の覚えたるは片言にて、都の御方に定説を承り満足申して候。さてあれに御座候はいかやうなる御方にて候ぞ
ワキ「あれは都にて隠れもなき、百万山姥にて候よ
アイ「これは言語道断、奇特なる事を承りて候ものかな。さて最前の女の申したるは。山姥の一節を御謡ひあらば。我等がまことの姿をあらはさうずる由申して候。山姥の一節を御謡ひあって。我等にも山姥のまことの姿を見せて賜り候へ
ワキ「さあらばやがて謡はせ申し。山姥のまことの姿を見うずるにて候。方々もそれにて見られ候へ
アイ「心得申して候